「昨日の自転車が大変不評だったので、今日はこれです!」
ドン!という効果音をつけたいどや顔で、釣り竿を掲げた少女。
「不評だったのは、自転車じゃなくてきみの運転だよ」
折り曲げられた青年の中指に、少女の足が一歩下がる。ジリジリとした間合いの詰め合いが始まった。
「大物釣るぞーーー!」
額を少々赤くした少女がエイエイオーと気合の声を上げる横で、青年はルアーをつつく。
「ルアーなんだ。普通、ゴカイとかの虫餌使うんだと思ったけど」
やはり年頃の少女らしく虫が苦手なんだろうと当たりをつけていると、ふるふると少女は首を横にふる。
「いや? 虫は平気だよ。食べたこともあるし」
「うわ。……じゃあ、尚のことなんで?」
「うーん」
慣れた手つきで少女がロッドを振りかぶる。甲高い鳥の鳴き声のようなリール音が響いた。ぽちゃんっと釣り先が水平線に沈み、見えなくなる頃。ポツリと少女が答えを返す。
「必要ならそうするけど、今は別に必要じゃ無いから」
(必要とか必要じゃ無いとかあるか? ……ほんと、変なヤツ)
付き合っていられなくなった青年は徐にロッドを振り抜いた。
――カツン。カンカンッ、……ぽちゃっ
「「……」」
海鳥のミャーという鳴き声の後。青年は言った。
「……浅瀬にも魚がいるだろ」
「…………うん。先ずは、投げ方の練習しよっか!」
擦った揉んだの挙げ句、四投目で漸くそれなりの距離の沖へ釣り竿が沈んだ。
「よーしよし、OK、良い感じ!」
「意外と力いるな、コレ」
「やたら滅多に力を入れれば良いってもんでも無いしね」
ふうと二人揃って、堤防の上に座り込む。相変わらず、海鳥が鳴く海辺は本当に長閑で。少し離れたところに似たような釣り人がいる以外は、人の声も車のエンジン音も聞こえない。潮騒を眺めながら、青年は煌めく陽光に目を細めた。
(随分と長い間この街に住んでたけど、釣りはしたこと無かったな)
遠出をしたがらない二人を連れて来るのも悪くないかと穏やかな風に微睡む。しかし、ふと我に返った。年頃の男女が堤防で海釣りというのはどうなのだろうか?あまり一般的では無いような気がするが、仲間内の場合であれば有りのような……。チラリと横目に少女を伺い見る。
少女は水平線を見ていた。
「――」
慈しむような優しい眼差しに息を呑む。
(何の変哲もない海なのに、)
正直に言えば、それほど透明度は無く。よくよく見れば、塵や藻で濁っている。なのに、とても美しいものを見るような少女の瞳に胸が苦しくなる。堪らず逸らそうとした視線の先で、――違和感を見つけた。
「……きみ、タグはどうしたの」
ほぼ全てと言っても過言では無い人々が身につけているはずのタグが無かった。え?と素っ頓狂な声が返る。そして、自分の首元を見下ろし、ああと心得たように頷いた。
「無いよ」
「!!」
ぱかりと青年の口が開いた。
「無い!?」
「うん」
「そんな馬鹿な、……どうして」
「オベ、――きみもそうでしょ? 逆に聞くけど、君はどうして無いの?」
「お、俺は……」
(俺は、『ゼロ』だから)
でも、どうして『ゼロ』なのかなんて答えられない。それこそ、これまで数多の人が彼に同じ事を尋ね、その度に青年は「知らない」としか答えられなかった。妬ましそうに見る視線が嫌で気持ち悪くて、人目を遠ざけるようになった。
「……ごめん」
自己嫌悪に沈む声で呟けば、少女が小さな声で笑う。
「真面目だなぁ、気にしなくていいよ。……いいんだよ、どんな形で生まれたとしても」
「……」
(止めてくれ。どうして、そんな瞳で俺を見るんだ。俺は、――きみの探してる人じゃ無いのに)
オベロンと呼ぶときの彼女の声が嫌いだ。だって、こんな分かりやすい声も無い。好きで、……。好きで、本当に好きで仕方が無いのだと告げる声。
(俺は『オベロン』じゃない。俺の、俺の名前は)
「どうしたの?」
「俺の……、っ!?」
「うわわっ! 引いてる! 引いてるよ! しっかり持って!」
ロッドが折れるのではと思うほど、しなった。思いの外、力強いそれに少年の細腕が引っ張られ、危うく足先が堤防を乗り出しそうになる。逆方向に力の向きが変わったと思った瞬間、背中に柔らかな感触が。
「!!??」
「呆けてないで、リール巻いて!!」
ギリギリとリールを巻きながら、神経は背中に全集中していく。少しひんやりしているが柔らかい肉の感触。少女の華奢な指が青年の筋張った指に絡みついた。香るのは、海風とシトラスの匂い。
(ああああ、止めろ! 止めてくれ! ――こんなのトモダチじゃないっ!!)
釣り上げた大物を前に大はしゃぎする彼女を見ながら、青年は自身の頭のネジが飛んで行ったのが分かった。
「それ。どうしたんですか」
右手に持ったビニール袋の中には、大きな魚が一匹。それを見下ろしながら、青年は苦々しく答える。
「……貰った」
顔を見合わせる少女二人の視線から逃げるように青年はキッチンに。ヒソヒソと背後から聞こえてくる気配には気づかないふりをした。