飛んで火にいる夏の虫

わいわいがやがや。――食堂から廊下まで、カルデア中が騒がしい。
アゲハ蝶の如き翅を閃かせて、オベロンは舌打ちする内心をひた隠し、速やかに人々の群れを通り過ぎていく。うっかり翅があたりそうで、第二臨の姿になれば良かったと後悔した。
廊下の反対側から知己の顔を見つけて、オベロンは「やあ」と片手を上げた。
「アルトリア。これは一体何の騒ぎ?皆、随分と楽しそうじゃないか!まるで収穫祭でも始まるかのようだよ。
いや~、僕としたことがすっかり寝過ごして夏の時期を通り過ぎて、秋の季節まで時空が飛んでしまったのかな?」
(意訳:どいつもこいつも五月蠅いんだよ。とうとう、頭のネジが飛んで季節感すら無視するようになったのか、このトンチキ汎人類史は?)
正確にその言葉の裏を読み取って、アルトリアと呼ばれた金髪の少女は顔を顰めた。さながら、先日村正にうっかり勧められるまま梅干しを食した時のようだ。(この時、オベロンは盛大に爆笑していた)
はぁ~と杖に体重を乗せながら、彼女は胡乱気にオベロンを見つめる。ばさりと彼の翅が閃いて、恐らく答えない限りこの路を通してくれないだろうことが分かった。
(他の人に聞けばいいのに――。変なところで人見知りしますよね、この人)とアルトリアが内心で呟けば、オベロンがにっこりと微笑んだ。薄目に開かれた目が冴え冴えとした光を放つ。
もう一度、はあとため息を吐いてから、渋々と彼女はその薄紅色の口を開く。
「メンドクサイなぁ~(東の国、立香の故郷のお祭りをしようって盛り上がっているらしいですよ)」
「おい」
うっかり妖精王らしからぬ言葉が出て、んんっとオベロンが口元を握った手の平で押さえる。
「えへんおほん。……ふーん、マスターの国のお祭りねぇ?ところで、アルトリア。君はこれからどこへ行くのかな」
もう一度、オベロンが微笑んだ。とうとう、アルトリアの顔が梅干しのように皺くちゃになった。
「あ゛~、だから嫌だったんですよ!折角、立香を独り占めしようと思っていたのに~」
地団太でも踏みたそうに彼女が足をもだもだと動かす。それを冷笑で迎え撃って、オベロンは来た道とは違う方向に、そう、アルトリアの進行方向に体の向きを変えた。

いざ行かん!マスターの部屋へ!

アルトリアとオベロンが連れ立って、マスターの部屋に辿り着く頃、部屋から一人の女性が現れた。すらりとした肢体を右に左にゆらゆらと。やがて、くたりとその身を廊下の壁に預けるようにしな垂れた。
「「?」」
具合でも悪いのだろうか、と二人が声を掛けようとしたところで、妖精眼が真実を映し出す。――ビシリと二人の歩みが止まる。
あ゛~という美女に有るまじき、うめき声が女の口から零れ落ちた。
「あぁっ。我ながら恐ろしい輝きを生み出してしまいましたぁ。フヒィイ!無理無理無理。輝きが強すぎて、私、溶けてしまいますぅう!」
正に恍惚という顔を曝した女性、名をミスクレーンと言う。ハベにゃんと並んで、カルデアの服飾部に属するものだ。その彼女が、デロデロに蕩けた状態でマスターの部屋から出てきた。
ということは……?
