奈落の底に降る雨

外側はカリッと、中は白くふわふわ。バターをひと掬いして、表面に押し付ければ、とろりと溶けた。辺りにコクのある薫りが立ち込める。つうっと指先に温かい液体を感じて、慌てて立香はたっぷりバターを付けたパンに噛り付いた。
むしゃり。程よく弾力のあるその生地を噛みちぎり、咥内でバターと香ばしい小麦の味を堪能する。サクサク。焼いた表面の崩れる音がする。
続けて二口目。三口目。カリッ。サクサク。片手をパンから離して、ティーカップを持ち上げる。たっぷりミルクを入れた濃いめのアッサムに口づける。口の中で、バターと紅茶の豊かな風味が合わさる。ほぅと立香は息を吐いた。
「おいしー」
目の前に置いたプレートに視線を落とす。半熟具合に気合を込めたサニーサイドアップ。瑞々しいレタスとオニオンのサラダ。少し表面が焦げてしまったベーコン。『ザ・朝食』というテロップが流れそうな品々だ。それらを惜しげもなく口の中で味わいながら、立香は窓の外を見た。
窓から様々な植物が生い茂った庭が見える。今日は生憎の雨だが、水やりの手間が省けたと立香は小さく喜ぶ。先日借りてきた本をじっくり腰を据えて読もうと今日の予定を組み替える。しとしとと雨が降っている。彼女以外誰も居ない家だ、雨音がとてもよく響く――。
(平和だなぁ……)
と立香は食べ終わった食器を流しに持ち運びながら独り言ちた。華々しい都会から遠く離れた、イギリスの片田舎。彼女のなんでもない一日が始まった。昨日も、一昨日とも変わらない。ただただ、朝日が昇り、夕暮れが窓を染め、月が訪う。三食しっかりと食べ、庭の植物たちの世話をし、時にマーケットに顔を出して、市場の人と談笑。帰りに市立図書館に寄って、気になった本を何冊か借り受ける。天気が良ければ、てくてくと煉瓦で舗装された道を当てどなく散歩。たまにバゲットにサンドイッチとハーブとレモンで香り付けしたミネラルウォーターを入れて、公園のベンチで日向ぼっこ。幸いにも翻訳の仕事を頂いているので、どこでも作業が出来る。編集さんと何度か電話や音声会議でやり取りをするぐらいだ。寝る前に本を一冊読んでから、テーブルランプを消した。両目を閉じて、立香はもう一度呟く。
(平和だなぁ……)

藤丸立香。彼女の経歴を聞けば、きっと誰しもが驚くだろう。そして、次の瞬間にはとんでもない嘘つきだと誹るだろう。
彼女は、半年と数か月前までは星見の灯台――カルデアで、人類最後のマスターとして、古今東西、様々な英霊を付き従わせていたのだ。けれどそれも過去の話。彼女は用無しとして、カルデアから放り出され、こうして生まれ故郷でもない外国の地に暮らしている。この地を選んだのは彼女の意思だった。マシュを始めとする、カルデアスタッフが日本に帰らなくていいのかとしきりに気にしていたが、立香は笑って飛行機に乗った。色々と工面してもらったおかげで、田舎の一軒家を買い取り、細々と暮らし始めた。最初は物珍し気に接していた周りの人々や市場の人も、彼女の明るい性格にすっかりと打ち解けた。美味しいパン屋のおじいさんと仲良くなり、時折、店番の手伝いを頼まれることすらある。誰もが彼女を器量良しの娘だとほめ、うちの息子はどうだ?などと声をかける。それに恥ずかしそうに首を横に振る彼女を見初めているのは一人二人の話ではない。けれど、決して彼女は誰の言葉にも頷かず、ひっそりと今も一人暮らしている。
その内に誰かが言った。
『彼女は婚約者か夫に先立たれたのでは?』
今もその亡き人に操を立て、静かに暮らしているのだとすれば、あまり騒ぎ立てるのは宜しくない。何時か時間が彼女の心を癒して、その一歩を踏み出してくれるだろう。大丈夫、彼女は芯のある強い娘だ。その日をゆっくり待とうじゃないか。と彼女が聞いたら口を引きつらせるような噂話が小さな町に駆け抜けて。彼女の知らぬところで、平穏が保たれていた。やたら息子やら甥だのを紹介されて、尻込みしていた立香は、最近は随分と静かだなぁと呆けていた。戦闘もアラームも悪夢も無い、この半年はすっかりと彼女の神経を鈍らせていた。マスター形無しである。

