交響曲★四章:赤いアネモネをきみに/紫のアネモネを貴方に

一汁三菜。胚芽米ご飯。鮭のホイル焼き。小松菜の煮びたし。卵スープ。どれもこれも妊婦の立香を想って、厨房組が栄養素や彩りその他もろもろを考慮した渾身の献立だ。ご飯もホイル焼きもほかほかと湯気が上がり、野菜の緑も鮮やかだ。スープからはふんわりと優しい香りがする。どれもこれも平時ならば、頂きます!と喜び頬張ったことだろう。
「う……」
立ち上る食べ物の香りが胃の中の不快感を増進させる。立香は妊娠してからというもの食欲不振になっていた。
「先輩、今日も?」
「いやいや、今日こそはちゃんと食べないと。うん。大丈夫!」
恐る恐ると立香は箸を手に取って、煮びたしをぱくりとひとくち。ゆっくり時間をかけて咀嚼する。そして、またひとくち。砂を噛むような思いで彼女は必死に食べ続けた。

「先輩、先輩、ゆっくり歩きましょう!」
マシュは壁に手をついて、うーうーと唸りながら腹部を抑える立香を励ました。顔色は良いとは言い難い。なんとか彼女の気を紛らわせられないかと、後輩はあれこれと自分の記憶の中の引きだしを開け閉めする。そして、ピコンと一つの話を思い出す。その話の中心人物のことを考えるとなんだか面白くは無いが、仕方あるまい。
「そういえば、最近、あのオベロンさんが図書館に頻繁にお姿を見せるのだとか」
ご存じでしたか?と横からマシュが立香に微笑み尋ねる。立香は伏せていた顔を上げて、首を横に振る。
「ううん、知らない。オベロンって図書館嫌いじゃなかった?」
「そうなんです!お話を聞かせてくださった式部さんもたいそう驚いたそうで」
「へー。最近、姿を見ないと思ったらそんなとこにいたんだ。人の苦労も知らないでぇ」
気持ち悪さに気力を削がれていた立香は、オベロンの話を聞いて悪態をつきつつも気分が晴れてきたらしい。よしよし、とマシュはそのまま話を続ける。
「ふふ。意外ですよね。でも、先輩、あんまりオベロンさん責めないで上げてください」
「うん?まあ、恥ずかしいって気持ち私もあるから、逃げたくなるもわかるんだけどね」
頬を少し染めた立香を見て、マシュは例の食堂プロポーズ事件を思い出す。あの後、周りの爆笑に耐えかねたオベロンはすっかり臍を曲げて姿を晦ましている。時折、夜になると立香の部屋を訪れるが、ぎくしゃくとした言葉を数回繰り返しては逃げ出すのだ。そのオベロンが今は図書館に姿を現しているのだという。彼は一体何を読んでいるのだろうか。
「オベロンさんが何を読んでいらっしゃるのか、気になりますか?」
立香の心を読んだようにマシュが尋ねた。頬を染めたまま、バツが悪そうに立香は頷いた。
「『妊娠初期の病気』『妊婦に関わるエトセトラ』『育児の心得20選』」
つらつらとマシュの口から聞きなれないタイトルが紡がれる。そのタイトルと熟読したであろう人物を想って立香は顔を両手で覆った。頬が熱くて熱くて嫌になる。
「うそでしょ……何してるのもう」
(そういうところだぞ、妖精王!)
食事ですっかり気落ちしたマスターの心はふわふわと急上昇したようだ。マシュは後輩の務めを果たしたと満足げだ。暫し沈黙の後、立香が顔を上げる。顔を見合わせ、二人でえへへと照れ笑い。再び移動を再開する為、歩き出した。道中、サーヴァント達の珍事に話の花を咲かせながらゆっくりゆっくりと廊下を進んでいく。――と、開けたエリアに出た。
各所へのターミナルエリア。そこに見慣れた、けれど場所的には見慣れない背中を見つける。オベロンだ。立香は「あ」と声を上げて、声をかけるかどうか迷う。彼の気持ちが落ち着いたかどうか測りかねたのだ。自身も先ほどの話を聞いてソワソワと心が落ち着かない。
手を上げては下げて、と意味の無い行動を繰り返す。ふと、彼の背中越しに誰かの姿が見えた。
「あれ? △△△さんです。オベロンさんがスタッフの方と話されているなんて、珍しいですね」
先程ふわふわと膨らんだ心にぴしゃりと冷たい水が掛けられる。そう、滅びよ汎人類史と声高に叫んだ彼は、立香以外の人間と話すことは無い。元からある程度気心を知れたアルトリアや村正を除けば、サーヴァント同士の交流も希薄だ。そんな彼がただの人間のスタッフに何事かを話している。それ自体はどうってことはない。たまたまそんな気分だったとか。業務連絡とか、色々思いつくことはある。
けれど――、オベロンが立香以外の女性に話すさまは酷く、立香の心を歪める。きりきりと体の内側から締め上げられるような息苦しさを感じるのだ。
どうしましょう、とマシュが聞いてくる。
「……うん。まだ恥ずかしいから、後にするよ」
にっこりと立香はマシュに微笑み、再び自室に向けて歩を進めた。マシュは照れる立香を微笑まし気に見て、その後を追った。