「あの、……」
オベロンに脇を突かれて、顔を引きつらせ半笑いの笑みを浮かべたアルトリアが彼女に話しかける。その声に、溶けていた女は自分の傍に他人が居るという事実に気が付く。失礼しました!と口元の涎を拭いながら、しゃんと背筋を伸ばす。
「麗しの妖精の方々。大変お見苦しいところをお見せし、誠に申し訳ございません。……でも、あぁ、ああ!マスP様の艶姿!どうにも私この衝動を抑えきれず!ああぁ、――しゅきぃ」
凛とした佇まいは10秒と持たなかった。再び、冷たい廊下の壁に頬ずりを始めた女を二人は隠しようもなくドン引きしながら、見つめる。埒が明かぬと思ったオベロンが、お大事に~☆と言いながら、彼女を放ってマスタールームへと足を踏み入れる。おっかなびっくりオベロンに続いてアルトリアも彼女の横を通り過ぎた。抜き足差し足。
「マスター? 失礼するよ」「お邪魔します~」
二人の声に部屋の中の人物が振り返った。何時も奔放に風に閃く橙色の髪は見当たらない。その後ろ毛は、緩やかに巻き取られて、紫色の花飾りに仕舞われている。その為、彼女のほっそりとした首が曝されて、蛍光灯の明かりを直に受けていた。常ならぬその後ろ姿に二人は言葉を失う。
「オベロンにアルトリアじゃん。どうしたの?」
藤丸立香・人類最後のマスターであるその人が振り返れば、カランコロンと心地いい木の音が彼女の足元から鳴る。彼女の礼装の白とは異なるものが彼女の身を包む。長方形と言えばいいのだろうか?ストンと直線のシルエットに黒いラインが横切るように彼女の腹の少し上を走っている。白いその布はよくよく見れば、銀糸の文様が入っているようで、キラキラと照明の光を反射している。二人は知らないが、透かし織りという技法で繊細に仕立てられた布地を組み褪せて作った、ミスクレーン渾身の浴衣であった。その上に、キリリとした黒が差し色として引き立てる。こちらもただの黒ではない。薄く碧みがかった光沢のある生地だ。しゃらりと彼女の耳元で紫の花枝垂れが鳴る。聖杯からの知識でそれが藤の花を象ったものだと二人は理解した。藤――、彼女の名を冠する花。扇状の何か、団扇と言うのだそうだ、を手に持って、立香がはにかんだ。
「立香、綺麗――」
すっかり止めていた息を押し出すようにして、アルトリアがうっとりと呟いた。いつもの、元気印花丸満点の溌溂美少女ではない。しっとりとした、大人の女性の美しさだった。ぷっくりとグロスで彩られた口元をゆるりと持ち上げて、立香が頬を染める。少しだけ伏された瞳が羞恥を湛えたまま、二人に向かう。
「夏祭り――って分かる? 私の居た故郷でね。夏になると、色んなところでお祭りをやるんだ。花火に山車に、色々。出店も。そういう時にね、これ、浴衣っていうんだけど。伝統衣装になるのかな。こういうのを着てね、皆でお祭りを楽しむんだよ。……そろそろ夏だね、って話をしてた時にうっかり浴衣の話をしちゃったら、皆やる気になっちゃって」
えへへ、と再び照れ臭そうに立香が笑う。随分と久方ぶりに着た故郷の服。それが懐かしくて、嬉しくて。立香の心の躍る様が手に取るように分かる二人には、それは眩しいものだった。今も部屋の横の廊下で溶けているであろう彼女程ではないが――。
『綺麗だよ』と嘘か本当か分からぬ言葉をオベロンが言う前に、他のサーヴァント達が乱入してきて、あっという間に彼女を連れたってしまった。慌ててアルトリアは彼女を追い、オベロンは独りマイルームに居残る。本日のマイルーム当番だった。誰の目も無くなったところで、姿を第三臨のものへと変える。少しだけ猫背になり、気だるげにベットへと足を進めた。――と、鏡の前で自分の姿を見やる。白い草臥れたブラウスに黒いマント。彼女の凛とした佇まいとは似ても似つかない姿だ。
