「はぁっ」
ちゅっ、くちゅっ、と異音を響かせながら、立香はオベロンと口づけを交わしている。白む頭の片隅で立香は、止めなきゃと彼の肩を押す。
「んっ、もう?」
舌が痺れて使い物になれないので、こくこくと立香は必死に首を縦に振る。そろそろ朝のブリーフィングだ。のぼせた頭と頬を両手でパシパシと叩いて、理性を取り戻そうとする。
それを見て、オベロンが面白くなさそうに鼻を鳴らした。れっと犬のように口の端の涎を舐め上げて、なんとなく、こちらの隙を伺っているような……。一抹の不安に、じりと立香が足を下げる。
(オベロン、最近、キス魔なんだよなぁ)
朝目覚めて、トレーニングの合間、お風呂上り。隙あらば、キスをしかけてくる。嫌な訳じゃない。好きな人とのキスだ。むしろ嬉しい。でも……。挨拶のような軽いキスなら、いいのだ。……そうじゃないから、困っている。
舌と舌をすり合わせて、お互いの唾液を飲み干して、――足が立たなくなる程の快感に酔う。もう少し加減してほしい立香だった。
と、気が逸れたのを隙と見たのか、オベロンが顔を近づけてきた。
「だ、だめ!」
咄嗟に彼の口元を両手で押さえる。オベロンが嫌そうに眉を潜めた。もう、と立香は困り顔でオベロンを諫める。
「遅刻しちゃうから、ダメ。終わり。……ね?」
口元を押さえていた手を剥がしながら、オベロンは冷たい視線を立香に投げる。うっ、と立香は首を竦めた。ぎゅうと潜められていた彼の眉が緩む。――いや、歪む。にぃと口角が上がった。
「いいの? ――ココ、物足りないんじゃない?」
ずり、と彼の右膝が立香の脚の付け根を掠めて、「あっ!」と立香の喉奥から悲鳴が飛び出た。そのまま、ずりずりと彼の膝が足の間を往復する。にちゃ、と粘り気のある音と感触が下着の奥で立香を責め立ててくる。
「あ、あっっ、……! こ、このぉ、だめだって言ってるでしょ!?」
ぐわし!と勢いよく、立香がオベロンの局部を握りしめた。
「ぎゃあっ! お、お前、恥じらいはどうした! 女のすることじゃないぞ!?」
ぎりぎりと右手に力を込めながら、立香は必死に虚勢を張る。冷や汗をかくオベロンをせせら笑うようにして言った。
「そんなものは南極の雪の下に置いて来た」
「今すぐ拾ってこい!」
取っ組み合いのプロレスを開幕しようとする二人の耳に、ポーン、と通信音が響いた。
『立香ちゃーん、ブリーフィング始めるよ~?』管制室のダヴィンチちゃんだ。
「はーい! 今行きまーす!」
パッとオベロンの『オベロン』から手を離し、立香はすたこらさとマイルームから出ていく。オベロンがナイフを投げるようにその背に罵声を掛けた。
「今日の夜、覚悟しておけよ!!!」
ちょっと前屈みなのは、やむにやまれぬ事情故に。立香は、嫌だよのサインにべーっと舌を出して完全にオベロンの視界から逃げ去った。
「くそっ。ああ、忌々しい! そこらの女どもみたいに流されていればいいものを、……手強すぎる」
絶賛、人類最後のマスター籠絡計画中のオベロンだった。怠惰、油断、慢心。少しでもその欠片を引きずり出そうと躍起になっている。だというのに、見えてくるのは、思慕、憧憬、――愛情。オベロンが持ちえないその欠片が、酷く甘くて美味しくて……。止めて置けば良かったと思う頃にはとっくに手遅れ。気が付けば、オベロンの方が夢中になっている始末。何処にも行かず、誰にも会わず、この狭い部屋の中で。停滞というぬるま湯に揺蕩っていたい、という境地。
「はぁ~、俺も焼きが回ったもんだ」
彼女のベットの淵に腰を落としながら、天井を見上げる。伽藍とした室内は、彼女という色が無ければどこもかしこも真っ白け。
「ははっ。――真っ暗闇の奈落の底といい勝負じゃないか」
黒か白か。それだけの差でしかない。ぼすりとベッドに倒れ伏し、枕を引き寄せる。やっぱりこれまた白い枕に目を細めながら、その柔い綿に頭を預ける。ふわりと甘い匂いが香った。立香の残り香。すうと吸い込めば、昨夜の彼女の汗の味が口の中に滲む。オベロンの体の下で蛇のようにくねらせる肢体を押さえつけて、その肌に浮かんだ汗を啜った。しょっぱいのに甘い。その味を思い出して、咥内にじゅわりと唾液が溢れた。
(大分、ダメな気がする――。終末装置が聞いて呆れる)
