協奏曲★八章:閨にて希う人

『えー! うーん、いや、いいけどね。最近シミュレーションルーム借用依頼が多いからさ。分かってると思うけどもリソースは有限だ。使い終わったら直ぐに退出してね』
ダヴィンチちゃんから小言を貰いつつも、無事にシミュレーションルームを借りることが出来た。
「さて。お望み通り邪魔が入らないように場をセッティングしたけど」
何と無く用向きは察していたので、ため息一つ。正直気乗りはしないが、時間を取ってほしいと言われれば、マスターとして答えねばならない。後ろを振り返れば、虫の羽連ねた漆黒のマントを纏う妖精王オベロンが草花咲き誇る森の中に立っていた。

シミュレーションルーム内の設定は彼に任せたが、ウェールズの森とも異なる。少し離れた場所には小さな湖がある。そよそよと春の風が躍る場所だった。
だが、彼らしくなさ過ぎて、突き合せた顔の笑みが引きつってしまうのは許してほしい。
「悪かったね。らしくなくて」
棘のある嫌味が飛んできた。妖精眼はずるくないだろうか、この場合。まあ、他の場面でずるくない時があるかと言われれば、うん、――中断中断カットカット思考放棄キャンセリング
改めて正面から彼を見る。暗い色彩は聊かこの風光明媚からは浮いているが、その美しい顔は森の王の名に相応しく。異質でありながら、風景に見劣らぬ佇まいだ。きれいだなぁと純粋に思う。そして、困ったなぁとも。
この間のやり取りで決着はついたのだと思うのだが、どうやら彼はそう思っていないらしい。勝手に彼に恋をして、都合よく利用した身の上で申し訳ないが、現状のままでいいと立香は思う。冷静な思考回路で振り返れば、マスターとしては由々しき事態だったと思う訳で。過酷な道、終わりの無い戦い。客観的に自分自身の状態を鑑みれば、誰かに寄りかかりたくなる気持ちは仕方の無いことだったろう。他人事でみれば、そう思う。――けれど、やっぱり自分はマスターなのだ。
遠い日に置いてきた、否、置いて行かれた人たち。彼らの想いに、好意に報いる結果答えを返したい。であれば、私はしっかりと立たねばならない。背筋を伸ばして、足を踏み出して、歯を食いしばって。走れ、走れ、走れ!と私の顔をした誰かが叫ぶ。
止まっている暇なんて――
「あのさ。高尚な決意表明してるところ悪いんだけど、いい加減現実に戻ってきてもらえる?」
「……」
オベロンは腰に手を当てながら、はぁとため息を一つ。
「俺もね、各方面に面倒をかけた手前、敵前逃亡を決め込むわけにもいかなくてね」
(そのまま逃げてしまえば良かったのに)
「静かに。……あああ、もう面倒くさい!
誰が好き好んでこんな特性持つかよ。誰が得するっていうんだ。あのクソ作家野郎か!?」
がりがりを髪を掻き乱し、オベロンはぎろりとその双眸を立香に向ける。その勢いのままずんずんと距離を縮め、目の前に立った。成程、あくまでも正面勝負という訳だ。いいだろう受けて立つ。伊達に精神訓練を続けていない。何を言われようとも、絶対に屈しないと立香は両手に力を籠める。
「「」」
金の瞳と蒼の瞳が交差する。オベロンの右手が持ち上がり、そっと立香の頬に添えられる。
びくりと彼女の体が反応するが、直ぐに平静に戻る。波打つ精神もまた、一瞬に静寂を取り戻す。
オベロンはその様を何の感情も無く見過ごして、想いのままに、彼女の頬を慰撫するように撫でる。
そのまま親指が目のすぐ下を撫でる。
何度か往復させたその指の下に隠しきれない黒いシミを見つける。
(また眠れなくなったのか――)
浅くでも漸く眠れるようにしたはずなのに、これで大丈夫などとよく吼えたものだ。
一人ぼっちで、ボロボロになって。報いなど無い戦いを続ける、本当に哀れな娘。

滲む視界を誤魔化したくて、逞しいとは言えぬこの細い両腕に彼女を閉じ込める。
あ、と立香の声が零れ落ちた。

小さい体。腰は簡単に腕が回り、右手で抱き寄せる肩は華奢。力を込めたら簡単に壊れてしまいそうだ。首筋に鼻を寄せれば、ジワリと立ち上る体臭。石鹸のような、薄い花のような香りを吸い込む。
吸われたのが分かったのか、耐えられないというように彼女の細い首が横に逃げる。逃がしはしないと、曝された柔らかな肌に音を立てて吸い付く。あ、あ、と彼女の首が戦慄き喘ぐ。その下にある胸はオベロンの胸板でくにゃりと潰される。意図を持って、右手を肩から背中の真ん中、ゆっくりと腰に向けて撫でおろす。薄い唇は首の中腹から耳の下、顎と交差するラインを辿って、上に向けられた顎先に口づけを。
ぴたりと沿わせていた体をほんの少しだけ離して、真上から覗き込むように立香を見下ろした。黄金の瞳は熟れて、蜂蜜に。頬は桃のように鮮やかに。唇はふっくらと開かれ、赤い舌が覗いている。
美しく、どこまでも妖精王を捕らえて離さぬ薄紅色の心を纏った娘。
ああ、――
「それが見たかった……」
ちゅっと貴婦人に挨拶するようにオベロンは立香に口づけた。

「反則過ぎる…」
ずるいよと泣きが入った声が上がる。
「知らなかったのかい? それはご愁傷様。きみの前にいるのは、妖精の国で最も質の悪い虫さ。
捕まったが最後。どこまでもどこまでも、――落ちていけ。この奈落の虫の中に」
もう一度柔らかくオベロンは立香の唇に己のそれを合わせる。
「ん、……。いや。タダじゃ落ちてあげない」
「ふうん…お望みは?」
立香の左手を救い上げ、その指先に口づける。
「寒くて、寒くて――、凍えそうなの。だから、温めてほしい」
「相変わらず、酔狂な子だな」
呆れた視線が立香に向けられたが、彼女の眼は揺らがず真剣だった。
「いいとも。こんな虫けらに温もりがあるかどうか分かりはしないけどね。好きなだけ持っていけばいい。俺も…好きに貰っていくから」
好きにすると言いながら、彼は立香に許可を求めて吸い付いた指先に甘噛みする。
しょうがないなぁと立香は苦笑しながら、噛みつかれたままの左手を自分の口元に運ぶ。
(我が主より許しを賜った)
オベロンはうっそりと笑って――、その唇に噛みついた。