【ゆるっと牧場生活】Cada mochuelo a su olivo(春の月)

背の高い木々の間、平原とも森とも言えぬ砂利道を一台のバイクが走っていく。その可愛らしい車体とは裏腹に、ブロロロロロ!という重低音。じゃりじゃりと砂を踏みしめるタイヤからは砂埃が上がっている。太陽が空高く昇り、畦道にはバイクの機体と2つの人影。ふと、後部座席に座る人物が声を上げた。
「りつかー」
「なにー!?」
バイク音に掻き消されぬように、運転手が声を張り上げて返事をした。若い女の声だ。
「看板がみえるー」
「……見えないけど、分かったー!」
何とも不思議な会話だが、彼らの間では成立している。だらりと力無く後部座席収まる男の視力は人間を遥かに凌駕する。事実、藤丸立香が「オリーブタウン」と掲げられた看板を視界に納めたのは、その会話から15分程愛機を走らせた後だった。看板を目にする頃には、すっかりと人の気配は無くなっていた。もはや、獣道と言って差し支えない舗装の無い道を走っていく二人。旅立つ前に立ち寄った町も決して大きくはなかったが、それでも人の生活があった。今はもう栗鼠や狐などの動物、そして、背の高い木々や雑草しか見えない。何故そんな辺鄙な場所を二人を乗せたバイクは走っていくのか。
それは、バイクに跨る二人、藤丸立香とオベロン・ヴォーティガンが人目を忍ぶ身分だからに他ならない。元・人類最後のマスターとそのサーヴァント。彼らがどんな旅を経て世界を救うに至ったかは、ここで語るべき物語では無いので割愛させて頂く。白紙化された汎人類史を救った後、立香は慣れ親しんだカルデアを飛び出して、世界中を当所なく彷徨った。風に吹かれる雲のように旅をするマスターのお供には世界の終わりを告げた奈落の虫。もっと他にチョイスがあったろうに、とは付き従う青年の談。
町から町へ、帰る場所は無く、彼方に此方に其方に。うら若き女性が根無し草とは、……そういう意見もあるだろう。しかし、この娘、全く苦にしていない。それどころかどこか楽し気ですらあった。それもそのはず。彼女は、半強制的に、国を時を世界を越えて旅をしてきた。永遠とも思えるのに、実際は僅か数年の旅路。それに比べれば、現世の行路など可愛いものだ。このままゆらゆらと二人、波間に浮かぶ海月のように旅をする。(まあ……悪くないんじゃない?)とオベロンは思っていた。
――だから、ある日、彼女が「家が欲しい」と言い出した時は、結構驚かされた。(思わず彼女の額に己の手の平を当てていた。平熱だった。)彼女が本気だと確信しながらも、敢えて「正気?」と言葉に出して問うた。こくり、と幼子のように彼女は頷き、「田舎で静かに暮らしたい」と言った。冷静に考えてみれば……そりゃあそうか、とオベロンは思い直す。彼女は世間一般で言えば、成人したばかりの若人。いうなれば、社会人一年目といった頃合い。人生これから――、何時までも根無し草という訳にはいくまい。(既に余人の人生を優に3回は越える程の経験値・・・を積んでいるとは言え、汎人類史基準で言えば、まだまだ若い身空だ)
気の良いバーの店主に、『超が付くぐらいど田舎なところは無いか。具体的に言うと人口50人以下とかそんなレベル』と聞いたところ、唖然としながらも答えられた町の名前が、『オリーブタウン』だった。島の端っこ、小さな港町。海側だが豊かな森があり、のんびりとした住人ぐらいしか売りの無い場所だそうだ。その前評判に「最高!」と立香は喜びの声を上げ、一路、『オリーブタウン』に向かっているという訳だ。
話を戻そう。軽快にバイクを走らせ、オリーブタウンへと向かっているが、流石に田舎と言われる場所。早々、到着はしない。ホテルや宿場なんて上等のものは無いので、テントで夜を過ごした。野営に慣れた二人には何の苦も無い。ランタンを片手に、『どんなところだろう』と田舎具合を想像して語りあう。楽しさと期待の滲む夜だった――。
先ほどまで興奮しながら話をしていた癖にスコンと寝落ちした立香の、頬にかかった髪束をそっと払って、
「何処だっていいさ。……きみが穏やかに暮らせるなら」とオベロンは秘するように囁いた。
人類を二度も救ったヒーローが願うにはあまりにも細やかで、世界の不条理さに憤りの炎が胸の内を燻るけれど。それがどれ程、得難いものか、オベロン知っている。彼女と共に健やかな眠りにその身を浸しながら、「あーあ。汎人類史を助けた後ですらきみと一緒だなんて、うんざりするよ」と口の端を綻ばせた。

