リメンバー・ミー 秘密のお伽噺

がらり――、更衣室代わりの教室のドアを開ける音が夕暮れの廊下に響いた。
「はぁー、酷い目にあった」
オベロンは頭の上のカチューシャを毟り取った。次に履き慣れないヒールを蹴り飛ばすように教室の隅に放り投げる。脱いだ足先はヒールの縁が食い込んだ後がくっきりと紅い線になっていた。それに舌打ちをしながら、ドレスのジップに手をかけ、――音のない背後を訝しんだ。
「立香?」
名を呼び背後を振り返れば、廊下と教室を隔てるドアに背を宛て顔を下に向ける青いドレスの少年。ステージの騒動は喧々囂々の応酬で幕を閉じた。事を起こした四人(内二人はとばっちりに近いが)は今頃、教師陣と生徒会一同にこってり絞られている頃だろう。マシュが抱きとめてどこにも怪我はないと本人が言うので、疲労感に押されるように先に教室へと向かったのだが、やはりどこか怪我をしていたのではないかとオベロンが心配の声を上げかけた矢先、立香が顔をあげた。
「オベロン」
何?と問い返そうとして稲妻に打たれたような衝撃があった。何故と聞かれたら答えられない。けれど、確信があった。今、オベロンの前に立ち、名を呼んだのは――。

『遠ざかっていく。遠ざかっていく。』
『まだ、聞いていないコトがある』
『最後なら、本音くらい聞かせてよ』
『オベロン!』『オーベーローン!』『……オベロン』

「り、つか?」
信じられないと表情で、声で、叫ぶオベロンを見て、立香は泣き笑う。
「うん、うんっ! オベロン!」
「!」
傷む素足を押し殺しながら、慣れぬヒールによろめきながら、二人は駆け寄り……、固く抱きしめ合った。
「りつかっ! 立香っ……」
「おべろんっ、会いたかったっ!」
それは俺の台詞だよと涙声でオベロンが立香の額に自らのそれをぶつけた。ごめんっ、と立香が鼻を押しつける。――震える吐息を呑み込むように唇が重なった。
「んっ、ん……、っぁ」
息苦しさに逃げる立香の唇をオベロンが噛む。噛んで、食んで、舐めて、吸い上げる。ぞくりと背筋を快感が走り、立香の性の象徴が鎌首をもたげる。その感触で、立香はハッと我に返った。
「あ、あの、」
「なに?」
「その、すっごい今さらなんだけど」
私、男の子なんだけど――。その身を恥じるように身を捩る立香をオベロンの腕が引き留めた。
「ほんと今更。この数ヶ月、俺がどれだけ悩んだと思う?」
「いや、あのね、本当は」
真実を話そうと口を開くも、オベロンがその唇で塞いでしまう。甘い口づけに力が入らない立香の体を赤い夕陽で染まった机の上に押し倒して、スカートを捲り上げた。
「!! ま、待って! あ、うっ!」
止まることの無いオベロンの右手が立香の勃起した逸物を下着の上から撫で上げた。
「正直、男なんて無理だと思った」
ですよね、と立香が頷きかけて。彼女/彼の右手がオベロンの下半身の中央の大きく膨張したソレに押しつけられた為、悲鳴に成り代わる。
「立香……」
立香の目の前で宵闇のような暗いブルーの瞳が揺れている。ドクドクと心臓の音が鳴り響き、体の中は熱の固まりが暴れ回っていた。僅かな隙間を残して、オベロンの腕は立香の体をしっかりと巡り逃げることなど出来そうにもない。「立香」ともう一度名を呼ばれれば、彼の呼気が彼女/彼の唇をくすぐる。堪らず伏せた睫に額から流れ落ちた滴がひとつ。
「……ぁ、」
濡れて張り付いた後ろ髪を梳かれ、思わず声が漏れ出た。開いた瞳がもう一度、宵闇を捉え、熱を帯びたその光に立香はおかしくなりそうだった。
(どうして、こんなことに)
くらくらと揺れる思考の隅で立香は自問する。深紅に染まったオベロンの唇があと数センチ先に迫り、――どさっ。
((どさっ?))
二人が揃って顔を音がした方に向け、――顔を真っ青に染め上げた。視線の先、美しい翡翠の瞳を極限まで見開いた、ベディが手提げ鞄を落とした状態で立っていた。
「「あ」」
ひょこりとベディの横から赤い髪の男性が開かれない瞼をおやと少しばかり持ち上げながら、顔を覗かせる。
「これは失礼。一緒に帰ろうと声をかけに来たのですが……お邪魔でしたね」
あの、これは、そのと立香が釈明しようと声を上げ、――びったーん!――、ベディが卒倒した。
「うわーーーー!」
「おや、ベディ……。こんなところで寝ると迷惑ですよ」
「違う! 失神してんだよ!」

