リーリーリー。
ああ――、虫の音が聞こえる。自分程、虫に所縁のある者もいないだろう。
けれど、この虫の音は聞き馴染みが無い。普段、自分の周りをちょろちょろと徘徊する者たちとは異なる声。
はて、自分は一体どこにいるのだろう?
オベロンが自問した時、もう一つ、カラリと氷の音を拾った。
(――氷?)
それから、そよりと微風が自分の頬を撫でた。湿気を多分に含んだ、質量のある風だ。
纏わりつく空気はとても気持ちが悪い。しかし、その彼の嫌悪を宥めるように、微風がオベロンの前髪を揺らしていく。
(気持ちいい)
どこか肩に力が入っていたオベロンだったが、ゆるゆると体の緊張を解きほぐしていく。風に誘われるようにそっと瞼を押し上げた。
最初に、細い顎と白い首が目に入る。ぼやりとしていた視界に、橙色が見えた。
ぱしりぱしりと瞬きをしたオベロンの動きを察したのか、誰かが顔を傾けて――、その誰かの顔が夜に昇った月のようにオベロンの目の先に現れた。
「起きた?」「……立香」
藤丸立香――人類最後のマスター、……のはずだ。
どうして語尾があやふやになったのか。それは彼女の容姿が聊かオベロンの知っているものと違っていたからだ。
彼女に成りすました別人かというと、そうではない。違和感。それは、彼女が大人びていた故に。
日本の伝統的な衣装、紺の浴衣に身を包み、橙色の髪を緩く結い上げて、飾り気のない黒の簪を刺している。
顔も幼さが幾分か抜け、シャープな面立ち。その金の瞳は変わらず、オベロンに真っ直ぐな感情を注いでいる。
彼女が手に持った扇を動かした。そより――、再び、風がオベロンの前髪を揺らす。
視線を彼女から、上に横にやれば、どうやらアジア地方の民家らしかった。彼女の衣装も考えると、彼女の生まれ故郷の日本なのではないかと思われた。
リーリー。夜の庭からはひっきりなしに、虫の恋の歌が聞こえる。鈴虫。日本や中国に分布する。イギリス出身のオベロンに聞き馴染みがないのも当然だった。
日本の古民家、太陽が落ち切った夏の夜、オベロンはどうしてか大人の姿の立香に膝枕をされながら、涼を取っているらしい。
(どういう状況だ、これ?)
オベロンか、立香の夢だろうか――?それにしては突拍子が無さ過ぎる。
「オベロン?」
まあるい声が振って来る。逸らしていた視線を立香の顔に戻せば、どうしたの?と少しばかり心配そうな色が見える。
オベロンの妖精眼が彼女の心を映す。まるで幼子に見せる母親の愛情のように、温かい気持ちがオベロンにだけに向けられている。
どうしようもなく座りが悪くなって、オベロンが顔背けた。仰向けから横に顔を動かせば、彼女の柔らかい膝の感触とさらりとした浴衣の感触が彼の頬にダイレクトに伝わる。
無意識のうちに頬をこする動きをしてしまったようで、くすぐったいと立香の小さな笑い声が聞こえた。カッとオベロンの頬に熱が灯る。
(何やってるんだ……。これじゃまるで俺が――、立香に甘えているみたいじゃないか)
オベロンの葛藤を他所に立香が、「暑いねぇ」と独り言ちる。カラリ――二度、音がした。そろりと視線を横に、頭上にある立香の方に向ければ。
彼女が薄い茶色の、麦茶だ――が注がれたグラスを持っている。表面に水滴が付いたそれに、オベロンの喉が鳴った。酷く喉が渇いていることに遅ればせながら気づいた。
「それ、ちょうだい」
きょとりと立香が目を開いた。それから、少し気恥ずかし気にしながらも、眦を下げて微笑んだ。彼女の唇が、ガラスの淵に寄せられる。すうと液体が彼女の口に移動するのが見える。
意地悪な、とオベロンが思うか思わないか、直ぐに立香がグラスから唇を離してオベロンを見下ろした。
(あ――)
ゆっくりと彼女の顔が降りてくる。時にして、僅か数秒。柔らかく冷たい唇がオベロンのそれに重なった。その唇を味わうようにオベロンが彼女の肉を食む。彼女の唇が少しだけ開かれた。
こくり。冷たい水が、オベロンの渇きを癒す。ちゅっ、ちゅっと強請るように彼女の唇から雫を吸い込む。やがて、全ての水を飲み干して、冷たい唇がオベロンの元から去っていく。
水滴のついた唇を舌で舐めとりながら、彼は言う。
「どこで覚えたのかな……、こんな手口」
ぱしぱしと彼女の瞼が往復して、少しだけ、彼女の眉が顰められる。
「よく言うよ。こうしないと、直ぐに拗ねる癖に」
「はぁ?」
立香の言葉にオベロンは素直に驚いた。だって、彼らはただの主従だ。マスターとサーヴァント。契約上の関係。でも、――彼女の周りにいる英霊たちと一緒くたにはされたくなかった。
マイルーム当番なんて、まっぴらごめんだね!と言いながら、毎日のように彼女の部屋に入り浸った。立香も理由が無い限り、オベロンをマイルーム当番から外さない。はいはい、今日も君の嫌味が絶好調で何よりと肩を竦めながら、オベロンと下らない応酬をするのだ。共寝はする。けれど、色のあるものではない。胎児のようにお互いにすり寄って眠るのだ。それが、一番よく眠れると自然と二人は理解しあっていた。だから、こんなあからさまな接触は無かった……はずだ。
(何がなんだか。もう分からん、頭が痛い……)
ズキズキと痛む頭を抱えて、オベロンは思考を放棄した。そうだっけ、と言いながらボケっと虚空を見上げる。白々しいなあ、もう。と立香が悪態を吐いた。唇を尖らせたので、その濡れた赤がやけに目に入る。水分に濡れたその唇が室内の明かりを反射して、てらりと光る。
欲しいなぁとオベロンは思った。
(もう一度、欲しい)
一度自覚すると、欲しくて堪らなかった。ねえ、と声を出す。我ながら甘ったるい声に吐気を催しそうになるが、零れてしまった音は取り返せない。
「もっと」
彼女の浴衣の袖を摘まんで、彼女の顔を見上げる。きょとりと顔を驚き染めてから、立香はゆるりと口の端を緩めた。少しだけ伏せられた睫毛が艶っぽい。見たことの無い大人びたそれにオベロンの鼓動が大きく響いた。
立香がもう一度、グラスの淵にその赤い唇を寄せる。こくりと口に液体が――。ごくりとオベロンの喉が鳴る。
(早く、速く――ソレをくれ)
見下ろした立香の瞳が月のように弧を描く。揶揄るような、その視線。妖精眼が彼女の心の言葉を、過たず伝えてくる。
欲しいの――?