幾度目かの『オリーブタウンはこちら』の看板を通り過ぎて、いよいよ町の入口というところ。これまで軽快に鳴り響いていたエンジン音に、プスンという異音が――。プスン、ガスン、ドスン、ドゥルゥゥゥ、……。
「りつかー」
「……」
「煙出てるよ」
「…………」
キュロロロと、まるで仕留められた動物の鳴き声のような音を立てて、エンジンが停止した。ガソリンと煙の独特の匂いが立香の鼻を突く。認めたくない事実から決して後ろを振り返らなかった立香だが、「うわ、やば」というオベロンの声に覚悟を決めてバイクを降りた。黒煙を出している排気パイプを確認する。右から見て、もう一度、左から見る。何度見ようとも現実は変わらない。――|故障《エンスト》だ。
工具を取り出して、あれやこれやと弄ってみるが、所詮付け焼刃の工学知識しかない立香には手に負えなかった。町は目の前だと言うのに、やれ参ったと立香は肩を落とした。オベロンはそんな立香をしれっと眺めながら、途中の小川で汲んだ水を啜っている。他人事のようにしていた彼だが、突如すぅと立ち上がり、立香の傍に寄った。
「誰か来る」
「……」
立香の声をかけてくるものがいた場合、二人の中で暗黙のルールがある。ただの人間であればオベロンはそのまま姿を維持するが、万が一、魔術師だった場合、オベロンは霊体化し、奇襲の構えを取る。何処とも知れぬ旅路で2人が学ばざるを得なかったルールだった。そして、今――。オベロンが姿を消さなかったということは魔術師ではない。
がさり。茂みが揺れる。ガザガサ。物音を立てるならば素人だ。敵ではないと知らず力を込めていた足裏から力を抜いた立香は、件の人物が姿を現した時、カクリと足元を揺らめかせそうになった。あまりにも――気の抜ける印象だったので。小さなハットを頭に載せ、みょんと蓄えられた髭と小柄な背の男性。くりくりとした瞳はなんだか栗鼠のよう。どことなく、空気というか雰囲気が、新所長を思い出させた。髭と言うのは、きっと色々な形状があるのだろうが、不思議と彼らの間に強烈な類似性を生み出してしまう……。髭=所長に似た人みたいなイメージが自動的に形成されてしまう立香だった。
「煙が見えたので様子に来てみたが、……なんだね、キミたちは?」と現れた人物が言う。
「あーと、町に向かう途中だったんですが。ご覧の通り、エンジントラブルで難儀しています」
頭の後ろを掻きながら苦笑いする立香を見て、彼は両手を上に挙げて驚いたと全身で表現する。
「なに!? そいつは大変だ! 任せなさい、ワシのほうでバイクの修理を手配してあげよう。道具屋のクレメンスという男がいる。そいつに預けておこう。直ったら取りに行くといい。それで、どこまで向かう予定なのかね?」
「オリーブタウンという町に行く途中でした」
「なんじゃと? ワシ、そこの町長なんじゃが……いやしかしまた、なんでうちに?」
会話に出てきた自分の町の名前に、彼は自身の髭を撫でさする。喜色というよりは困惑という色が隠しきれない様子。対して、立香も思わず驚きの声を上げて言葉を返す。
「え! そ、そうなんですか? 貴方が? あ――、いや、失礼しました。暫く旅をしていたのですが、そろそろ腰を落ちつけたくて……出来るだけ静かなところで暮らしたいと思ったものですから」
彼らの呑気な会話を聞きながら、オベロンはその身をバイクに寄りかからせた。キューイとどこからか鳥の声が聞こえる。桜色の花弁が宙に舞い、うららかな日差しが彼を照らす。くあと彼の口から欠伸が零れた。
「ほうほうほう! そいつは嬉しい話じゃないか。あ、いや、静かというか裏寂しいというのがホントのところ、……それはそれで悲しいんじゃが。いやいや、折角の新たな住人! 歓迎しよう! おお、そうだ。ちょうどいい場所がある。こちらに着いて来なさい」
そう言って彼が案内したのは、草木が豊かに生い茂る・・・・・・・平野だった。
「立派な牧場だろう?」
「「牧場?」」
立香とオベロンの声が重なった。さもありなん。牧場――とは、鶏を始め、様々な家畜や牧草が広がり、白い柵などで囲われた敷地というのが一般的なイメージだ。では、今、二人の目の前にある場所はというと……。背の高い木々、そこかしこにある岩。ぼうぼうと生え茂った雑草。
「ただの荒れ地じゃないか」
オベロンが隠すことも無く現状を伝える。彼の言葉を窘めたくとも、あまりにもその通りで何も言えない立香。その二人の横で、オリーブタウンの町長(ヴィクトルと名乗った)が、ちょんちょんと人差し指を突き合わせて視線を右往左往させた。
「これでも昔は綺麗な牧場だったんじゃよ? でも、後を継ぐ者がいなくてな。この町は知っての通り、年々住人は減るばかり。みな、自分の生活で手一杯じゃ。気が付けばこのありさまで……」
がっくりと彼が肩を落とした。心なしか瞳が潤んでいる気もする。町を取り仕切るものとして思うところがあるのだろう。なんだか気の毒になってきて、立香は彼を慰めた。
「人の手が回らないと土地も建物も荒れますから、仕方ないですよ。でも、いいんですか? 荒れているとはいえ、大事な場所なんじゃないですか? こんな新参者が借りてしまって」
「……お気遣いありがとう。先ほども言うた通り、大事にしたくとも出来ないんじゃよ。だったら、ここを活用してくれる人に手渡しがほうが良いに決まっとる。ワシ、こう見えても人を見る目はあるつもり。お嬢さんは、――芯のある人だと確信しておるよ」
こうして気遣ってくれておるしなと彼は朗らかに笑って言う。立香が言うのもどうかと思うが、彼は相当お人よしらしい。結局、借地代も要らないと言うばかりか、牧場を始めるにあたっての道具や作物の育て方までレクチャーしてくれた。本当にこの町、大丈夫だろうか。悪い人が来たら……、と心配になってしまう立香だった。
「いや、悪者もこの町で何するって言うんだい?」
「確かに」
ざざん、と牧場の横にある海辺から潮風が吹いて来る。塩害とか大丈夫なのか? そして、この荒れ地に果たして無事に作物が育つのか甚だ疑問だが、兎にも角にも、立香の細やかな野望――田舎暮らしが始まったのだ。
よし、と彼女が両手に力を込めて天に突き上げる。
「えいえいおー! 頑張ろうね、オベロン!」
「おひとりでどーぞ」
「頑 張 ろ う ね! オベロン!!!」
「……はいはい」
二度力強く言った立香に、渋々と頷くオベロン。肩を竦めて、テントを立て始めた。驚くなかれ、小屋すらないのだ。
(これって野宿生活と変わらないんだけど)と内心ため息を吐く彼だった。
早速貰った道具を担いで、木々へと突進していく立香の後姿を見てから、彼は青い空を仰いだ。
「牧場、ねぇ。王子から随分と落ちぶれたもんだ……。ま、他にやることも無いし。のんびりやろうか」
そのうち、メロンでも育ててみるかと彼もまた未来に想いを馳せる。
――そんな、春の月の一日目だった。

