(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!!!)
ガンガンと足音を響かせながら、オベロンは廊下を歩く。
ざわりと彼の髪は逆立ち、全身に怒気を張り巡らせている。彼の怒りにつられ、虫たちがさざめく。
「ちょっと、――オベロン!」
マスターの左手を乱暴に掴んだまま、静止の声を無視して、オベロンはマイルームを目指した。
あまりの形相に道行くスタッフは慌てて壁際により、すれ違ったサーヴァントは一瞬中腰(戦闘態勢)になるも、必死にマスターが首を横に振った。自分がやらかしたっぽいと困り眉で叫んで、事なきを得ている。たまたま人の好い(慎重派)サーヴァントだったので見逃してくれたのだろうが、過激派に遭遇すれば、問答無用だ。
私闘御法度のカルデアに所長とシオンとダヴィンチちゃんとネモ船長の雷が落ちることだろう。
(それこそ、少し前にオベロンとモルガンがやらかしている。被害:オベロンの自室が全壊。修繕時期未定だ)
冷や冷やとしながらも、無事にマイルームが見えた。
しかし、立香はほっと息を吐く間もなく、バンッとその左手を認証パネルに叩きつけられる。
「痛、い、痛いよ。オベロン!」
ほぼ引きずるようにして歩かされ、我慢の尾も切れるというもの。この野郎、終いには令呪使ってやろうかと剣呑に立香が内心構えたが、直観でそれは悪手だと思い留まる。オベロンは彼女ごと部屋に入ると、即、部屋の扉を閉めてロックする。逃げ道を塞ぐかのような様相に、令呪があるほうの、力を込めた手がひくりと戦慄いた。
ふーっふーっと荒い息を吐くオベロンが振り向き様に、どんっと壁に立香を押し付ける。そして、ガガンッとひと際大きな音を立てて、彼の異形の左手が立香の真横を殴った。わんと空気が撓んで耳奥でぐるぐるとする。アラームなるんじゃ、と襲撃ショックで設置されているシステムを立香は心配したが、ここ最近マイルームで小競り合いが増え、多少のショックでは鳴らないように警戒レベルが引き下げられていることはダヴィンチちゃんのみが知る。
お陰様でアラームは鳴らず、オベロンの怒りの呼気だけがマイルームに響いている。
なぜ彼はこんなにも怒っているのだろうか。
先ほどのシミュレーションルームでのやりとりを反芻する。マシュが大事だと、そう告げただけなのだ。それが気に入らないのだとしても、藤丸立香にとって、マシュは特別、自分の全てが彼女なのだ。変わらない、変えられない事実。理解できない・納得できないというなら、耐え難いことだが、彼には暫く距離を置いてもらうしかない。
しくりと胸の奥が痛んだ気がしたが、立香はぐっと喉奥に押し込んで、掴まれたままの己の腕にある彼の人の手に指先を添える。
「オベロン……」
ははっと彼から嘲笑が零れる。ははははと終いには天を仰いで、哄笑しだした。
「オ、ベロン」
その異常さに流石に立香も戸惑った。どうしよう。どうしたらいい?怒っている。これ以上ないほど、彼は怒っているのだ。段々と焦りは悲しみになる。怒らせたかったわけじゃない。理解してほしかっただけなのに。どうして、――否、分かり合えないことは最初からだったのに。彼が、彼が優しくするから、分かり合えたような気がしてしまったのか。
立香の怒りが伝わったように、彼女の悲しみもまたオベロンに届く。
はーっとひと際大きく息を吐き、彼はマスターを見下ろした。
「マシュ・キリエライトがきみの全てなの?」
先ほどの続きだ。立香は分からないながらも真実を告げるしかない。こくりと頷く。
「そう。そう。ああ、そう。じゃあ、これ?」
すっと彼の異形の手が彼女の心臓の上を指さす。
命という意味だろうか?困惑しながら立香は底冷えする蒼の瞳を見やる。
「きみの俺が好きだって気持ち」
「!」
「全部、なんだろう?きみが俺が好きなことも、俺に優しくされたいのも、手を繋いでキスをするのも。ぜーんぶ、マシュにあげるんだろう?」
