I’m always with you ~Day 1~

「はーッ、ミスった」
(何であんな約束してしまったんだか。我ながら何て不用心……)
と、青年の朝は昨日のやりとりを後悔するところから始まった。

トントントン――。
気怠げに階段を下りて、ガコンと冷蔵庫のドアを開ける。
(……フレンチトーストかな)
扉を閉めて、洗面所へ。
ジャー……、キュッ。
顔と歯を磨いて、身支度を調える。顔を上げたところで、鏡越しのブランカを見つけた。
「おはよ」
『おはよう』
体を横にずらして、彼女に場所を明け渡す。「アルトリアは?」と聞けば、『寝てるよ』という返事。
「アイツ、また夜更かししたな」
『勉強頑張ってるんだよ、大目に見てあげて』
「……はいはい」
アルトリアは、医学職に就きたいらしく。絶賛、猛勉強中だ。暇さえあれば、本を読んでいる。自分の夢に邁進する少女と言えば、大変聞こえは良いが。実のところ、身体的に負担をかけることが多いアルトリアが二人への恩返しの為、その道を選んだ訳なのだが。当然、二人にはお見通し。自分の好きなことをすればいいと言ったこともあるが、「バカには無理ってことですかー!!!」と煙に巻かれてしまった。ブランカ曰く言い方が悪かったらしいが、あの調子では他にどんな言い方をしたところで聞く耳持たずだったと思う、と青年は責任転換する。

カシャカシャ――、溶いた黄色のベッドに千切ったパンを放り投げて電子レンジに。上下をひっくり返して、しっかり卵液を吸い込んだことを確認したら黒いフライパンにバターをふた欠片。じゅっうぅ。濃い香りが立ち上がる。弱火でじっくりと両面に焼き目がつくように慎重に焼いていく。
カラカラカラ。ドアが開く音に顔を上げれば、ブランカがリビングから庭に下りていくところだった。日課の水やりだろう。黒いワンピースの裾が風に揺れる。
――ふわふわと飛んで行きそうだ。
(妄想おつ)
人間が飛ぶはずが無いのに、どうして飛んで行きそうなんて思うのか。時々、荒唐無稽な感想を抱く己に最初は気味が悪く思ったりもしたが、十何年と続けば慣れた。
「……イイにおーい♡」
髪を鳥の巣のようにした食いしん坊の登場だ。青年はターナーをヒラヒラと動かしながら、少女を窘める。
「早く顔洗っておいで」
「はーい」
カシャンっ、キィキィ……。鼻歌が遠ざかっていくのを呆れた顔で見送った。

「「いただきます」」『いただきます』
三人手を合わせて、挨拶。ごくごく希にここに四人目が混ざることがあるが、彼らが年嵩む毎にその頻度は減っていった。今や、年に一度有るか無いか。
「今日、図書館に行ってきます。リクエストしていた本が届いたそうなので」
アルトリアがハフハフと口元を開け閉めしながら、予定を切り出す。ブランカが『私も一緒に行って良い?』と尋ねると、指で丸を作った。……詰め込みすぎたらしい。彼女の皿の上には二人の倍のトーストが積み上げられ、その土台は黄金色のシロップに埋まっている。
「あー、俺もちょっと出掛けてくるから。家の鍵、忘れるなよ」
ゴックン。口の中のパンを飲み込んだアルトリアが横のブランカと顔を見合わせた。そして、……。
「彼女出来たんですか!?」
と叫んだ。
「はぁ~~~?」
「あー、やっぱりそうだ! なーんか、昨日から上の空だなぁと思ってたんですよ!」
『ソワソワしてたよね』
「ばっ! 違う!!!」
『ムキになるところが怪しい』
「ですよね」
キャアキャアと騒ぐ姦し娘達に、オベロンはフォークをトーストに突き刺して「言ってろ!」と威嚇するが、暖簾に腕押しだった。
(彼女だって? 冗談じゃ無い! タダのともだ……。いや、いやいや。違うだろ!)
「ビジネスだから!」
何が?という二人の視線に耐えきれず、青年は逃げるように席を立った。