****

ゆらゆらと陽光が水面を泳いでいる。
立香は静かにその水面の主である海を見つめる。
――ゆらゆら、ゆらゆら。
小さな輝きのダンスを見つめていると、瞬きの間に夢の世界に誘われてしまいそうになる。パチパチと眠気覚ましに瞼を閉じては開くが、効果は薄い。カクリと足元から力が抜ける間際、クンッと手元が引かれた。バチリッ! 雷でも落ちたのかという勢いで立香の瞼が開かれる。
「フィーーーーッッシュッ!」
キラキラと水の光を纏いながら、その銀身は空中に飛び出た。獲物の最後の抵抗で不規則に揺れる無色の釣り糸をしっかりと左手で捕らえて、立香はその先を持ち上げる。体長は三十センチオーバーといったところ。魚体は細長く、背中の青黒色と丸々と肥えた腹側の銀白色が目にも鮮やかだ。別名、|春告魚《はるつげうお》と呼ばれるその魚を見つめ、立香はにっこりと笑う。
「オベローン! ニシン釣れたよ~!」
立香の足元、ブルーのバケツの中には、今し方釣れた魚と同じ種類のものがいち、に、さん、し。その隙間にはアカエビやシシャモも数匹垣間見える。大漁の成果に、立香は釣り糸を持ったまま後ろの大地を振り返った。視線の先、地面に屈んでいた人影が立ち上がる。遠目でも分かるほど、横柄にその手が腰元に当てられた。