晴れた日の温もりを庭でたっぷりと堪能してから、立香は家の扉を潜った。今日のランチはパスタにしよう。生クリームにサーモンとほうれん草。それから、隠し味に味噌を少々。ブラックペッパーと粉チーズを軽く振って、オニオンスープをマグに注ぐ。いただきますと手を合わせてから、大口でパスタを頬張る。むっちりとしたパスタとクリームが絡んで、舌の上で濃厚なタップダンスを踊る。んん~、と鼻に抜ける薫りに舌鼓を打ちつつ、スープをごくりと呑み込んだ。三軒隣のおばさんから教えてもらったレシピで作ったそれは、少しだけ、カルデアキッチン組の作ったスープに似ていた。――かたり、とフォークを皿の上に置く。ゆらりと湯気がパスタから上がっているが、それをぼんやりと立香は眺めた。
彼女は、半年と数か月前の出来事を思い出していた。

 

最初に感じたのは熱だった。彼女の右手が、熱いなと思った瞬間に切り裂くような痛みに変わった。
「――――っ!」
咄嗟に声を押し殺したのは、これまでの経験値故だった。
「何を!?」
ざわりと周囲の人間が驚きに声を上げる。彼女を守るように立つものたち。そして、――彼女を襲った犯人に糾弾するものたち。
「何を――だって? 何を今更驚く必要がある。この僕を、いや、この俺が何者かお前たちは忘れてしまったのか?」
白い装束から一転。黒く禍々しい姿に変わった青年は、酷薄な笑みを浮かべて彼の異形の手に掴んだ光を目の前に掲げた。
「ああ、長かった。今日という日をどれほど待ちわびたことか。これでも辛抱強いほうだと自負していたが、それでも長すぎた。
だが――それも終わりだ。カルデア諸君、そして、汎用人類史の塵ども! お前たちへの復讐を今この時に成そうじゃないか!!」
立香は脂汗を全身から吹き出しながら、舞台に立つように両手をあげる男――オベロン・ヴォーティガンを見る。彼女の右手が燃えるような熱を持ち、彼女の体からはまるで血でも流れているかのように力が失われていく。心臓の音と、オベロンの哄笑だけが彼女の耳に耳鳴りのように響いた。
誰かが彼に問うた。マスターに何をしたのだと。彼は酷く楽しそうに言葉を落とす。曰く、彼女から令呪とそれに纏わる回路を抉り取った、――と。物理的な傷ではなく、魔術的な傷。現に彼女の右手は令呪の光は無く、彼女の体からは魔力が零れるように流れ落ちていく。そんなことが出来るわけがないと誰かが言った。けれど、立香や彼女の英霊たちはその言葉を信じた。奈落の虫。妖精王。彼ならば、あるいはと思った。奪われたのであれば、取り返すしかない。英霊たちが武器を手に取ろうとした時、ぶわりと彼らは光の渦に飲まれる。何が、と立香の後輩――マシュの狼狽えた声が零れ落ちた。その光はレイシフト中に何度も見た光だ。消失の光――。奪われた契約が頭をよぎる。けれど、彼らの現界はカルデアの電力で賄われているはずで……。はっとマシュと立香が顔上げた。オベロンが微笑んだ。
「平和ボケがすぎるなぁ。随分と手薄だったじゃないか。この俺でも簡単に止められたよ」
ぶつん、と周囲が光が消える。電力が落ちたのだ。予備電源として、青い小さな光が灯る間にも、ひとりふたりと英霊たちが光に帰る。マスター! 誰かが叫んだ。その声に応えようとして、立香は彼の、あるいは彼女の姿が見えなくなっていることに気付く。
(どうして)
「当然だろ。きみのなけなしの魔力は俺が奪った。魔力を持たない一般人に、魔力現象は感知出来ない」
その彼ももう殆ど見なくなりそうだった。オベロン――!と立香が必死にその手を伸ばそうとした。それを鼻で笑って、オベロンは言う。
「よくもまあ、この俺をこき使ってくれたものだ。全てを取り戻した今、汎人類史を滅ぼすのは今更が過ぎる。それでも、このまま引き下がるのは俺の矜持が許さない。……最後に、意趣返しをさせてもらうおうか。カルデアのマスター」
オベロンは手の平の光を握りつぶした。藻掻く鳥の羽のような残照を残して、それは掻き消えた。
「これでもう、君は何の力も無いただの一般人だ。君がどれ程希おうとも、英霊は答えない。誰かに召喚された英霊の姿も声も聞こえない。本当の意味で君は役立たず。お役御免ってわけだ!」
どうだい? 中々に洒落の効いた君への置き土産だろう? とオベロンは笑う。笑って、立香の前から消え失せた。彼女の耳元で、「さようなら、クソ野郎」という囁きだけを残して――。

