「オ、オベロン君……。あの、もし、迷惑じゃなかったら。勉強教えてほしいなって」
両手を後ろ手にしてクラスで一番大きな胸を強調しながら、栗毛の少女が黒髪の少年に恥ずかしそうに微笑んだ。その直ぐ後ろでは、他数人の女子が動向を伺っている。期待と羨望に満ちた視線に吐きそうになるのをすんでのところで堪えて。にっこりと口の端を持ち上げると、少女の顔に喜色が広がった。
「ごめ~ん。自分の勉強で手一杯なんだ。……他を当たってくれる?」
「……そっかぁ、ごめんね」
一瞬真顔になった少女は、次の瞬間には仕方が無いという風に笑い、ゆっくりと廊下側の席へと移動していく。待っていたらしい数人の女子に「だめだったぁ~」と態とらしく肩を落とす仕草をしてみせる。ドンマイ!と慰める友人達。その顔には隠せない笑みが浮かんでいる。
「うわぁ。女ってこえー。……ウチの師匠とはまた違った怖さだけどな」
前から聞こえてきた声にオベロンは手元の教科書に落としていた視線をあげる。「よっ!」と軽妙に声をかけてきた青い髪の少年。クラスで唯一、オベロンが普通に会話する相手、名をセタンタと言った。
「今ので四人目なんだけど。……ほんと鬱陶しいなぁ」
「しょうがなくね? お前、この間の試験でトップだったんだろ。羨ましいけどなぁ」
その言葉に片頬をつきながらオベロンはため息をつく。単純に成績が良いことを褒めているのだろう。勉強を口実にオベロンに近づこうとしている女子を開心見誠なセタンタが好ましく思うわけも無く。
「一位なんて取るんじゃ無かった」
「うわ! 言ってみてーな、その言葉!」
オベロンが本気で言っていることを知りながら、からからとセタンタが笑う。両手を頭の後ろで組みながら窓の外を見る彼をオベロンはじっと見つめた。視線に気づき、どうした?と瞳で問う彼に何でも無いよと首を振る。オベロンは、この少年を高校に入るずっと前から知っている。正確に言えば、生まれる前から。そして、他にもこの学園にはちらほらと見知った顔があるのだけれど――。
(コイツも記憶無いんだよなぁ)
誰も彼もが、オベロンのように前世の記憶を持ってはいなかった。彼女と同じように。オベロンはそろりと席の反対、廊下側の丁度真ん中に座る生徒を盗み見た。緋色の髪を一括りにして、後ろの席の男子生徒と仲良く話している少年――、藤丸立香。痛烈な右ストレートの出会いから早二ヶ月。彼との進展は無く。向こうもこちらもそれとなく接触を避けている状態だ。視線を感じたのか立香の視線がオベロンに向く。一瞬顔が引きつって直ぐに視線を逸らされた。
「……(地味に傷つくんだけど)」
『縁が無かった』、そう言えればどれだけ良かったか。簡単に諦められるほど当世の十数年は短くなかったし、何より最期に彼女と約束したのだ。
『何時かきっとまた会えるから。……だから、泣かないで』
咄嗟に伏せた頭の上、セタンタが言葉をかけてくる。
「そう落ち込むなよ。人の噂も何とやら、だ。ああいう連中だ。直ぐに興味の矛先も変わると思うぜ?」
的外れの慰めに、オベロンは軽く手を上げる。――今暫くは、顔を上げれそうに無かった。
「きゃああ! 格好良いーーーー!」
「素敵ーーーー!」
女子生徒の叫声がグラウンドに木霊する。
「「……」」
オベロンとセタンタは他の男子生徒と同様に沈黙した。
「立香さま~~~~♡」
「立香くーん!」
「藤丸君、格好良いーーー」
二人が見守る視線の先で、緋色の髪の少年が少し照れくさそうにはにかんだ。その微笑に教室の窓からでさえ、女子の黄色い悲鳴が飛び交う。
「あー。まあ、何だ。……良かったな」
セタンタにぽんと肩を叩かれたオベロンは内心で絶叫した。
(全然良くない!!!)