「はぁ~、なーにがそんなに楽しいんだか」
唯の重労働。だのに、嬉々として手を振る少女にオベロンは溜め息を零す。分かった分かったと手でジャスチャーをして、目の前の地面に向き直る。
ざくり。
大地に鍬を入れて、その農具を左右に揺らすと黒々とした土がほろりと崩れ去る。後に残るのは、薄茶色に染まった丸っとした小粒のジャガイモ。昔から様々な地方で食文化を支えてきた農作物。揚げる、蒸す、茹でる、煮込む。人類の叡智とでも言うべき野菜の代表格だ。それらを手に取り上げて、オベロンはその重さを量る。
「うーん、やっぱ最初はこんなもんか」
市場で売られているような大きく丸々としたものとは比べようもないほど小さい自作のジャガイモたち。しかし、植えて僅か六日。それでちゃんと収穫できたのだから、資金も余りない身空では余程価値あることだろう。それに加えて……。
ざくりともう一度鍬を入れると、ピョーンと白い小さなものが飛び出してきた。ミミズ? バッタ? いいや、それには目が二つと口が一つ。ぷるぷると震えたかと思えば、あっという間に大地を走り、暫くすると地面に消えていく。
「いや、ホラーかよ」
摩訶不思議な存在にオベロンは辟易の溜め息を零しながら、再び農作業へと戻る。だって、もう見慣れているので。――その存在には、この農地に辿り着いてから直ぐに気が付いた。木材を確保するために木を切れば、ぴょーん。地面に種を植えようと耕せば、ぴょーん。荒れ果てた大地の雑草を丁寧に刈り取れば、ぴょーん。なんじゃありゃ?と立香と二人で首を傾げたが、特に何か害あるわけでもなく。二人は揃ってスルーすることに決め込んだ。
ガコンと自宅近くの木箱の蓋を開ける。そこにごろごろと取れたばかりのじゃがいもを納めた。こうしておくと翌日早朝に町の人が回収してくれて、その商品分の代金を支払ってくれる。恐らく都会では到底成り立たないビジネスだが、お人好ししかいないこの町では成立するのだ。やれやれと重たい荷から解放されたオベロンは井戸に近づき、手押しポンプを押し下げた。そのまま数度上げては下ろしを繰り返し、ガコガコと音を立てて水を汲み上げる。上流の川から送られてくる上質な水はオベロンの手を綺麗に洗い落としたばかりか、労働で火照った掌を慰撫してくれた。
「ふぅー」
こうしていると、まるで人間のようだとオベロンは不思議な気持ちになる。カルデアから手渡された聖杯で受肉したものの、所詮、英霊という異物に人間のテクスチャーを被せただけの偽物。なのに、オベロンの髪を揺らす春風も、オベロンの掌をすり抜けた水の飛沫も、まるでこの世に生きている・・・・・ような錯覚をもたらすものだから。
「……気持ちわる」
おえーと嘔吐く素振りをするオベロンの鼻に香ばしい薫りが届く。その薫りの先は、積み上げられた木材の建築物からのようだ。それは小さな小さな小屋。立香とオベロンが数日必死に木材をかき集めて、町の大工になけなしの財産とともに作成依頼した我が家である。家など無かった秋の森の有様と比べれば、雨風がしのげるだけ御の字というもの。ギィと蝶番の音と共に新しい木材の匂いが充満する扉を押し開けた。
「あ、お疲れ様~」
ジュゥ。エプロンを着けた立香の手元が焼き音を立てる。部屋中が魚の香ばしい匂いに満ち満ちている。スンと鼻を鳴らしてから、オベロンは手近にある椅子を引いて、どかりと座り込んだ。
「あ~~、疲れたぁ」
「あははっ、お疲れ様。もうご飯出来るよ」
英霊が疲れるわけもないのに、立香はお疲れ様と労りの声を掛け、オベロンの腹の虫は、立香の『ご飯』というフレーズにぐうと返事をした。何だか後ろめたくなったオベロンは、だらりと背もたれに預けていた背を起こし、テーブルの上に肘を突く。
おまたせ、という一言共に、白いワンプレートがオベロンの前に置かれる。程よくマッシュされた薄黄色のポテトに深緑色をした胡瓜がよく映える。堂々とメインを飾るニシンは湯気と薫りを登らせながら、中央に鎮座。銀色だった皮は濃茶の焦げ目に変わり、じゅわりとその油を身から溢れ出させている。
ぐううう。
大きな虫が鳴いて、オベロンが咄嗟にお腹に手を当てた。
「う、くそッ。これだから人間の身体は!」
「え~? でも、人間の身体だからこそ。ご飯が一層美味しいと思うよ」
はいどうぞとフォークを渡されたオベロンは渋々と受け取り、ポテトサラダに突き刺した。勢いのままにそれを口の中に放り込めば、ジャガイモの塊が柔く崩れ舌の上で溶けていく。時折、シャキリと胡瓜の歯ごたえがリズムを与えながら、じんわりとした青臭さを喉の奥に突きつけていった。
(くっ!)
「……不味くは無い」
「んふふッ」
立香がかみ殺せなかった笑いをお茶と共に飲み下し、じろりとした視線をやり過ごす。さてさて、お味は如何かな?などと小さな歌を歌いながら、箸でニシンの身を解した。白い毛羽のような白身と透き通った油。ジュルッと知らず口内に堪った唾を舌の横に押しのけながら、立香はそれを慎ましく舌の先に乗せる。最初に感じたのは熱、その後で薫りと油の心地よいハーモニーが鼻と口の中に広がった。
「んッ、ンン~ッ」
噛むと白身は歯ごたえも無くパラリと崩れて、歯と舌に押し潰される。仄かな甘みと皮の香ばしさが堪らない。最後の一欠片を喉の奥に仕舞い込んだ立香は、「ふはぁ」と恍惚の溜め息を零した。お茶が入ったコップを唇に押し当てたままオベロンはその幸せそうな顔を盗み見る。
「きみ、ほんと……。安い幸せを甘受できる性質で羨ましいよ」
「何とでも。この味わいの前に全ての言葉は無力」
さあ、さあ、召し上がれ。
立香は箸で摘まんだニシンの身をオベロンの口元に差し出す。
「……」
戸惑ったのは一瞬。けれど、直ぐさまオベロンは口を開けて。
――その白い幸福を呑み込んだ。