リビングには重い沈黙が支配していた。頭にアイスノンを乗せ、ソファに横たわったベディが口を開く。
「わ、私は、立香のお母様に、なんと言えば」
さめざめと泣き始める始末。流石にオベロンも閉口するしかない。立香は、真実を話してしまうべきなのか、いやそれは逆効果なのでは、とオロオロとオベロンとベディを見比べるしかない。と、そこにあっけらかんとトリスタンが「ありのままでよいのでは?」と口を挟む。
「黙って! ――いえ、愛の形は自由だと分かっています。分かっているんです」
ベディの苦しげな声がオベロンと立香の心を締め付ける。彼が普段、二人をどれだけ大切に想っているか、知っている。その彼が倒れるほどの心労を与えていることがやるせない。けれど――。
「驚かせて悪かったと思ってる」
「……オベロン」
「でも、真剣なんだ。冗談、なんかじゃない」
両手を握りしめ視線を下にしてはいるが、その声には覇気があった。ソファの上で身じろぎ、額に手を当てたベディはふうと息を吐く。そうでしょうね、と。
「オベロン、貴方は、自分ではそうは思わないでしょうが。真面目で誠実な良い子です。巫山戯て、なんて理由で、こんなことはしない子です。ただ、その、あまりにも、ショックが――、大きくて、ですね」
途切れ途切れに心情を吐露するベディを、ああ、なんだとトリスタンが笑った。
「ベディ。貴方、自分の弟がAV見るなんて信じられない質なんですね」
「夕飯の鶏ガラにしてあげましょうか?」
アイスノンの下から覗く鋭い眼光にトリスタンは口を噤んだ。彼は賢い人間なのだ。決して、鳥ではない。
一方、立香は焦っていた。
(ど、どうしよう。なんか言い出せない雰囲気なんだけど)
口を開いては閉じて、……意味も無く両手が彷徨っている。オベロンと抱きしめ合っていた時ならば勢いで言えたものを。冷静な頭になった今、家の隠し事を相談も無しに打ち上げてもいいものかという心と、今この場で言わなければ永遠に機会を失いそうな気がしてならないという心。そうこうしている間に、ベディが身を起こしてソファ越しにオベロンと立香に視線を投げる。
「……はぁ。大分、落ち着いてきました。あの、こんな騒ぎにして信用ないでしょうが、私は決して反対しているわけではないのです。腹は立ちますが、ベディの言うとおり、まだまだ子供だと思っていた貴方がそういう、その、行為に及ぶというのが、慣れないだけでして」
気まずそうに逸らされる視線に、オベロンも立香も頬を染めた。
「まあまあ。立香のご両親には時間をかけて説明していきましょう。いきなりだとベディみたいに倒れかねませんし」
そうだろうか、と立香は内心首を傾げた。こう言っては何だが、いくら一家言ある大婆様の言いつけとは言え、実の娘を男として育てている両親だ。海外赴任だって、普通は断らないだろうか?こんな特殊な事情のある娘を余所の家に預けるなど正気の沙汰ではない。交際相手が男になりました、と言ったところで「へぇ、そうなんだ。丁度いいじゃない」とでも言いかねない。
立香が思考を沈ませる中で、ベディが頭を押さえながらではあるものの、トリスタンの言葉に頷く。
「そうですね、その時までには私も二人の見方になれるよう、努力します」
「ベディお兄ちゃん……」
なんて聖人君子。自分の常識外にあるものも決して否定せず、受け入れようとしてくれている。カルデアに居た頃からずっと頼りにしてきた騎士に立香の涙腺が緩み、感嘆の声が漏れた。それにはかなげな笑みを返しつつ、こほんと咳払い。
「それはそれとして。その、そいういう行為はですね。せめて、成人……、百歩譲って高校を卒業してからにしなさい」
「はぁ!?」
それまで大人しくしていたオベロンが立ち上がった。
「それはちょっと横暴じゃない?!」
「横暴なもんですか! 節度ある振る舞いをしなさいと言っているんです」
「愛ある自然な行為だと思うけど!」
(愛!? 愛っていった!?)
過去の彼からは信じられぬ言葉に立香は目をひん剥いた。
「それはそれ。これはこれ、です」
「絶対横暴だ! そういう自分たちはどうだった訳!」
「「…………」」
「そらみたことか!」
鬼の首をとったかのようなオベロンに、ベディとトリスタンは聞く耳を持たず。そういうことで、と席を立った。それを後ろから追いかけながら、オベロンが撤回して!と叫んでいる。ひとりリビングに取り残された立香はぽかんと三人の後ろ姿を見送った。