(別に――どうとも思っちゃいないさ)
は˝ぁ~と腹の底から息を吐きだしながら、オベロンはマスターのベットの上に倒れ伏した。遠く、部屋の向こうから、ピーピードンドンという楽器の音が聞こえる。その音を聞きたくなくて、頭からシーツを被った。暗い視界の中、眠りを必要としないはずの彼はウトウトと微睡む。その鼻腔に嗅ぎなれた少女の匂いが届く。彼女の残り香。いつも通りのその香りに安堵しながら、オベロンは意識を手放した。

(――ロン、)
奈落の底を回帰しながら眠りの狭間にいるオベロンが、誰かの声を捕らえた。聞こえる。ああ、その声は聞いたことがある。全て終わらせて、眠りついた彼を呼ぶ声。きみの声は何時だって……。五月蠅いぐらいに良く聞こえるんだ。
「オベロンってば!」
暗闇に光が突き刺した。瞬く目を横に向ければ、シーツを両手に立香が立っていた。
「もー、ずっとここで寝てたの?」
お祭り終わっちゃったよ?と浴衣に身を包んだ立香が嘆息する。
「ふあ~あ。……どうでもいい」
「さいですか」
案の定、興味など無いというオベロンの様子に立香は肩を降ろした。まあいいかと彼女が再びオベロンに言葉を掛ける。
「私、シャワー浴びてくるから。戻りたかったから、部屋に戻っていいからね」
オベロンから剝ぎ取ったシーツを二つ折りにして、ベッドの端に置いた彼女は、くるりとその背をオベロンに向けた。ゆらりと黒い帯が弧を描く。だからだったのだろうか、咄嗟にオベロンがその背に手を伸ばしてしまったのは。
しゅるり。
あまりにも呆気なく、その帯はオベロンの手の平に収まった。
「「え?」」
異口同音が部屋に落ちる。二人は呆然とオベロンの手の平の帯を見た。オベロン自身それほど力を込めたつもりはない。殆ど無意識に行われたそれ。力など込めようも無い。けれど、帯は稚く解かれた。
「ちょ、ちょっと!?」
腰ひもがあるため、着崩れはしなかったものの、帯が無くなって一気に頼りなくなった我が身。立香は慌てて胸元を押さえた。彼女の脳裏に浴衣を仕立てたミスクレーンとの会話が蘇る。
『マスP様。折角の休日ではございますが、ここは戦の最前線。いつ何時、有事が起こりえるとも限りません。……ですので、この衣は着脱が容易になるように仕掛けをしております。芯であるこの端を引いて頂ければ、するりと脱げますので』
恐らくオベロンは、的確にその端を掴んでしまったのだ。この男、いらぬところで幸運EXを発揮しよる。オベロンに詰め寄る寸前、もう一つの言葉が立香の脳内で再生された。
『ええ。ええ。殿方の手は煩わせませんとも!』
ホホホと笑う彼女のその言葉の意味をその時は良く分かっていなかった。スタッフに着替えを手伝ってもらうことは無くも無いが、何故に男性限定?と首を傾げただけだった。オベロンの手に収まった黒い帯を見て、その真意を理解する。かぁと立香の頬が朱に染まった。
(つまり……そういうこと!?)
ここで忘れてはならないのが、オベロン・ヴォーティガンという男の存在である。彼はもはやチートとも呼べる妖精眼持ち。彼女の脳内など握った帯のように簡単に手に取れる。
「へえ」
暗い昏い井戸の底を思わせる声が立香に投げかけられる。彼は嗤った。
「一体、何処の馬の骨――、いや、英霊の殿方を想定していたのかな?」
「ち、違う!そんなんじゃないから、もう!……いいから、その帯返してよ!」
立香がオベロンの手から帯を取り返そうと詰め寄った。それをひらりと避けたオベロン。ととと、と立香の足元がたたらを踏むも、鍛え抜かれた反射神経でなんなく事なきを得る。拳に力を込めて振り向いた立香の足元が思わぬほど深く、もうひと揃え、立香よりひと回り大きな足元に交わる。
(え――?)