その白い鳥は、首を四十五度に傾け。
「コケ?(どちら様?)」
と不思議そうに鳴いた。
「いや、こっちが聞きたいけど?」
鶏一匹に皮肉を突き返す蟲キング。立香は抱腹絶倒しないように必死で深呼吸をした。フヒューフヒューという間の抜けた音にオベロンが鼻の頭に皺を寄せる。
「どうしたんだい、マスター。豚の真似かい?」
「誰が豚か!」
素早く繰り出した立香のローキックは、さらりと足を組み替える動作で避けられた。
(おのれ、リーチ差!)
足長王子様めと立香が悔しそうにしている側で、オベロンは「それで?」と件の鶏と対峙するも。
「コケケ(見ての通り、ここに住んでますが?)」
何か? 寧ろオタクらは? とでも言いたげな視線が返ってくる。
「住んでる、ねぇ」
オベロンは彼らの直ぐ側にあるボロボロの納屋を見やった。立香達が木材確保がてらに、木を伐採して、農地を整えていると、現れたのがこのあばらやである。かすれたプレートを見るに、元々は家畜用の小屋だったのだろう。扉は見事にぶち抜かれ、サイドの壁は鶏どころか子牛一頭が通れそうなほど前衛的な穴が空いている。どれだけ放置すればこの有様になるのであろうか。
「これは流石に思うところありますか」
先程までオベロンの後ろで歯ぎしりをしていたとは思えぬ身の変わりようで立香がオベロンの肩に顎を乗せて囁く。その小さな頭を些かの躊躇無く掴んで、オベロンは流れるようにヘッドロックを決める。
「アイタタ! ギブ! ギブ!」
パシパシと腕を三回叩かれたところで、オベロンは立香の頭を解放してやった。
「ま、魚と野菜だけの生活にも飽きてきたところだしね」
ぐるぐると腕を軽く回してから、オベロンは軽い調子で拳を突き出した。