妖精國に居た頃の彼は、もうちょっとストイックというか……、ちゃんとラスボスしていた気がする。冷静に今の自分を振り返ると、ただ盛っている虫という結論に至り、うげぇとオベロンは吐気を堪えた。常に彼は不快感に晒されていながらそれを押し殺している状態なのだが、それとはまた別種の気持ち悪さだった。
(まあ、いいか。どうせもうやることも無いんだ。怠惰に、愚かに、――狂ってしまえ)
催しだした己の愚息に気付かぬふりをして、オベロンは白い部屋の中、意識を途絶する。
彼の根源――、奈落の底へ。
パシュンという駆動音。ひくりと鼻が動いて匂いを感知。微睡んでいたオベロンの目がバチリと音を立てるように見開かれ、その体はバネのように素早く起き上がった。
「あ~、その。……ごめん、やっちゃった」
帰還したマスターは満身創痍だった。あちらこちらに擦り傷と打身。頬に膝に大きなガーゼ。最悪なのは、その右腕。ギプスが嵌められたその腕は首から吊り下げられたバンドに揺られている。
「……」
ざわりと彼の髪が逆立った。爛々と光るその瞳がキュウと縦になる。爬虫類のように瞳孔が狭まった彼の様子に、立香はほろ苦く笑みを返した。
「ごめん」「……」
すぅとオベロンの体から怒気が消える。はぁ~、と地獄の底から湧き上がったような深い、深い溜息。
「何に謝ってんの」
心配かけたから、と立香は聞こえるか聞こえないかの声音で零した。俯いた彼女の表情を前髪が隠す。
「心配? してないよ。これっぽちもね」
オベロンがベッドから立ち上がれば、振動でギシリとパイプが鳴る。ちっ、安物が。とオベロンは舌打ちする。人類最後のマスターのベッドだぞ、リソースを回せリソースをと内心で不平をぶちまけつつ、立香の前に立つ。
「そうだな。きみがどうなろうと俺は構いやしないよ。むしろ、みっともなく虫のように足掻く様は実に愉快だ!」
それだけはこの汎人類史で見る価値があると言いながら、オベロンは立香の腹部に手を宛がう。
「何時か取り返しが付かなくなったらどうする」
「そうだなぁ。その時はゲームオーバーかな? ……世界も、私も」
(何処にも行けない女の子。その癖、その一歩先は深淵の崖先だ)
彼女の腹の上、白い服に黒い爪先を立ててつつ、何かを掴むように撫でる。
「きみってば、本当に嘘つきだよねぇ。――何でも無い振り。大したことでもないと言わんばかりの口振り。あー、……気持ち悪い」
ぎりと鋭い爪が立香の腹をつきりと指す。その痛みに立香が小さくうめき声を零した。痛みに眉を潜めながら真っ直ぐな瞳がオベロンを射抜く。
「仕方ない。だって、……本当の事でしょう?」
透明に。痛みも悲しみも苦しみも。全部全部溶かして、消して、真っ白に、透明に――。
「気に食わないなぁ。ねえ、立香。きみ、どうして俺を呼んだんだ?」
狂気を腹に突き立てられながら、立香は不思議そうにオベロンを見つめた。彼女はその異常性を理解していない。数多の英雄、そして、反英雄。エリートと呼ばれる時計塔の魔術師とて隣にバーサーカーが立てば、極度の緊張状態を強いられるだろうに。奈落の虫、汎人類史を憎み、一度は立香を殺そうとした男に爪を立てられて、なお、彼女は怯えない。彼女は狂気に慣れ過ぎている。
「人理を救うためだよ」
妖精眼――真実を映すもの。オベロンにとっては呪いでしかないこれが、彼女に嘘はないと告げる。はははとオベロンは哄笑した。
「人理! ハハハ、面白いことを言うなぁ。別に俺を呼ぶ必要はないだろ? なんたって俺は汎人類史を憎むものだ」
オベロンは立香の腹から手を離し、彼女を足元から掬い上げた。そのままベッドまで運んでいく。彼女は突然の移動に目を白黒させつつもオベロンに身を預ける。
(抵抗すらしないのかよ)
オベロンは舌打ちする。ベッドの上に彼女を落とせば、傷に当たったのか、苦しそうに背を丸めた。ざまあみろと、せせら笑う。
「もう一度言う。俺を呼ぶ必要はない。汎人類史にはもっと適任がいるだろう、ごまんとな。それなのに、お前は俺を呼んだ。何故だ?」
立香の瞳が初めて揺らいだ。不安、焦燥、危険――。
「言えないかい? なら、俺が言ってやろう。『俺』が必要だったからだ」
はくりと立香がその口を開けて、喘ぐように息だけを吐いた。立香の脳裏にアラートが鳴り響いた。聞いてはいけない。考えてはいけない。透明に、透明に、トウメイニ――!