廊下の邂逅から数日。立香は自室のベットで臥せっていた。悪阻が酷く、食事が全く取れない。すっかりと体調を崩してしまっていた。
マシュが心配げにお盆を持って現れた。くたくたに煮た卵雑炊。傍らには飲料ゼリーがある。サプリメントも複数用意されていた。マシュに気が付くと、立香は苦し気に身を起こした。
「先輩!どうかそのまま――。はい、背中に枕を挟みますね。どうぞ、座り悪くありませんか?」
「うん、だいじょうぶ。ありがとう、マシュ」
「いいえ。先輩のお役に立てて光栄です。……お加減は如何ですか」
「うーん、だめ。全然ダメ」
そうですかとマシュは眉を下げて心配を滲ませる。立香は申し訳ないと思いつつ、ここで嘘をついても仕方がない。兎に角、気持ちが悪い。
ふと、気持ち悪いが口癖の男を思い出した。実のところ、彼もこんな気分なのだろうか。だとしたら、なんという苦行を彼に課してきたのか。オベロンは相変わらず、立香の前に姿を現したがらない。現れても極まりが悪いのか、どことなく申し訳なさそうな顔をする。いいんだよ、とその度に立香は微笑んだ。昨日の夜も人目を避けるように現れた彼を思い出す。
その手には花があった。
彼の不器用な思いやりが愛おしかった。受け取った花は白い花瓶に品良く活けられている。その黄色の花を見ながら、立香は涙を堪えた。
(オベロン、貴方の歌が聞きたい――)
もう寂しい夜は遠ざかったと思ったのに。以前よりも離れてしまった距離が悲しかった。意識を遠くへ馳せる立香を他所に、カチャカチャとマシュが食事の準備を進めてくれている。
食べなくては。膨らんだ腹を撫でながら、立香は気合を入れる。
「最適な温度に調整されているそうなのですが、どうぞ火傷にはご注意くださいね」
一匙、立香は白い米を掬う。ゆっくりと口に含んだ。勢いに任せて、二口三口と続ける。
(食べなくちゃ(キモチワルイ)、食べなくちゃ(キモチワルイ)、食べなくちゃ――)
おえっと立香がえずいた。ガチャンと食器と蓮華が滑り落ちる。その際、横の花瓶も巻き添えにした。
「先輩!」
マシュが前屈みになる立香を支える。彼女が洗面台を指さしたので、マシュは立香を抱きかかえる。
その重みにマシュはぞっとした。子供宿した立香は以前より体重が増えたはずだ。だというのに、彼女の重みは以前と変わらぬように感じる。
その腹は膨れているというのに――。

オベロンは図書館で静かに本を捲っていた。ふうと陰気にため息を吐く。彼が求めていたものは無かった。
(まあ、当然か。)
疲れた目元を指で挟む。暗い瞼の裏に、立香の姿が浮かぶ。寂し気に微笑む姿を何度見たことだろう。本当に自分が情けなくて嫌になる。と、彼の横にかたりと誰かが座った。
一体どこのサーヴァントか、いい加減、放っておいてくれないだろうか。おもちゃにされるのはもう勘弁してほしいと渋々とオベロンは隣を見た。
ちりんと彼女を飾る鈴がなる。玉藻の前。ぴこぴこと彼女のケモ耳が揺れる。これはまた珍しい人物だ、とオベロンは目を丸くする。お互い不可侵を貫いていたので。彼女によく似た悪女を思い出し、オベロンは鼻に皺を寄せる。別物だが、どうにもこの顔は好きになれない。玉藻はそんな彼には一目もくれず、優雅にその袖で口元を隠しながら、オベロンを窘めた。
「貴方、流石に目に余ります。このままでは取り返しが付かなくなりますわよ」
「ご忠告どうもありがとう。僕も自分が出来ることを必死に探している最中なんだ。時間が惜しい……放っておいてくれないか」
。貴方、今のマスターをちゃんと見ていますか?手前のことに気を取られて、彼女自身を見失ってはいませんこと?」
何のことだ?とオベロンが眉を顰める。そこにブンと羽音が響いた。蜂の姿をした虫がオベロンに近づき、その前で不規則に飛ぶ。その意図を正確にくみ取って、オベロンは立ちあがった。
「ブランカ!」
ぽんっと軽い音と共にオベロンは身を縮めた。さっと其処に白い蚕が現れて、その背にオベロンを乗せる。飛び立とうとするオベロンに玉藻は最後の言葉を投げかけた。
「目を反らず、きちんと『今』何をすべきなのか見定めなさいませ」
彼女へは応えを返さず、そのままオベロンは風に身を任せた。早く、早く、彼女の下へ行かなければ。

