牧場は初冬を迎え、彼方此方に霜が降りるようになった。水溜りで出来た薄氷を踏むとカシュっという音がなる。それが楽しいのか、牧場の犬達は水溜りを見つけては踏む遊びを繰り返している。時折、思わぬ深さの水に足を取られ情けない声が上がることもある。それも含めての遊びのようだ。ある種の度胸試しのようなものだろうか。
ざあん、ざあん――、海鳴りが激しくなってきた。
オベロンはひとり果樹の道を歩く。すっかり葉は落ちて丸裸。冬に実る果樹は無く、寒々しい木々の合間から平たくなった大地が見える。黄金の海はもう見えない。全て秋の内に刈り取り、今は休墾中だ。春になればまた萌黄色の稲が根付くだろう。異常がないことを確認して、来た道を戻る。先週耕したばかりの焦茶色の大地が見えてきた。午後には種を植える予定だ。大根、白菜、長ネギ、牛蒡、ブロッコリー。まるで鍋の具のような一覧に疲れた笑みが浮かぶ。
悲しいかな。野菜作りをするとどうにもそれを使ったメニューばかりが頭の中に浮かんでしまう。湯気の向こう、口をもごもごと動かす人の顔が浮かんでは消える。
ぴたりとオベロンの足が止まる。
――誰かと食事を取る。
そういう当たり前のことが当たり前になって、もうじき当たり前ではなくなるのだ。
現に、精霊祭以降、立香が夕飯を別の誰かと共にすることは増えていった。オベロンが一人で食事をすることも同様に増えた。そういう時の食事は億劫で、なんといっても一人分を作るのが面倒なのだ。今までずっと二人分を作ってきたせいだとオベロンは思っている。まるで鉛でも食べているかのような心地で、つい、パンとチーズで済ませてしまうことが多い。
グイイー、イッイッイ。
農場に独特の鳴き声が響いた。止めていた歩みを進めると、出荷用の花壇エリアに白い鳥が一匹、チョンチョンとジャンプをするように歩いている。雷鳥――、冬になると斑らから白一色になるこの鳥は雪の知らせとも言われている霊鳥。花壇に咲くプリムラやクリスマスローズの香りが気になるのか、時折頭を突っ込むような仕草をしている。それを見て、オベロンの足が小走りになる。
グウッ! 近づいてきた人影に驚いたように雷鳥は山の方へと飛んでいった。
可哀想だが、売り物の花をダメにされては敵わない。やれやれとオベロンは首を回しながら、歩調を緩める。苦労は多いが、すくすくと育つ花や野菜を見ているのは気分がいい。秋の森にいた時から感じていたことだが、どうやら自分は土いじりと相性が良いようだ。衆人の中では、妖精眼などという厄介なもののせいで見たくもないものをたくさん見る事があった。物言わぬ植物の方が万倍もマシだ。
カランコロンと鐘が鳴る。次いで、ンモー、メェー、と牧場らしい鳴き声が上がった。
ベルを鳴らしたのは立香だった。遠くからでも緋色の髪が見える。所々に雪化粧を纏う牧場でそれはよく映えた。どうやら風花が舞い始めたようで、太陽光が雪に当たって乱反射する。あの雷鳥は本当に雪を連れて来たらしい。
ふと思う。
立香は誰かと一緒になったその後はどうするのだろうか。牧場は続けるか、それとも、相手の家業を手伝うのか。
そうすると自分一人でこの牧場を管理することもあり得るわけで。
「面倒だなぁ」
心の底からそう思った。
腐っても自分は彼女の護衛なのだから、彼女の動向が探れる程度に近くにいなければならない。サーヴァントに戻ってもいいが、そうすると彼女一人の魔力ではとても顕界は出来ない。どうあっても受肉した状態が必要になってくる。そうすると衣食住が必要なわけで……、イコール、牧場は続けていかなければならないという図式になる。
「面倒だなぁー」
同じ言葉が再び、声に出た。
(だって、そうだろ? 種蒔きも、餌やりも、収穫も、ぜーんぶ、俺一人がやるってことだろ?)