嫣然と陶然とオベロンが微笑んだ。慈しむような笑み。
「『俺』が欲しかったんだね、立香」
ぎくりと彼女は身を震わせる。
「聞いたよ~。この『俺』を呼ぶのに随分とリソースを使ったそうじゃないか!そんなに、――そんなに『俺』に逢いたかった?『俺』に傍に居て欲しかった?」
あ、あ、と立香が母音を叫ぶ。彼女の透明な心は今、赤に青に、黄色に緑にぐちゃぐちゃになっていく。混ざった色は果たして何色だろう?
立香は咄嗟にオベロンから視線を外した。
「いたっ」
今度こそはっきりと痛いと彼女は呻いた。オベロンの鋭い爪が立香の頬を掴み、無理やり視線を合わせてくる。ごめんなさい、と彼女は呟いた。
「ごめんなさい、ごめん、ごめんなさい! ――許してっ」
「嫌だね。見ろよ、どうして『俺』がこのくそったれな世界に居るんだ? お前が呼んだんだ。
見ろ。逸らすことは許さない。『俺』の存在こそがお前の執着の証そのものだ」
立香の瞳から透明な雫が零れる。雨のように流れは始めたそれを押さえることが出来ず、立香の脳内で誰かが彼女を責めた。
(ナニモ考えてはいけない。感じてはイケナイ。零に。白に。透明に。消して、忘れて。早く、早く、――人類最後のマスターでしょう!?)
脳内の耳障りな音に、オベロンが低く唸る。獣のような糾弾の声がその声を搔き消していく。
「五月蠅い、黙れよ。……いいか、良く聞け。俺は許さない。絶対に許さない。透明になんかさせてやるもんか!」
大きく立香の瞳が開く。
涙は止まらずとも彼女の瞳にあるのは怯えではなくて――。
破顔。まるで、花の蕾が恥ずかしそうに花開くように、立香は笑った。
薔薇色に染まったその頬にあるオベロンの手に、自らの手を添える。
「私でいい? 私のままで、いい?」
フンとオベロンは立香の質問を一蹴する。
「知るかよ。きみが何者かなんて、俺は知らないよ」
ちゅぅとオベロンが立香の唇を吸う。ぺろぺろと零れ伝い落ちてきた涙を舐めて、ちゅっちゅっと彼女の唇をノックする。立香は心得たというように唇を開いた。開かれた先のその奥にオベロンが舌を差しいれる。
「ん……ふぅ、ちゅっ、あ、はっ、んんぅ」
唇の交合の合間に、立香の無事だった左手を動かす。そっと、オベロンの隆起したものに触れた。
「ん!? おい、……」
朝のやり取りを思い出して、オベロンが低い声で警戒する。んふと堪えきれない笑い声を漏らしながら、立香はその膨らんだものを慰めるように撫でた。朝はいじめてごめんね?と囁く。
「っ、あんまり触るな。きみ、怪我してるんだから」
言外に今日はお預けだろ?と言うオベロンに立香は、うん、と頷いた。けれど、彼女は手を引っ込める気配が無い。
「はっ、くそ……、おい。やめろって」
ぶるりとオベロンの身が震える。そこまでして漸く立香は手を離した。最後、彼女の人差し指がつうと彼の隆起をなぞる。くそ、とオベロンが呻く。いい加減文句を言ってやろうと立香の顔を見て、彼は言葉を飲んだ。
ドロドロに溶けた色が彼女の瞳に宿っている。
纏まりも無く、とても綺麗とは言えぬその色に。――欲を見た。
「きみの、せいだぞ」
カラカラの喉奥から吐きだされた言葉に、立香は嬉しそうに笑った。そして、先ほどオベロンが傷をつけた腹に手を当てながら、
「ねぇ……、ぐちゃぐちゃにして?」と言った。