いつもより数段遅く感じる中で、マスターの部屋に辿り着く。縮小した体の霊基を戻して、両手で扉をこじ開けるようにして中に入る。じゃーっという水音。そちらに走り寄れば、立香が苦し気に洗面台に顔を寄せている。何も吐きだすものが無いのかとつとつ彼女の口から唾液が零れ落ちる。その背をマシュが必死に撫でさすっていた。
「マシュ、代わってくれ。それから、ダヴィンチに声をかけて点滴の準備を頼む。出来れば、温かい飲み物も用意してくれると助かるよ」
「お、オベロンさん……はい、はい!先輩をお願いします」
殆ど泣きそうになりながら、マシュが場所を明け渡す。そのまま彼女は扉から走り出ていった。
ひゅうひゅうと背中を上下する立香を後ろから抱きかかえるようにしてオベロンは冷たいその体を温めた。
「立香、立香……」「オ ベロ ン」
可哀そうなほど立香は弱っていた。体だけではない。心も。自分が彼女をそうさせた。オベロンはここにきて、漸く玉藻が言っていた意味を理解した。立香は苦し気に体を反転させる。重たい腹を気遣って、オベロンは彼女の動きを手助けする。洗面台からは変わらず水音が降り注いでいた。
「移動するよ。少し気持ち悪いかもしれないけど、ちょっとの間の辛抱だよ」
濡れた彼女の口元をタオルで拭って、オベロンは慎重に彼女を持ち上げる。その重みに、オベロンは唇を嚙みしめた。
(なにをやっているんだ、この大馬鹿野郎が!)
なるべく振動を与えぬようにして、オベロンはなんとかベットに立香を運んだ。そのまま彼女を降ろさずに自分の上で彼女の位置を調整する。ぼんやりと遠くを見ていた立香がオベロンの胸もとに手を添えた。
「オベロン、……寒いよ、お願い、お願い、傍にいて。誰かのところに行かないで」
弱弱しい立香の声から、先日自分と女の姿を見咎めて酷く心を乱したのだと彼女の心を見た。馬鹿なことを、とそのあまりにも杞憂すぎる心配に、―けれど、オベロンは自戒する。
「知りたかった―。図書館にある本だけじゃあ足りないと思った。現代の医療や出産のやり方を聞いていたんだよ。不安にさせて、……ごめん」
ちゅうと彼女の額に口づけを落とした。腹に負担をかけないように、腕の中に彼女を閉じ込める。ゆっくりと彼女の腕を撫でさすり、震える彼女を温める。
「ご飯食べれないんだろ? 大丈夫、無理に食べる必要はないよ。ダヴィンチに点滴を打ってもらおう。」
「……食べなくちゃいけないのに、ひぅ、気持ち悪くて、食べれないの。どうしよう、どうしようオベロン。赤ちゃんが、赤ちゃんが!」
とうとう立香は堪えていた感情をさらけ出して、泣き叫んだ。ちゅっちゅっと彼女の頬に口づける。大丈夫だよ、とオベロンは慰める。オベロンの温もりに安心したのか。立香の泣き声がだんだんと静かになっていく。しゃくりを上げる程度に落ち着いた様子を見計らって、オベロンが立香の唇と自分の唇を合わせる。
「ん、んぅ」
唇からぎりぎりまで量を少なくした魔力を注ぐと、とろんと立香の目が潤んだ。心内でオベロンの魔力だぁと幼子のように立香は喜ぶ。ある程度魔力を渡したところで、オベロンは唇を離した。
ぷっくりと赤くなった唇が酷くおいしそうだったので、もう一度だけオベロンはその唇を吸い上げる。「ん、は。」彼の口から酷く悩まし気な声が漏れた。
うっとりと立香は自分の唇に吸い付いてくる男を見つめた。彼女のその艶やかな表情に、くらくらとオベロンは理性を飛ばす。
彼女の胸元に手を伸ばしたところで、「えへん、おほん」という咳払いが聞こえた。二人揃って顔を上げれば、扉の傍にダヴィンチとマシュが憮然と恥ずかし気に立っている。
「盛り上がっているところ大変申し訳ないが、点滴の準備を始めさせてもらうよ」
がらがらと医療器具がスタッフにより運ばれるが、みな、居たたまれなさそうにして入って来る。
見られた、絶対見られた――。
あまりの羞恥に、そして、前後の疲労も相まって、立香は完全に意識を飛ばした。遠く誰かの酷く焦った声が聞こえたような気がするが、恥ずかしさで死ぬと本能で拒絶した。