彼は、誰かが捨てた物をひとつひとつ拾い上げて、懐に仕舞い込む。
そんな人だった。
自分の心には澱みも染みも蟠りも、ひとつも無いのだと言った。
数え切れないほどの不幸と、嘆きと、怒りが生まれ。
そして死んでいくのを余さず見つめ続けた彼は。
ブルーの瞳は、平坦で穏やか。
湖畔のように静かな癖に、小舟がひっくり返って二度と浮き上がれなくなるような恐ろしさがある。
その怖ろしい瞳は、私を見る時だけ、少し困ったように細まる。
どうしたものかな、そんな声が聞こえてくる。
私の中にある小さな恋心を、虫眼鏡のような大きな目で見つけてしまったその人は。
丁寧に、丁寧に。
それをピンセットで摘まみ上げ、ビロードの布地に釘で打ち付けた。
私の方には目もくれず。その取るに足りない標本ばかり見ている。
こっちを見てよ。
――そう言いたいのに、言えない。
だってそれは私が捨てた物。
持っていてはいけないと、血飛沫を上げる心臓から引き剥がし、真っ白な雪の中に埋めたもの。
見ないでよ。
私の惨めな思い出なんて。
見ないでよ。
何処かの憐れなお妃様なんて。
チラリ。流し目を一瞬だけ。
直ぐに正面を向いたその横顔が、微妙に吊り上がった口角が。
どうしたものかな、と言っている。
白い指が、鏡に映った私の頬をなぞる。朱い唇が、鏡に映った私の首筋を辿る。
口惜しそうな、恨めしげな、私の顔を見て瞳孔が細くなった。
愉快、愉快と瞳が嗤う。
カチンと来て。
顎の下にあった金具を引き下ろした。ジーッと音がして、白い服の中央が割れる。
怒りのままに、重たいジャケットを脱ぎ捨てた。
黒い布を脱ぐ前に、鏡の中の私が彼の背後に隠れる。
パサリと小さな落下音。
大きな右手が、彼の小さな顔を覆った。
「あー、……どうしたものかな」
今度こそ音になって零れ落ちた言葉を、私の真っ赤に染まった耳が拾う。
変化球しか投げられないピッチャーに。
ど真ん中、ストレート。速球勝負のサインを送る。
「閉じ込めて、布をかけて、誰にも見えないように」
無観客試合をご所望で?
「誰かに見られていると集中出来ないんだ」
ぶっきらぼうに振り向いた彼は。
丁寧に、丁寧に。
私の残った布地を剥いで、ベッドのシーツ上に縫い止めた。
嗚呼。
澱みも染みも蟠りも、ひとつも無い彼の真っ白な心に。
これから、私の声と、血と、体液が。
消えることの無い汚れを与えるのだと思うとゾクゾクした。
――捨てたはずの恋心。
その醜さにぞっとする。
白い指が頬をなぞる、朱い唇が首筋を辿る。
浮かんでは消える罪悪感。
「慎重に触らないと。足も腕も簡単にもげてしまいそうだ」
彼の指がピンセットのように私の体のラインを整えていく。
ぐにぐにと形を変えていく手足に、時折、奥歯を噛みしめて堪えていたけれど。
一際大きな杭が体に打ち込まれたので、思わず叫声が転び出た。
「可哀想に」
ガラスの箱を眺め降ろして、彼が憐れむ。
私を閉じ込めたのは彼なのに。
向こうの方が閉じ込められた標本のようだった。
どうか見ないで。
私達を。
終末装置と人類最後のマスターというラベルが付いた私達は。
誰も見ていないところでしか、触れ合えないから。
灯りを消して。
目隠しをして。
硝子の下に何があったのか、どうか忘れてください。