学生時代のあるある話の一つとして、行事で活躍した生徒はその後非常にモテるというものがあるが、件の藤丸立香も漏れなくその例に当てはまっていた。彼は体育祭というビッグイベントで、一騎当千の大活躍を見せたのだ。特に今年の体育祭は、各組拮抗しており、最後のリレーで順位が決まるという非常に手に汗握る状況だった。そんな状況の中、藤丸立香は赤組の一年代表として選抜され、五人抜きという快挙を達成する。その後、二年、三年とバトンは渡されていったが、彼が作ったリードは覆されず。最下位の赤組が優勝という大変ドラマティックな幕閉じ。上級生から胴上げされた彼は、翌日から一躍有名人という訳だ。
「「立香さま~~~~~♡」」
女子の歓声の中、一際目立つ声がふたつ。オベロンは嫌そうにその一角へと視線を投げた。緑の髪の少女と桃色の髪の少女が、お互いを小突き合いながらフェンスにしがみ付いている。
「こらー。女子はバレーだろうがー」
体育教師が力なく諫めるも、馬の耳に念仏状態。二人の少女の後方、体育館のドアには鈴なりの女子の姿が。そして、……。
「リツカー! ファイトでぇーす♡」
幼い少女達とは一線を画す豊満な乳房がぷるぷると彼女のジャンプに合わせて揺れる。男子生徒から「おお」という響めきが漏れた。
「おいおい、あんた教師だろうが」
セタンタの突っ込みにオベロンは力強く頷いた。金髪のカタコト美女こと体育教師のケツァルコアトル先生は、授業そっちのけで絶賛応援中。通常の高校であれば、問題視されるそれもこの学園では黙認である。何せ、学園長がアレな為、大抵のことは笑って済まされてしまう。それでいいのかカルデア学園。
『こういう自由なところが、ウチの魅力だと思うんだけどなぁ』
『反論したいのに出来ないのが悔しい』
以上、一部教師陣からのコメントより。
そうこうしている内に、藤丸立香の放ったシュートがゴールネットを揺らす。きゃあああああああああああという爆発的な悲鳴がオベロンの耳を殴りつける。キンキンするその耳を押さえながら、彼は内心でぼやいた。
(前世でも大概だったけど、誰も人たらしスキルを極めろなんて言ってないだろうが。バカ立香!)
楽しげにクラスメイトとハイタッチする彼の横顔の眩しいことと言ったら無い。
「……何だよ」
(結局、独りよがりの約束だったのか)
何もかも忘れて、幸せそうにしている彼女を見ていると不屈雑な気分になる。
『良かった/寂しい。このまま思い出さずにいた方が/……忘れないで』
出会って数ヶ月。彼女に記憶が戻る様子も無い。二人の中は、ちょっと苦手な同級生から進展も無く。結局、己はどうしたいのかすらオベロンは分からずにいた。
キーンコーンカーンコーン。
苦悩するオベロンを余所に、無情にも本日最後の授業の鐘が鳴った。
「ただいま」
失意のまま帰宅したオベロンは、感情の無い声で家の玄関を潜る。『挨拶はきちんと』。そう幼い頃から口酸っぱく言われて育った為、こればかりは思春期になっても欠かさない。
「おかえりなさい」
パタパタと奥からエプロンを身に纏った美女――にしては、背丈の高すぎる男性が現れた。長い銀髪を背に揺らすこの青年こそ、オベロンの育ての親であり、この家を取り仕切っている存在。彼の名はベディヴィエール。由緒ある名だが、日本では長すぎる名前の為、親しい者の間ではベディと呼ばれている。
「オカエリナサイ」
もうひとり。二階から大きな段ボール箱を抱えた赤毛の青年が下りてきた。
「トリスタン、それで最後ですか?」
「はい、これで最後です」
オベロンはその会話に訝しんだ。よくよく見れば、玄関の周りは大小の段ボール箱で埋め尽くされている。
「何してるの?」
「……何って。部屋の整理ですよ。今まで物置代わりにしてましたからね。結構物が多くて、片付けるのに手間取ってしまいました」
夕飯はこれから急いで作りますねと申し訳なさそうにベディが言うと、トリスタンが空かさず「ハンバーグがいいです」とリクエスト。
随分と季節外れな模様替えだ、とオベロンはその疑問を口にする。
「何でまた急に」
え?とベディとトリスタンが虚を突かれたような顔をした。嫌な予感がする、とオベロンは苦い顔で再度問う。