「そ、それは……なんて言えばいいのか。そもそも、あれはオベロンが勝手に」
「俺が?」
「……」
言い返せずに立香は瞳をうろうろと彷徨せる。あの時―マイルームで足を滑らせて、抱きしめられて、キスをされて、嬉しんだ心を見透かされて以来、時折、戯れのようにこの妖精王は人気のない場所で立香とキスをするようになった。何も言わない彼にどんなつもりで口づけるのか、立香に問うことは出来なかった。何もないふりをするしかなかった。
やめて、と言うべきだった。何のつもりなのと、でも、言えなかった。
言わないという選択をしたのは、他ならぬ立香自身だった。
言葉ならず、はくはくと口を開閉する彼女を見て、オベロンはぐっと顔を寄せた。ふっと笑った彼の呼気が立香の唇に触れる。
「なあ、教えてやろうか。あの純真無垢なマシュに。きみの大事な大事な先輩は、この世で最も醜悪な虫に恋をして、その身を汚してるって」
かっと頬に、首に朱が昇る。怒りに染まった強気な黄金がオベロンを貫く。
「言い方――!」
「ああ、ごめんねぇ。初心なきみたちには似合わぬ言葉を使ってしまったね。でも、本当のことだろう? 俺に口づけられて、舌を弄られて、全身を弄られて、喜んでいるのは――誰だっけ?」
強い瞳のまま、立香の目に涙が滲む。この焦がれる想いを、慰撫に踊る心を、醜悪で淫らで見っとも無いと嗤われて、辛くない―などと、強がれない。
「可哀そうに。いいとも、慰めてあげるよ、哀れな汎人類史のマスター。いい機会だ。今日は最後までシテあげようか。そうして、全部感じた心を、全部ぜんぶ、あの娘に捧げてみろよ」
ぱんっと軽く、重く打つ音が鳴る。張られた衝撃のままに、オベロンは視線を右下に向ける。
はっはっと荒い息が立香から零れ、ひっうっと嗚咽が漏れる。
「ごめ、ごめんな、さい。痛い、ごめん。ごめんね」
(こんな時まで――!)
こんな辱めを齎した他人の心配などするなと叫びたかった。瞳が滲む。オベロンの方が泣きそうだった。
ピッ―と来訪を告げる音がする。
『先輩? マシュです。シミュレーションルームから戻られたとのことですが、何やら様子がおかしいと先ほどスタッフの方から連絡がありまして。大丈夫ですか? 何かトラブルでしょうか。あの、私に何か出来ることはありませんか?』
するりとオベロンは掴んでいた手を離した。ハッと立香は顔をオベロンに向けるが、なんと声をかければいいのか分からず沈黙する。オベロンは静止が無いまま、扉に立ち、ドアを開錠する。
「あ」
「……」
先輩、と声を出そうとしたマシュは自分を冷たく見つめる妖精王に、一歩、足を後ろに引いた。そのままオベロンが歩き出したので、マシュは続けて二歩三歩と下がる。オベロンは最初の一瞥以来マシュを見らずに、廊下の奥へと歩いていき、やがて闇とともに消えた。
座り込みそうになる己に気づき、マシュはお腹に力を込めた。怯んでいる場合ではない。彼女の最優先事項は、部屋の主だ。開かれた室内にそうっと足を踏み入れ、―扉直ぐ傍の壁によりかかる彼女の愛おしい人を見つける。
「せんぱい!? どうしたんですか、どこかお加減が!?」
ダヴィンチちゃんか医療チームを呼ぶべきかと、近くのコール端末に手を伸ばしたマシュの手を立香が掴んだ。――冷たい手だった。
「先輩・・・。オベロンさんと何かあったのですか?」
「どうして?」
「だって、先輩の手が、・・・震えています」
ずっと鼻をすする音がする。俯いているが、その顔が涙に濡れていることは隠しようがないだろう。ぐっと両膝に顔を埋めて、立香はマシュに話しかける。
「あのね、私ってば本当にダメなマスターでごめん」
「何を言うんですか!? 先輩は、先輩はダメなんかじゃありません! 私の尊敬する、とても大切な人です。だから、どうかそんな悲しいことを言わないでください」
「・・・。マシュ、呆れずに聞いてくれる?」
「もちろん、もちろんです。――先輩」
「あのね、私ね、オベロンのことが――、好きだったの」