「あ、言い忘れた」
すっかり自分が本当は女であることを言いそびれてしまった。しかし、まあいいかと立香は納得した。今は、あの三兄弟の仲の良さを堪能しておこうと思えたのだ。ふふ、と立香が笑う。その笑みは慈愛に溢れ、誰が見ても少女らしい笑みだった。この時のことを後になって、オベロンは酷く後悔することになるのだが、運命とは皮肉なものである。と、ある魔女は細く笑んだ。

大きな屋敷の一番奥。豪奢な畳の上に、三人の男女が座っていた。人払いがされたその場所にはまるで平安貴族のような様相で、上座に座る人物の周りには薄絹の御簾が垂らされている。行灯を模したライトが小さな影を照らす。
栗毛の少女が口を開いた。
「おかしいと思ったんだ。女難の相なのに、男として――なんて」
くっくっ、と赤瞳の美丈夫が実に小賢しいことよなと嗤った。
「なんとでもいいなさい」
深みがあるが、凜と咲く百合のような美しい声だった。光に照らされた影がぐにゃりと歪む。小さな影は、栗毛の少女より背高いものへと変わっていく。
「私は、もう二度とあの娘を、私のような想いをさせないと誓ったのよ」
固い決意が零れる唇は、菫色。背を超えて流れる髪は薄藤。その耳は、人とは違う尖った形をしていた。
「運命とは実に数奇。まさか、お前の子孫としてあの小娘が生まれるとはな」
初めてあの緋色の髪と琥珀の瞳を見た時の歓喜と悲嘆が誰に分かるだろうかと、魔女メディアは瞳を伏せた。紫の魔女は、これまでの記憶を瞳の奥に映す。
気が付けば、――。人の世に生まれていた。神代の魔女が聞いて呆れる。マナの少ない現世において殆どの魔術は意味を成さず。精々、子供じみた占い程度が関の山。それでも、周囲の人々はメディアを卑弥呼の再来と、もて囃した。あれよあれよという間に、日本の政治界や経済界で一目置かれる人物になってしまった。
気が付けば、――。我が子を胸に抱えていた。そんなつもりは毛頭無かった。「話が違うわ」と彼女は、今際の際の夫に募った。「そりゃ、俺のセリフだ。全くお前ときたら。裁縫も料理も上手い上によく気が利く器量好しときた。俺なんかと結婚して、直ぐに三行半をつけて出て行くと思ったんだがな。当てが外れた」どうしてくれると笑った夫の胸を叩いた。その心臓はもう動いていなかったから。

目的も意味も無くなった彼女を嘲笑うように、彼女の生は続いていく。さては、自分は人間ではなかったのかと落胆のため息を零した彼女の目の前に、数ある後悔の中で一際忘れ得ぬものが現れた。

繰り返してはならない。
出逢ってはいけない。
結ばれてはいけない。
この運命は、悲劇にしかならないのだから。

だから、男として育てた。
だというのに――。

「悪夢だわ」
「よいよい。存分に苦悩するがいい!」
それこそがお前が人間である証なのだから――、と王は笑った。

 

【完】