「えーい☆ オベロン・ぱーんち!」

辛うじて建っていた建物はガラガラと崩れ落ちた。

「うわ」
「コケェ(殺生な)」

先程のまでの愛嬌は何処に仕舞い込んだのか、一転、剣呑な面構えになったオベロンは「柱自体が腐ってんだ、取り壊すしかないだろうが」とドン引いた一人と一匹に吐き捨てる。

「さっさと大工に連絡して、修正依頼してきな」
頭ごなしにオーダーを申し渡された立香は、イエッサーと気の抜けた声でひとっ走り町へと続く小道を駆けていった。その後ろ姿が遠くなったところで、オベロンは鶏を無遠慮に掴み上げた。
「ローストチキンになりたくなかったら、精々、僕たちの食卓に貢献するんだな」
「コケェエ!(悪魔!)」
「残念、妖精だよ」
その脅しが功を奏したのか。数日後、立派に修正された小屋の中、藁の上に卵がひとつ。
「「……」」
当たり前の話だが、小屋の中に鶏は一匹しかいない。そもそも雄なのか雌なのかも判然としない鳥であった。
「多分、」
「いい、言うな」
「深く考えない方が良い案件だと思われ」
「言うなつってんだろ」
散々摩訶不思議な体験をしてきた立香はあっさりと理解を手放し、オベロンは何これ?と追求する脳内の自分へ諸手を挙げる。白い海の上に落ちた黄色い太陽。その旨みと栄養源は噛みしめるに余りある、数ヶ月ぶりの目玉焼きを前にして、二人はどうして卵が落ちていたのかは考えないことにした。人の食欲は侮れないなと黄身のまろやかな味に舌鼓を打ちながら、人身に落ちたオベロンは神妙に思うのだった。

手のひらサイズの白い卵形のナニカ、と、その同じ形状をしながら、茶色と緑のボーダーラインを身に纏ったナニカ。白いのに比べてその茶色はおよそ五倍はありそうな体躯。ぬいぐるみサイズと言っても差し支えない大きさだった。それらが、立香達の農場の端をトコトコと歩いて行く。
「ト、ト○ロ!」
「それ以上はいけない」
禁止ワードを口にした立香の頭を軽くはたいて、オベロンはゆっくりとそのナニカから距離を取ろうとする。しかし、その隣に居るのは人類最後のマスターを勤め上げ、無謀と蛮勇をギュギュッと固めたような少女だった。
「追いかけよう、オベロン!」
「そう言うと思った! 止めろ! 触るな! 関わるな!
絶対碌なことにならない!」
しかし、オベロンの絶叫は立香の耳に届かない。全く聞く耳を持たず、その奇っ怪なナニカを追いかけて行く。鼓膜に奈落の蟲専用のフィルタでも搭載されているのだろうか。後で念入りに耳掃除でもしてやろうと両手をワキワキさせてオベロンは立香の後を追う。
「! 人間が来たン! ぼくたちが見える人間は久しぶりン!」
「こんにちは、貴方たちは?」
「ぼくたちはコロポン、小精霊ン」
精霊――。その一言にオベロンは頭を抱えた。立香は「先輩パイセンのご親戚?」と暢気に呟いている。その台詞を本人に言おうものなら、全身血みどろにラメントされることは間違いないだろうに。

「ははぁ~、つまりあの農場は精霊のパゥワーに満ちた不思議農場ってわけね」
パチンと指を鳴らして、うんうんと頷く立香。その耳を掴み上げ、オベロンはおどろおどろしい声で宣った。
「『関わるな』……、そう言ったんだけど?」
正真正銘の本気の言葉に立香は、いたたっと耳を押さえながら器用にもぶうと頬を膨らませる。
「そうは言うけど、オベロン。実際私達、この子達の力にお世話になってるんだよ」
最初っからね、と立香は腕組みをしながらオベロンに向かい合う。
「……」
正鵠を射たようで、オベロンはむっつりと黙り込んだ。それに、と立香は言葉を続ける。
「あそこで生活してるだけで、この子達の助けになるっていう話なんだから、別に私達が困ることって無くない?」
そうなのだ。立香達が自然に暮らす、つまり、農業を行うだけでコロポン達はその力を増していくのだという。……昔々、自然と人がもっと寄り添って生きていた時代、コロポン達を始めとする多くの精霊がこの大地には生きていた。しかし、時が進むにつれ、人は自然を管理あるいは淘汰しはじめ、やがて精霊を目にするものはいなくなってしまった。少し前(注意、コロポン達基準の少しの為、恐らく数十年前)に、ひとりだけ、コロポン達を見ることが出来た人間がいた。その人間こそかつての農場主。それに喜んだコロポン達があの場所に加護を与えたのだという。それも、その農場主が生きていた間だけ。農場主に跡継ぎは無く、彼が没した後は、とうとう、誰一人、コロポン達の存在を目にするものは居なくなった。信仰を失った精霊達にこの地に生きる術は無く、彼らは深い深い眠りについたのだ。