食事も、アルトリア達の面倒も、作った品物の卸も。一人でこなさなくてはならない。
ずっと、ひとりだ。――この先、彼女の生が終わるその時まで。
「なんでここにいるんだろ、俺」
終末装置なのに。もうオベロンの舞台は、妖精國は、終わってしまったのに。
無意味で無価値な、生を続けなければならない。
「ほんと、面倒」
かくりと落ちた首、垂れた横髪がカーテンになり、その表情は暗と知れない。
――そんな彼を遠くから見やる眼が二つ。黄金の双眸はじっと黒髪の上を漂っていた。
「て、感じでね。私も困ってるんだ」
ほろ苦く笑う立香に、精霊は唇をキュッと締め付けて頭を振った。ふるふると揺れる頭部に合わせて白く長い髪がシャラシャラと鳴る。牧場とは反対、街の奥にある社には滅多なことで人は来ない。普通の人には見えぬ島の精神体である彼女は、ここで街と牧場を見守っている。時折、コロポンを通じて彼女のメッセージを受け取ることもある立香達だったが、今日ばかりは彼女自ら足を運び、儘ならぬ現状を密談しに来ていた。精霊は少し悩んだそぶりの後、恐る恐ると口を開いた。
「私では、お二人の子供の代わりにはなれませんか?」
「え!」
思わぬ返しに立香の頬が赤く染まる。確かに闇の精霊王となったことのあるオベロンを父親のような存在として捉えている彼女だが、立香を母に据えるとは思わなかった。
「やっぱりお嫌、でしょうか」
「あ、いや! 嫌とかそういうことじゃなくて! ……うーん、そうだなぁ。見た目、私達より年上か同じぐらいだから、自分達の子供として見るのは、なかなか難しい、……かなぁ?」
そうですか、とシュンとしてしまった精霊に立香の方が申し訳なくなる。
「それに、子供がっていう話だけじゃなくて。私の覚悟の問題なんだと思う」
「?」
キョトリと首を傾げた美女に立香は淡い笑みを返す。
「……なし崩しにしちゃったけど、本当に彼のことを私の人生に縛り付けていいのかってこと」
彼は一度終わった物語。ピリオドがついたそれに、無理やり次のページを繋げたのは立香自身。
深呼吸を一度して、立香は自分の胸に手を置く。
「オベロンが好きだよ、それは本当。でも、私の欲目で彼を無理やり私という人生の舞台に立たせ続けることが本当に正しいのかな? 彼の幸せを、あー、そんなこと言うと、『そんなものは無いっ!』て怒らせそうだけど。でも、彼の平穏を願うなら、手放すことが本当の愛なんじゃないの?って最近よく考える」
それが出来たらどれほど良かったか。
「本当に、手放せないのか。本当に、彼じゃないとダメなのか」
確かめたいの。と少女は瞳を伏せる。
それを見た精霊は、自分には理解し難く、そして、助力出来ることは何もないのだと理解した。
――であるならば、自分が言うべきことはひとつだけであろう。
「どうか、あなた方の先行きに大地の恵と光があらんことを」
運命の日はすぐそこに。
「本日のメニューは、アサリの出汁が濃厚なクラムチャウダーとオリーブとニンニクの効いたペペロンチーノです!」
食事当番の立香が胸を張って、テーブルに手招く。
冷たい外から帰還したオベロンには願ったり叶ったりのメニュー。手早く外套を脱ぎ捨てると、足早に洗面台へと駆け込んだ。しっかりと洗った手を擦りながらテーブルの席に着くと、香り高いオリーブが鼻をくすぐった。
「どうして、こう、にんにくってやつは人の食欲を刺激するんだか」
人体の不思議であるとオベロンがしみじみとつぶやくと、対面側の立香も深く首を振って同意する。
「では、」
立香の音頭に、オベロンは両手を合わせた。
「「いただきます」」
まずはスープから。冷えた体は温かいものを所望している。ズッと行儀悪く、どろりとした表面を啜った。スプーンを使うことを忘れてしまったあたり、マナーに五月蝿いサーヴァントに怒られそうだが。ここは貴族が集うパーティでもなければ、陰謀渦巻くマフィアの食卓でもない。田舎の、牧場の片隅にある小さな家のテーブル。マナーだのなんだの言う前に、体力を回復させる食事に舌鼓を打つ方が余程大事である。
啜った先、舌先から喉の奥までこってりとしたスープが滑り落ちていく。最初に感じたのは、クラムの旨味。次いで、マッシュルームの芳醇な風味が口の中と言わず鼻の中にも広がった。腹に落ちる感触すら美味いと思わされ、敗北感に唸った。
「うっま」
「でしょー!」
「何これ、やばい薬でも入ってる?」
「あながち間違いではない」
「マジかよ⁉︎」
思わずカップを置いてしまった。掌を上に、ドヤ顔の立香が徐にテーブルの上に鎮座する瓶を示した。まるでソムリエがワインを客に見せるかのような仕草だ。その瓶にあるラベルに、オベロンの目が見開かれる。
「うわ、極上ミルクじゃん」
「最近、ハナちゃん(牛)の調子が良くてね。チーズにするだけなのも芸が無いかなって」
家畜達は健康状態やなつき度に応じて、稀に極上品と呼ばれる副産物が取れることがある。品質に伴って、お値段も鰻登り。如何に家畜達を健康かつリラックスした状態に維持出来るかが牧場主の腕が問われるところだ。
