頭上に王冠を戴く、金紅の王女エウロペ――。
かのお方は前触れも無く、医務室を訪れた。
「なんだ。エウロペ殿ではないか。ここは怪我人病人向けの場所だ。用がないなら」
「まあ。アスクレピオス。そんな他人行儀な。言ったでしょう? あなたもまた私の孫です。」
「いい……そういうのは結構だ。とにかく、用がないなら出て行ってくれ。今、マスターのメディカルチェック中だ」
「(ふふ、照れているのね。可愛い子。)ああ、ごめんなさい。お邪魔して。マスターに用があったの」
「え、私? なにかあった?」
診察用の椅子に座りながら、立香はエウロペを不思議そうに見つめた。
「ええ、ええ、そうなの!あったの。素晴らしいことよ」
「「?」」
まさに花が綻ぶような笑みを浮かべ、きゃっと両手を頬に当てて喜んでいる。エウロペは軽く身を浮かせ、そして、――爆弾を落とした。
「おめでとう、マスター。貴方と新たな命に限りない祝福を。このゼウスの妃、エウロペの名の下に」
「「…………」」
ぽかんと口をOの字にしながら、立香はエウロペを見ている。
新しい命、とは?
一方、同じように宇宙猫をしていたアスクレピオスはハッと両者を交互に見つめ、すぐに医療用タッチパネルを起動する。
指示に従って、大きなスキャンモニターが立香のサイドに寄せられる。ピッピッピッと電子音が暫く響いて。やがて、彼の手元にデータが表示された。
「なんだこれは…」
わなわなと震えながらアスクレピオスは、コール端末を引き寄せる。
「管制室! ダヴィンチはいるか! 至急、医療ルームに来い!」
そのただならぬ様相に、立香を始め、同席していた医療スタッフは動揺の色を隠せない。
「アスクレピオス……」
やや弱弱しい声が立香の口から零れ落ちた。何が起きたのだろうか。やっと長い旅路の終えたばかりだというのに。やはり自分には残された未来は無かったのだろうか、と立香は悲しくも、どこか諦めに似た感情を抱く。
彼女のくすんだ顔を見て、医者は深くため息を吐きながら言葉を付け加える。
「そんな顔をするな…命にかかわることじゃない。まあ、とんでもないことではあるが」
「???」
アスクレピオスは手を額に当てながらひどい眩暈に襲われていた。なんてことだ、医者である自分ともあろうものが。と一瞬自身を責めかけるが、この後起こる騒動を思えば当然か、と直ぐに思い直した。
御明察――、彼の判断は正しかった。この後、頭痛どころか胃痛すら伴う事態がやってくるのだが、この時の彼には未だ未到達の事実だった。
「神霊サーヴァントによる複数証言と霊基スキャンの結果、君のお腹の中には新しい命が宿っている」
神妙な面持ちでダヴィンチから告げられた言葉に、立香は暫く状況が呑み込めなかった。
さもありなんとダヴィンチは深く頷くと、立香を模した画像をモニター上に表示する。
「それと当時に、高密度の魔力反応を感知した。全部で7つ。私達はこれに心当たりがある」
指先を動かせば、点々と光が明滅する。はっと立香は壇上に立つ少女を見つめる。こくりとダヴィンチは首を縦に振る。
「聖杯――」
その隣でホームズが、顎に手を当てつつ補足を付け加えた。
「最後の戦い、あれがなんだったのかは我々も言い難いが、聖杯の水が君に注がれた。そうして、奇跡はなった。あの時に見た光景が答えなのだろう」
「そうなんだ。……あの、でも、赤ちゃん、って…」
顔を少し赤らめながら立香はそろそろと上目遣いで、登壇者二人を伺い見るが、ダヴィンチがけらけらと笑いながら手を振った。
「やだなーもう。馬に蹴られるのはごめんだよ。いいやもしかしたら、ロバかも?」
誰かを当てこすり、にんまりと底意地の悪い笑みを浮かべる少女に、ホームズは肩を竦める。
「相手は一人しかないだろう。聖杯が思わぬ形で力を発揮した―とそう考えるのが自然だと思うがね」
ますます肩を小さくして、立香は両手を頬に当てた。
(ばれてる。いや、別に隠してはいなかったんだけども……もう!)