そんなやり取りがあったものだから、件の少女と顔を合わせた青年の表情はとても苦々しいものになった。
「わー、機嫌わるっ」
「脅されて、機嫌がいいやつなんているのかい?」
人聞き悪いなぁと立香は口元を尖らせる。ジロリとねめつければ、はぁと呆れたため息が返ってきた。ますます、眉間の皺が酷くなる青年に彼女はポンポンと持参した自転車のサドルを叩いた。
「記念すべきトモダチ一日目なんだからさ。機嫌直してよ」
その言いっぷりに毒気を抜かれた青年は肩を竦めた。その反応に良々と少女は頷き、自転車に跨がる。
「さあ、乗って! あ、携帯とかこれに入れてね」
ジップロックを差し出してきた少女に、青年は呆然と呟いた。
「マジか」
普通逆じゃ無い?なんでジップロック?と思いつつも、青年は恐る恐ると後ろの台座に跨がった。大人しく携帯と財布も袋にしまう。そこでハタと気づいた。
(何処を持てば……)
腰。彼女の白いブラウス越しに、華奢なキャミソールが視えた。慌てて視線を彼女の肩の方に移動すれば、細い紐が二つ。白と青。青年は額に手を当てて項垂れた。
「きみさぁ~」
「準備できた? いっくよー!」
ガタンっ!と台座が揺れる。ぐらりと体勢が前のめり、慌てて台座の金属を掴んだ。
「ちょっ、あっ、おわー!」
「イヤッホーーーー!!」
シャーーーッ!
自転車は二人分の重みを慣性に、勢いを増して坂道を滑り降りていく。早すぎるそのスピードに慄く青年の前髪を、海風が吹き上げていく。
「まっ、早い早い! スピード落とせって!」
「ノンノン! これぞ、スピードスター! 星になろうZEっ!」
「わーーーっ! スピード上げるヤツがあるか、バカっ!!」
ジャヤヤヤァッ!
カーブをロードバイクのような勢いでコーナリングしていく二人。風が全身を吹き荒らしていく感覚に、青年は理性を飛ばした。
「バッカだろ! お前! あはははは!」
やべーっ!と叫ぶ青年に少女の口角が上がった。

二度三度、坂道を曲がり、船着き場が視えてきた。ずっと笑い通しだった青年がふと我に返る。
「なぁっ、これ、どうやって止まるんだ!」
「それなー!」
(え?)
ざああっと顔から血の気が下がる。何やかんやどうにか出来ると思っていたのに、まさかの返事。はっきり言ってこのスピードは大事故しか考えられない。両足で止めるべきかと思い地面を見るが、ジッと小石が吹き飛んだのを見て伸びかけた足が止まる。
「おいおいおい、どーすんだよっ!」
「んー……、やっぱりこれしかないかー!」
少女が腰を浮かせ、ハンドルを強く握った。目の前にはまたもや曲がり角。だが、――。
「は? は? は?」
「りつか、いっきまーす!」
ぐんっと重力がかかり、前車輪が浮いた。と思ったら、空を飛んでいた。青い空と碧い海。クゥークゥーとカモメが鳴いている。

バッシャーーーン!
水飛沫に驚いた鳥たちが散り散りに海の奥へと飛んで行った。

ざざん、ざざんっ。潮騒を聞きながら、青年は頬に張り付いた髪を耳にかける。粗方の水気はタオルで拭き取ったものの、海水特有のべたつきが最悪だった。足を動かす度に靴の中がぐずつくので、つい先程、脱ぎ捨てたところだ。
「はぁ~~、気持ちワル」
「お、懐かしい台詞」
振り向けば、少女がアイスを口にしながら立っている。はいどうぞ、と同じアイスと思われる袋が差し出された。渋々とそれを受け取り、ガサリと袋の口を開く。空色の長方形が見えた。木の棒を引き抜き、口の中に氷菓子を突っ込む。
(うっま)
普段から「アイスは絶対高級バニラ」と豪語する彼だが、口の中を突き抜けていく爽やかなソーダ味に感動した。じゃりっという砂音と共に、隣に少女が座り込む。堤防のコンクリートの上に、少女と青年。それから海水に浸かった自転車が一台。黙々とアイスを食べ、半分ほどの長さになった頃。青年が呟いた。
「正直さ、死んだかと思った」
「え~? あれくらいじゃ、死なないよ」
「……きみ、頭のネジぶっ飛んでない?」
「本気本気。私、もっと高いところから落ちたことあるし」
「…………、生き方を見直した方がいいよ」
「今更なんだよなぁ」
「何言ってんだ、今からでも遅くないだろ。――未成年の癖に」
少女が笑った。眩しいその笑みに青年の心臓が跳ねる。濡れた髪と服が日の光に反射して、本当に夏のような少女だと思った。

袋から取り出した携帯を手に、青年の顔が歪む。
「最初からそのつもりだったってことかよ」
「やー、上手くいけば止まれるかなぁって思ったけど。……全然ダメだったね!」
ドスッ
「あいたっ!」
手刀を少女の緋色の髪に打ち込んだ。
「じゃぁ、……また明日!」
「今日みたいなやつだったら、絶対許さないから」
「はーい」
「本当に分かってる?」
「分かってる分かってる」
「……」
掲げられた手に、素早く少女が両手で頭をガードする。遣る方なく降ろされたその左手は、
「あいたっ!」
高速のデコピンを繰り出した後、青年の体の横に収まった。