「なに?」
「え、だって言ったじゃ無いですか。新しい子が来ますって。だから、これはその新しい子の為の部屋の準備ですけど……」
「!? き、聞いてないよ!」
「ええ!? だって、トリスタンがオベロンにも伝え……。トリスタン?」
言葉途中で何かに気づいたベディがジロリと次男坊を睨み付けた。鋭い眼光にも何のその。はて?と彼は首を傾げ、「言いませんでしたっけ?」とオベロンに視線を投げるばかり。オベロンは深くため息を吐きながら、首をはっきりと横に振った。
「失敗しました。ここ暫く相手のご両親との確認やら手続きなどで忙しくて、……。伝言役をトリスタンに任せっきりしてしまいました」
額に手を当て、痛む頭を労るようにベディは髪を撫でつける。
「事後承諾になってしまって本当に申し訳ないのですが、先方にも承諾をしてしまっている以上、オベロンに我慢をして貰うしか。……本当にごめんなさい」
トリスタンの頭を鷲づかみ、共に深く頭を下げるベディにオベロンは肩を竦める。
「正直気を遣うことこの上ないけど。ここは兄さんの家なんだから、……自由にしなよ」
「オベロン……」
感極まったように瞳を潤ませるベディに、オベロンは些か慌てながら言葉を付け足す。
「言っておくけど、仲良くしろとかは無理だから。そこは強制しないでよね」
「分かりました。出来れば仲良くしてほしいですけど、相性もありますしね。さ、今日はオベロンが好きな肉じゃがにしましょうか。せめてもの罪滅ぼしです」
「え? ハンバーグは?」
あるわけないでしょう!と勢い良く頭をはたかれた次男に、この家の三男坊はもう一度深く、呆れのため息を吐いたのだった。
翌日――。
「き、聞いてない」
昨日と同じ台詞をオベロンは口にした。彼の目の前には、クラスメイトがひとり、同じような呆然とした表情で立っている。
「オベロン。昨日話した立香です。立香、こっちが末っ子のオベロンですよ。……って。聞いてます、ふたりとも?」
「……はっ! あ、あの、ベディお兄ちゃん。ちょっ、ちょっと電話してもいい?」
「え? ええ、まあ、はい。どうぞ」
互いに挨拶している状況で?とベディは驚いたものの、止める謂れもないので大人しく頷く。それを確認するやいなや、立香は携帯で通話ボタンを押した。
「もしもし、お母さん? そう、あの。ちょっと、いきなりで申し訳ないんだけど。やっぱり私一人暮らしを――」
『何言ってるの、立香。一人暮らしなんてさせられないって言ったじゃ無い』
「そ、そうなんだけど。そこを何とか」
『今の家より学校に近くなるから助かるって言ってたわよね?』
「うんうん、言った。言ったね。でも、ほらさ。若いんだから、運動しないと。ね?」
『もう立香、貴方さっきから何言ってるの。ベディお兄ちゃんと一緒に住めるって喜んでたくせに』
「ああー! それは言わないでって!」
『(アテンションプリーズ)やだ搭乗時間だわ。じゃあね、立香。ベディ君に迷惑かけないようにね』
プッ――。ツーツーツー。
無情な切断音に立香は静かに携帯を持った手を下ろした。そして、胸に抱えた大きな鞄に携帯をしまうと、ひと呼吸の後、「お世話になります」と頭を下げた。
カチャカチャ――、食器音だけの酷く静かな夕飯風景。最初はベディとトリスタンが話をしていたものの、一言も話さないオベロンと立香に釣られて段々と口数が少なくなっていき、最終的に誰も話さなくなってしまった。
「ごちそうさま」
何時もよりかなり早いペースで食事を終えたオベロンが流し台に席を立った。そのまま、食器を洗いながら、流れ落ちる水音に負けないよう声を張り上げる。
「来週からいつもより三十分早く家を出る」
え?と立香が最初の挨拶以来、初めてオベロンの顔をまともに見た。
「そっちは運動部でこっちは文化部だから、帰りの時間は大体ばらけるだろ。家に居る間も極力部屋に居るし」
「……、そ、んなつもりじゃ」
「じゃあ、どういうつもり? ……変な気遣いされる方が迷惑だ」
キュッと蛇口を閉める音が大きく響く。口を開けど言葉が出ない立香を放って、オベロンはリビングのドアに向かい、「よろしく」とだけ告げて部屋を出て行った。