茶色に緑のボーダーラインを身に纏ったコロポン、個体名、ナビポンは言った。
「ぼく、ずっと眠っていたン。でも、ある日、ざくざくって音がして目が覚めたン」
それは、立香とオベロンが鍬を地面に刺した音だった。懐かしい気配がしたナビポンは、恐る恐る目を開いた。そうして、湖畔のように澄んだブルーの瞳を捉えたのだ。

『在る』とは。

目印のために立てられた木と鉞の刃を下にした象形文字より始まった。それは、守るべき場所を指している。守るべき場所、それは神聖な場所。何かが在る・・場所なのだ。出雲の国に神々が集まる|神在月《かみありづき》。在るとは、そう在るべしと見なされて、初めて意味を持つ。

さて、ここに一匹。
力弱きものを見守った蟲が居た。
それが、ナニカを見た・・
ああ、何か居るな、在るな、と見た。

「つまり、オベロンの所為じゃない?」

オベロンは沈黙した。

****

ルビーのような真っ赤な実、一粒一粒、種子のような痩果が均等に並ぶ。太陽の光と上質な水をたっぷりと蓄えたその果実は、甘酸っぱい薫りを周囲に放っている。貴婦人の手を取るように、優しくその実が掬い上げられ。
ぶちり。
容赦なく、茎から別たれた。艶々としたその朱は、ゆっくりと実を取り上げた人物の口元に運ばれる。しゃくり、実が囓られる。真っ赤な実の内は、白と赤のコントラスト。実から滴る朱い果汁は、少女が流す涙のようにホロリと大地へと零れ落ちていった。
「うーん。爽やかな香りと味ではあるけれど、まだまだ甘さが足りないな」
しゃくしゃくと残りの実も喉の奥に、腹の底に落としきって。オベロンは、品評会さながらのコメントを残した。

立香と二人で始めた農業生活は、ゆったりと日々を跨ぎ、季節は移ろいでいく。段々と春の風が遠のき、夏の焦げるような暑さを思わせる日差しの強い日々が顔を覗かせている。農業をするにあたり、単価が高い苺にターゲットを絞り、より良い株を選んで交配させること三度。三号と安直に名付けられた苺は、始めよりもかなり上質なものになったが、まだまだ妖精王の舌を満足させるには遠いようだ。しかし、季節は待ってはくれない。今年の苺の品質向上は、ココが限界値のようだ。オベロンは、パンパンと膝についた泥を払い落とし、側にあった籠をよいしょと持ち上げる。持ち上げた弾みに、籠の中の苺達から一斉に甘酸っぱい薫りが飛んできた。少しだけ口角を上げたオベロンは、言葉とは裏腹に実に軽い身振りで重たい籠を運んでゆく。

カランコロン。

立香が鐘を鳴らした音だった。夕暮れになる前に、鶏たちを小屋に帰しているらしい。ここに住み着いた動物たちは、大変賢く、鐘を鳴らすと小屋から出て、もう一度鐘を鳴らすと小屋に帰っていく。実に不思議だ。……、それ以上の不思議を散々体験、否、自らがその体現であることは黙しておく。
籠を持ったオベロンに気が付いたのか、おおいと少女が手を振る。しかし、その弾みで、籠を取り落としそうになったようで大慌てで籠の端を両手で掴む様が見えた。
「何やってんだ、アイツ」
笑いながら、オベロンは立香が待つ自宅前に向かった。
「うっかり落とすところだった」
開口一番、立香がオベロンの嫌みを制するように自ら失態を報告する。まさにそうしようとしていたオベロンは一度開いた口をゆっくりと閉じた。もごもごと口を籠もらせた後、立香が手にしている果実を見て、にやりと嗤う。
「今度はちゃんと収穫できたようで、安心したよ」
「うっ」
立香が痛いところを疲れたように呻いた。
「う、う、うわーーん! もう謝ったじゃん! 掘り返さないでよぉ!」
立香の悲鳴にオベロンはケタケタと愉快そうに嗤った。