 

それからは、まあ、彼の言う通り。立香は完全に役立たずとレッテルを張られ、魔力が無いならばカルデアに居ることは許されない。と目出度く一般の世界に放逐されることが決まったのだ。
きぃとロッキングチェアが音を立てる。ゆらりゆらりと揺れながら、立香は窓から庭を眺める。酷い話だ。こうもあっさりと手放されるとは、あの頃は欠片も思わなかった。
庭にひらりと何かが飛んだ。

立香は飛び跳ねるようにして、椅子から立ち上がり、庭に出た。バタンッと大きな音を立てた扉には目にくれず、庭の中を見回した。ミニ薔薇のアーチに蝶が一匹止まっていた。
立香は震える声で尋ねた。
「オベロン?」
蝶はその吐息に驚いたように、花弁から離れて高く空を飛ぶ。ひらひらと大きく飛んで、塀の向こうへと消えていった。呆然とそれを見送って、――立香は俯いた。ぽたり、と地面に雨が落ちた。ぽつり、もう一滴。彼女の真下にだけ、雨が降る。
「うそつき」
何が■が無いだ。彼は本当にとんでもない大嘘つきだ。もはや、彼女は隠しもせずに涙を零す。両手で顔を覆って、地面に蹲った。そよそよと風が彼女の髪を揺らす。
「うっ、うう˝ー---!」
あの日、オベロンが立香から令呪を奪った日。立香は時計塔に移送されるはずだった。数多の英霊と縁を結んだ貴重な存在として。彼女の優位性はもやは隠しようもなく。多くの英霊というだけで脅威であるのに、彼女は人類史に刻まれていない英霊や神霊とも繋がりがあった。時計塔は保護と言ったが、恐らくは封印指定もしくはそれに類するような処置がとられると思われた。カルデアスタッフや英霊が反発しないはずもなく、あわや時計塔の使者と一戦を構える寸前だった。
でも、彼女は今、自由の名の下に恐ろしい結末から手放された。
あの日、オベロンが彼女から全ての魔力素質を奪ったから。
もう彼女に魔力的な優位性は何一つ残っていなかった。時計塔は再三嫌味を言いながら、立香を要らぬと捨てたのだ。
「うそつきぃ、うそつき!!!」
復讐なんて、それこそ今更だ。なんて三文芝居。なんてお粗末な幕引き。妖精王ともあろうものが、こんな分かりやすい嘘を吐くなんて。随分とカルデアで彼の嘘は鈍らになってしまったらしい。これは、あの捻くれた王様の、最後の■だ――。

 

ぽつりと何かが額を打って、「いたっ!」とオベロンは呻いた。まどろみから目を覚まして、久方ぶりに手を動かす。なんだなんだと額をこすれば、冷たい感触。水か――? こんな奈落の底に? と訝しんだ彼の頬に、また何かが落ちた。
「あ゛あ?! さっきからなん」
今度は口の中に落ちた。
「うえぇ、なんだこれしょっぱ……い」
ぽつりとまた彼の額に水滴が落ちたが、彼はもう何も言わなかった。代わりにため息をひとつ。ぼりぼりを頭を掻きながら、彼は誰ともなしに言う。
「あのさぁ。もうきみは誰の背も追いかける必要がないし、誰にも追われる必要はなくなったんだよ。好きなものを食べて、好きなことをして、のんびり本を読んだり、日向ぼっこしたり。ああ、働きたいならそうすればいい。誰も咎めないし、誰も何も言わないさ」
そういう間にもぽつりぽつりと雨は降ってくる。――奈落の底に、塩辛い雨が降る。
「何が不満なんだか。英霊と比べるのは気の毒だが、それでも、真っ当な人間だ。適当に番って子供でも作ればいいものを。何時までもふらふらとひとり老人みたいな生活をしやがって……、理解に苦しむね!」
ふうとオベロンは落下しながら器用に肩を竦めて、だらりと全身から力を抜く。頬に再び雫を受ける。
「…………泣くなよ」

もうこの手は届かない。それがいい。それでいい。なのに、そうして泣かれると、あるはずも無い心臓が痛む。ぽつりとまた雫が落ちた。それを咎めることなく、オベロンは受け入れた。きっとこれは罰なのだろう。自分が嘘つきである罰。であれば、甘んじて受け入れるしかないのだ。何時か、どれほど先か、あの頑固者のことだ。それこそ、数年レベルを覚悟して。この雨が止むその時を、奈落の底から待ち続ける――その覚悟をオベロンは決める。

「泣くな……立香」

この言葉だけは、――□になるなと、彼は両目を閉じて祈った。