「欲しい」
先ほど水分を含んだはずの口の中が酷く乾く。ああ、酷い。こんなに喉を喘がせたのは、いつ以来か。
立香が、右手で零れた橙色の髪を押さえながら、顔を近づけてくる。堪らず、オベロンが迎えるように首を上げて――
「寝顔でひょっとこの顔をするとは、斬新ですね」
バチリと切り替わった。けれど、視界はモノクロで焦点が合わない。パシパシと彼の長い睫毛を瞬かせて、漸く彼を見下ろしている人物の顔がはっきりした。
金の髪の少女、アルトリア――だった。カラリとオベロンの頭の後ろから氷の音がする。
「あ゛?」
「オベロン、大丈夫?」
今度は正真正銘、オベロンの知っている立香だった。彼女はサマーキャンプの服に身を包んでいる。夏の虫の声も、夜の密やかな風も、何もない。あるのは、燦燦と降り注ぐ真夏の日差しと波の音だけ。
ここまで来て、オベロンは漸く自分が周回中に暑さで倒れたことを思い出した。
「だから、着替えたらって親切に言ってあげたのに。頑なに『俺は君たちみたいな浮かれポンチじゃないから、絶対に着替えない』って意地を張って、倒れてたら世話ないですよ」
はぁ~、やれやれとアルトリアが肩を竦める。ぐうの音も出ないとはこのことか。オベロンは無言を貫いた。
「オベロンの衣装、どれも厚着だもんね。ごめんね、疲れているのに気づかなくて」
最後のエネミーを倒したところで、急にぱったりとオベロンが倒れて、全員が大慌てになった。婦長にアスクレピオスを召喚して、速やかに応急処置を取った。大きなパラソルの下、大きな氷嚢と小型扇風機、簡易の冷却魔術をメディアたちに施してもらって、オベロンの復調を待っていたのだった。すっかり蒼褪めたオベロンの顔に立香が心配そうに手を当てる。
「本当にごめん。ついオベロンに頼り過ぎちゃった、ね。……ごめんね」
しょんぼりとした顔と声に、オベロンが鼻で笑った。
「今更だよ、きみ。……あーあ、喉が渇いた。麦茶が飲みたいな~」
はっと立香が顔を上げる。くしゃりと目元を緩めて、待ってて!とパラソルの下から飛び出していく。恐らく遠くにキャンプの準備をしているキッチン組に麦茶を貰いに行ったのだろう。
それを見送っていると、
「ところで、オベロン」
「何だい、アルトリア。俺は疲れているから、あまり話しかけないで欲しいんだけど」
「そうですか。では、手短に。――その伸びきった鼻の下、立香が戻る前に戻してくださいね」
オベロンは高速で手元の氷嚢をアルトリアに投げつけた! その動きを予測していたのか、アルトリアはさっと身を翻し、立香同様に砂浜を駆けて行く。
「やーい、むっつりー!」
「死ね!!」
中指を立てながら、オベロンは唾を吐いた。何たる不覚。気を緩め過ぎていた。がっくりと頭をシートの上に落とす。急に動いたので再び眩暈が襲ってくる。泣きっ面に蜂……。
はあ、と本当にしんどそうにオベロンはため息を吐く。
あれは、何だったのか。オベロンの欲望が見せた夢――?
(いやいやいや。違うし。妖精王にそういった俗物的なものは無い。無いったらない)
もう一度、アルトリアのむっつりー!という叫びが聞こえたので、中指を立てた。
違うと言うなら、後はもう未来視的な、予知夢的なものしかないのだが。
(いや、流石にあれは無い。だって、この旅が終わったら、俺たちは――)
頭を振って、瞼を完全に降ろす。下らないと唾棄しながら、瞼の裏にある夢の残照を追ってしまう。
……夏の夜の夢と割り切るには、惜しいという気持ちを捨てきれないオベロンだった。