立香の目の前に立つ、オベロンの両手に帯の端が握られている。自分の背を押した存在が何か、一瞬分からなかった立香だが、それは彼の手に握られた黒い帯だったと気づいた。鼻先が振れそうな程近くにオベロンが居る、その事実に立香の鼓動が大きく跳ねる。からからに干上がった喉から絞り出すように立香が言葉を発する。
「帯……返して」
「返してるだろ?」
にやりとオベロンが笑う。違う、と内心で立香は反論する。上手く言葉にならなくて、困り果てる。揶揄われているのが分かっているけれど、どう躱せばいいのか分からない。心の距離も、そして、現在のこの身の距離も――。分からないから視線を逸らした。その逸らした先に姿見があり、立香とオベロンの姿を映し出していた。男女がこれ以上ない程近くに寄り添う姿。ともすれば、抱き合っているようにも見える。彼と彼女を繋ぐ、黒い帯。命綱のようなソレ。ふと鏡越しのオベロンと視線が交わった。
「――ねえ」
立香はその声に応えない。もう一度、オベロンは鏡の向こうの立香に呼び掛けた。
「この、ユカタ?だったけ。この色さ、今気づいたけど、――」
ドンとオベロンの胸元を押したが、よろめきすらしなかった。流石は英霊。ちくしょう。と立香は唇を噛んだ。
「あは!やっぱりそうなんだ? これ、俺の色か」
白いブラウスに白い着物。黒い帯と黒いマントは、とてもよく似た色合いだった。古今東西。誰かをイメージした色を纏う意味は、それほど差異が無いのではないだろうか?――その誰かを想う心は、きっと世界共通だ。
クスクスと笑う声に耐えきれず、立香は狭い囲いの中でも必死に体を反転させてオベロンに背を向けた。両手を顔で覆ったまま。その縮こまる背に冷たい温度が寄り添う。
「りつか」
甘い音――。その衝撃たるや。動揺に揺らめいた立香の足元からカランと木が鳴る。咄嗟に両手を外して確保した視界の先、不埒な男の手が彼女の腰ひもを掴んだところを見た。
「待って!」
しゅるり。はらり。衣擦れと共に一気に彼女の胸元が緩んだ。顔から離した両手で袂をぎゅうと掻き合わせた。なんで?と震える彼女の声に、背後からオベロンがうっそりと微笑み、答える。
「おっと。間違って紐を掴んでしまった。ごめんごめーん。ほら、今結んであげるよ」
抜き去ったピンクの腰ひもを遠くの床に放り投げて、オベロンは黒い帯を適当に結び直す。緩すぎるその結び。立香は辛うじて片手を袂から放し、帯に手を伸ばした。もう少し縛らなければ、と思ったのだ。その体を後ろから抱え込んで、その作業を邪魔するオベロン。流石に立香が憤慨する。
「オベロン!やめてったら!」
後ろが向けないので、もう一度、鏡越しにオベロンを睨みつけた。その燃ゆる瞳を受け止めながら、オベロンは大きく口を開いた。がぷり、とその鋭い歯を彼女の項に突き立てる。びくりと立香の身が震えた。確かに噛まれているが、甘噛みだった。首の形を確かめるようにオベロンが数度彼女の項を噛む。そして、れろりと人より少しだけ長い舌で彼女の肌を舐め上げる。
「あっ!」
彼女の体がしなる。喉と顔を空に向けて、その背の感触から逃げようとする。ぎゅっと絞られた黒い帯がそれを許さない。ちゅっ、れろ、じゅう。と続けざまにオベロンが彼女の肌を吸い上げる。その度に、立香の口から酷い声が転び出た。彼女の腹の上にあるオベロンの手を握りしめ、必死に耐え忍ぶけれど、どうにもできず、足元が震えだす。カラコロと下駄が不協和音を奏でる。ひと際強く啜り上げてから、漸くオベロンは立香の項から口を離した。はぁはぁと息を荒げる立香の体をしっかりと抱きしめて、再び鏡越しに彼女と視線を合わせる。蕩けた蜂蜜色の瞳と蒼い瞳が絡む。
「ほら、見て。――俺の翅、きみのオビみたいじゃないか」
普段、飾りだと声高にいう彼の薄羽はひらりひらりと閃いている。蝶々結びの帯があるくらいだ。確かに、帯に見えなくも無い。でも、そんなことはどうだっていい。熱に浮かされた男と女が抱き合っている。その姿しか立香の目には情報として入ってこないのだ。ゆうるりと口角を上げて、オベロンが立香の耳元で囁く。
「今夜一晩だけ、……虫の翅の飾りはどう?」
きっときみに良く似合う、とオベロンが言った言葉に、立香は目元を涙を纏わせてこくりと小さく頷いた。

飛んで火にいる夏の虫――。

さて、どちらのことか。夜の熱に身を焦がす二人にはどうでもいい事だろう。