事の起こりは、春の月が真ん中ほどになった頃。
オベロンは、農場の違和感に気づいた。

「……あれ? 立香。ここにあったさくらんぼの木は?」
「え?」

ココだとオベロンが、すっかり平らになってしまった大地を指さす。確かにそこには、昨日まですくすくと伸びていたさくらんぼの若木があったはず。それを聞いた立香の顔色がさぁと青くなる。
「え? え? さくらんぼの木だったの、あれ」
「は? そうだけど……、言わなかったけ。いや、言った! 確かに言ったぞ」
立香の顔色はもはや真っ白。その顔を見れば、何が起きたかなど妖精眼が無くても明らかだった。
「うわーーーー! ごめえええええん!」
事情を聞けば、めっきり足りなくなった木材の為に、斬ってしまったという。流石のオベロンもこれにはショックを隠しきれず。暫く呆然とその場所を眺めるのみ。立香の方は、それはそれは恐縮しながらオベロンに謝り続けた。

――という、悲しい出来事があったのだ。

改めて植え直したさくらんぼが無事にその実を付けた模様。つるりとしたその表面は、苺とはまた違った朱に染まって実に瑞々しい。
「あ」
オベロンが口を開く。始めはきょとりとした表情をしていた立香だったが、直ぐさま要望を汲み取り、慣れた手つきで手袋を外した。そうっとさくらんぼを一粒とり、待ち構えている、大きな、でも、立香が知るものよりもずっとずっと小さな穴の中に差し入れた。もごもごと口を動かしていたオベロンは、べえっと舌を出す。その舌先には、ころんとした黄色い種ひとつ。それは地面に落とそうとしたオベロンの目の前に白い手のひらが差し出された。驚いて種を呑み込みそうになったオベロンに、立香は「ん」と更に手を彼の前に。

(吐き出せって?)

この唾液塗れの種を?

些かの躊躇も無い立香に、オベロンはちょっとばかり引いた。が、相手が譲る気配がないことも理解したので、しぶしぶとその口元を手のひらの近くに。
ぽとり。
小さな種が真白い手の上に落ちた。ぬらりと唾液に濡れたそれは、傾き掛けた太陽の光を反射している。
「きみには抵抗感が無いの?」
その光を見てしまうと、酷く落ち着かず。どうにも黙っていられなくなったオベロンが少しばかり早口に問いかける。
「え、何が?」
立香はオベロンが吐き出した種を零さないように上からもう一つの手を重ねて、大事そうに井戸水のほうへと進んでいく。その後ろ姿を見送って、オベロンは深く溜め息を零した。
「あの調子だと、俺の唾液を飲まされても、しれっと飲み干しそうだな」

(…………ん?)

思わず呟いた言葉に思考が停止する。
唾液を飲む? それは一体どんなシチュエーションだ? と考え始めたあたりで。

「あ゛ー!」
「!? な、なに!?」
井戸水で種を洗っていた立香が突然の奇声に、後ろを素早く振り返る。目に飛び込んできたのは、籠を地面に下ろし、顔を俯かせている同居人の姿。
「ええー、……足でも打ったの?」
「――そんなところ」
返ってきたのは不自然な回答で。立香はこてりと首を傾げるが、オベロンがそれ以上話す気配が無いのを察知して、また種を洗う作業に戻っていった。
(オベロンでもそんな失敗することあるんだなぁ)
後で、湿布を貼ろうかどうしようかと悩む立香の後ろ姿を、オベロンは胡乱げな視線で睨み付けることしか出来なかった。

クチリ、奥歯に残っていた苺の痩果が潰れる音がして。その実の甘さとは裏腹の、酸っぱさと苦みがオベロンの口の中に広がる。

例えば。

あのさくらんぼを二人で分け合って食べたなら。
彼女の体液魔力はどんな味がしただろうか。

ある英霊曰く。
自身のマスターたる相手の体液は。
殊の外、甘く――。
感じられるのだそうだ。

夕陽に照らされ始めた後ろ姿を振り切るように、オベロンは歩き始める。
(逢魔が時――、か。やれやれ、俺ともあろうものが。邪な精霊にでも囁かれたか)
そう心中で零しながら、闇の精霊王は足早に自宅へと戻っていくのであった。