暗黙の公然。立香とオベロンの関係は話題にはされずとも周知の事実だった。
とそこへ誰何の声が入る。
「おや、誰かな?」「僕だ」
開かれた扉から、赤いマントを纏った白髪に浅黒い肌をした男が現れる。
「エミヤ!」
アサシン・エミヤ、彼はこのカルデア内で比較的早く召喚され、古参の3名に続いて長く立香を支えてきたメンバーだ。
彼の登場に、立香は嬉しそうに声を上げた。
「あのね、私――」
「聞いている」
二の口を言わせぬ鋭さで会話が切り捨てられた。和やかだった室内に冷気が流れる。立香はこれまでの経験則からこれから彼が何を言わんとするのか、察してしまった。
(…………)
「分かっているな。――今すぐ堕ろすべきだ」
なんてことを!とマシュが声を荒げて、エミヤに詰め寄るが、片手で彼はそれを制した。
「聖杯による受胎。マスターにどんな影響があるか、計り知れない。
百歩譲って相手が人類史の普通の英雄ならば、まだ考えた。――あれは、星の終わりを望むもの。
呪いより生まれた災厄の竜。生まれてくるものが彼女の腹を食い破らぬと誰が保証できる」
正論だった。ダヴィンチも、マシュも、誰もがエミヤに否やを唱えることが出来なかった。
立香は、心内で、『あーあ、やっぱり』と、他人事のように呟いた。何時だってこの人は、自分にも他人にも厳しくて。そして、正しい。
視線をエミヤから逸らし、お腹の上にある手を見る。無意識に添えていたその手を―
(ごめんね…………)
だって、仕方がない。サーヴァントの子供だなんて、厄介事以外の何物でもない。人理を取り戻して以後、間も無く、時計塔の査問委員会もやってくるだろう。
新所長がいるので、実際のところどうなるかは分からないが、監査の目は前回以上と考えるべきだ。余計な火種などもっての外。何より自分はいつまでもカルデアにはいられないので、妊婦となって日常に戻るなど到底――。
とん、とお腹の中で鼓動がした。
「あ」
一度きりそれ以降は音も無く。でも、十分だった。命が此処に在る――。
離しかけた手を、もう一度腹に添える。そこにある音を確かめようとした。
「マスター」
彼女の仕草を見咎めて、エミヤは眉間に皺を寄せた。聞き分けろと言いかけたその背後より、シャンと錫杖の音が響く。
「呪いの子というならば、私が御仏の加護を授けましょう」
首に赤い数珠を、白い袈裟を着た豊満な肢体の女性、三蔵法師その人だった。
「玄奘。申し訳ないが、僕は無神論者でね。口ではどうとでも言える。
彼女のことを思うのであれば、現実的に考えるべきだ」
「ええ、そうね。貴方の言う通りだわ。だから、私も現実的に言ってるつもりよ」
ほうとエミヤがそれまで斜に構えた姿勢から、真っ直ぐに彼女に相対する。
「聖杯によって授けられた命なのだとしたら、一般的な方法で天に返すことが出来る? それこそ危険を伴うんじゃないかしら。呪い? うふふ、それこそ瑣事よ。だって、ここカルデアには100を超える英雄と神々がいるんですもの。彼らの加護全てを覆い隠す呪いがあるとすれば……大したものよね。だからね、マスター、絶対ぜーったい大丈夫よ! なんてたって、この玄奘三蔵のお墨付き、なんだから」
ウィンクひとつ、ぱちりと太陽のような笑みを浮かべて三蔵は立香に微笑んだ。
立香は知らず瞳に浮かぶ涙をこらえて頷き返した。もう一度、エミヤと声をかける。
「はぁ……とんでもないお墨付きがあったものだな。何を選ぶかのか、全ては…君次第だ。
僕は人を殺すことしか才能の無い人間だ。出来ることがあるとすれば引き金を引くぐらい」
立香を正面から捕えながら、その瞳にあるのはココではない何処か。
「マスター、僕は君に銃口を向けたくはない」
後悔の無いようにと最後に残して、その暗殺者は目礼一つして場を辞そうとする。扉の向こうに渡るその前、「エミヤ!」マスターが涙を堪えながら叫んだ。
「ありがとう!……ずっと、ずっと助けてくれてた。
貴方だって私の英雄なんだよ…だから、ありがとう」
振り仰ぎ、彼は何かを言おうとして、止めた。口の端を少しだけ持ち上げ、彼は言う。
「どうか君が、幸せでありますように」