項垂れた立香に、ベディがおろおろと言葉をかける。
「す、すみません。ちょっと難しい気質の子で……悪い子じゃ無いんです」
「……違うんです。わ、僕の態度が良くなくて」
オベロン君は何も悪くないんです、と箸を持ったまま俯く立香に書ける言葉をなくすベディだったが。
「拗ねてるだけですよ」
とトリスタンが言う。顔を上げた立香に、彼は微笑んだ。
「立香。貴方は忘れてしまったかも知れませんが、私もオベロンも以前貴方に会ったことがあるのです」
「「えええー!?」」
立香とベディの声が唱和する。
「え? ええ? ど、どこで? 何時ですか?」
さてと彼は首を振り、何処だったか随分昔のことで忘れてしまいましたと話すと、立香はそんなぁと肩を落とした。いつものトリスタン節に呆れたため息を吐きながら、ベディはお茶を飲む。随分と冷めているが、緊張が続いた後で酷く喉が渇いていた。漸くまともに舌が味を感知する。沁みる旨さだった。
「あの子は、ずっと貴方に会いたがっていました」
「そう、なんですか?」
「はい」
迷いのない言葉に立香は、オベロンと初めて会った日のことを思い出した。
『……遅いんだよ! 馬鹿野郎!』
あの時、オベロンの声は、腕は、震えていなかっただろうか。もう放さないと抱きしめられたあの暖かさ。
「どうか、仲良くしてやってください。きっと、貴方も。昔の貴方も、それを望んでいたはずだから」
コンコン。
ノックをしても返事の無い部屋の前に、立香は立っていた。
「藤丸立香です。……酷い態度を取ってしまってごめん。その、……どうしても最初の印象が抜けなくて」
部屋の主からの返事は無い。
「それと、……。トリスタンさんから教えて貰ったよ。ごめん――、ごめんね」
『思い出せなくて』
少年の言葉が静かに廊下に落ちる。
「……」
ぎゅうと立香が握った掌に爪が食い込むほど更に力を込めた時。コンと、目の前の扉が鳴った。はっと立香は俯かせていた顔を上げる。微かな木が軋む音とともに扉が開かれ、オベロンが両手を組んだ状態で現れた。そのまま部屋の扉に右半身をもたれ掛け、瞳を伏せる。
「避けられるのは傷つく」
「ごめんっ」
「……なんで、覚えてないんだよ」
「ご、ごめん」
「はぁ」
「…………」
もういいよ、とオベロンが口にすると立香は止めていた息を大きく吐いて、胸を撫で下ろした。それをつまらなそうに見下ろしながら、オベロンは立香の額を突いた。
「いた」
「いいかい? もしも、思い出したら。必ず僕にいうこと、いいね」
「うっ、はい。ひ、ヒントとか」
「ヒントなんてあるわけ無いだろ」
「ですよねー」
「それから」
まだあるのかと立香が恨めしげにオベロンを見上げたとき、想像以上に近くにある彼の顔にぎょっとする。
「う、うわ、ちょっ」
「ただの挨拶だよ」
そういってオベロンは立香の体を抱きしめた。それは立香にとって、桜の中で抱きしめられた時と同じ力強い抱擁だった。
「「……」」
(男同士なんだけどな)
実際は男女であるが、現状を端から見れば男子高校生同士の行き過ぎたスキンシップだ。立香は不思議に思いながらも、彼を振りほどく気にはなれなかった。実のところ、初めて会ったときもそうだったのだ。どうしてか、嫌悪感は湧かず。むしろ安心感すら感じる温もりに、確かに彼とは何処かで会っているのかもしれないと思い始めた。何処で彼と出逢ったのだろう、と朧気な過去の記憶を反芻し、油断する彼女の左耳に「立香」と熱い声が、吹きかけられた。
「わーーーー!」
ドガッ!!
「っ、この馬鹿力!」
部屋の奥まで吹っ飛んだオベロンが叫ぶ。
「みみみみ、み、耳、は反則!!!」
どったんばったん。
上階から聞こえてくる物音に、ベディは再び頭を押さえた。
「大人しい子達だと思っていたんですけどね」
それに対して、トリスタンがまさかと笑う。
「あの二人に限ってそれはありえませんよ」
ベディは困ったな騒がしくなりそうだと言いながら口を綻ばせた。そんな長兄を見て、トリスタンは更に笑みを深める。
(ベディヴィエール卿。貴方が思っている以上に、これから騒がしくなると思いますよ。何せ、マスターとプリテンダーですからね)