「売ればいい値段になるのに、……良いわけ?」
「お陰様で? うちの経営状況もゆとりが出来たし? ……美味しいかどうか味を知って置くことも大事じゃない」
最後のセリフに結局食べたかっただけではと内心思うが、美味しいものを食べることに意義は無いので沈黙するオベロンだった。くるくるとパスタをフォークに巻き付けて、湯気とともに口の中に放り込む。ガツンとしたニンニクの衝撃は、あっさりとオリーブの後味に押し流される。味つけは非常にシンプルだからこそ、素材の味が活きてくる。むっちりとしたパスタの弾力が歯と歯の間でぷつりと消える。アルデンテ――、イタリア語で『歯に』というだけあって芯一本分の素晴らしい歯応えだ。
「いくらでも食べれそう」
「おかわりありまーす」
「は? 最の高か?」
ブハッと立香が息を吹き出した。きゃらきゃらと笑う彼女にオベロンの口角も自然と上がった。食べて飲んで――、当たり前のこの作業が。……◼︎おしかった。
ひとしきり満足するまでペペロンチーノを食べた後、カフェラテを手に立香は知らせがあると言った。
「今度ね、」
微睡むような温もりの中。その一言は硬く、耳障りな音でオベロンの鼓膜を震わせた。
「クレメンスの誕生日をお祝いするの。実際は今日が誕生日らしいんだけど、流石に家族水いらずのところに入る勇気はないからって断ったんだ。そしたら、別の日に夕飯を一緒にって」
腹から満ちた幸福は滑り落ちる。
(ああ――)
もはや嘆息すら出てこない。
どんな顔で、あるいは、どんな声色で了承を告げたのか。オベロンは覚えていられなかった。
「いってきます」
濃紺のワンピースと少しだけヒールのあるパンプス。シックな装いで立香は家の扉を開けた。
『いってらっしゃい』
その言葉は終ぞオベロンの口からは出ず。曖昧に頷くだけになった。
パタン――。
閉じた扉の向こうで立香がどんな表情をしているのかオベロンは知らない。
ぐるぐると回る思考は一つのことだけを考えている。
『今夜、立香はこの家に帰ってくるのだろうか』
「キャン!」
犬の鳴き声にハッと我に帰る。足元をアルトリアが忙しなく行き来していた。
「ああ、……ご飯だろ。分かってるよ」
ざかざかとドックフードを小さな皿と大きな皿に装い、牧場でとれたミルクを上から注ぐ。ミルクを注ぎ切る前にアルトリアが顔を突っ込んだので、白い飛沫が彼女の脳天にかかった。
「お前なぁ〜」
食い意地が張るにも程がある。頭に白い粒を乗せていることにも気づかない。仕様がないやつめと手近にあった手拭いで頭の上を撫でてやる。それすら厭わぬ食いっぷりに感心した。
「……お前を見てたら、なんだかもう腹がいっぱいになったよ」
いつもであれば夕飯の準備にかかる時分だが、オベロンはキッチンには戻らずに暖炉の側のカウチに身を埋める。適当に開いた本の文字は全てツルツルと滑って目に入ってこない。暫しの間、抵抗をするが……読書を諦めてふて寝のポーズを取った。
本を顔の上に被せてオベロンは独り言る。
「あいつのせいだ」
それは酷い言いがかりだった。
「あいつがお帰りなんて、……言うから」
自分にも帰る場所があるのだと勘違いをしてしまった。
ただ終わらせる為だけに生まれ落ちた虫けらの癖に。国家の転覆の為、泥水を啜りながら雌伏し続けた。呪いをくれた妖精たちを生まれた森ごと焼き、春無き冬の温もりすら得られぬ女の子を星に溶かし、やっとの思いで落ちた奈落の底。ソコこそがオベロンに相応しき場所だったのに。立香が、あんまりにもあっけらかんと、呑気にオベロンと生きる明日を語るから。
とても酷い勘違いを、――した。
オークのテーブル。少しだけ照明が絞られたライト。流れているのは優美で叙情的なシャンソン。
Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer Et la terre peut bien s’écrouler
Peu m’importe si tu m’aimes
ビストロの主人の趣味だろうか。瀟洒な雰囲気にどうにも座りが悪くなる立香だった。テーブルの向こうにいるのは、いつもの黒髪ではなくて。目にも優しい金色の光。クレメンスは食前酒の時点で頬を染めており、あまり酒馴染みがないのだと笑っていた。
二人がシェアしているのは目にも楽しいアクアパッツァ。この島は海に囲まれており、新鮮な魚介が島民の食卓によく並ぶ。ふんわりと白身にアサリの旨味、トマトの酸味が見事に調和して口の中でハーモニーを奏でる。まさしく舌鼓を打つ出来栄えに、立香はこのレシピをどうやって家で再現しようかとワクワクした。
「このトマト、立香の農場でとれたやつなんだって」
Je me fous du monde entier Tant qu’ l’amour inondra mes matins
Tant que mon corps frémira sous tes mains
Peu m’importe les problèmes
一際大きく、愛の唄が耳に飛び込んでくる。口の中のオーケストラが乱され、ひどい不協和音を奏でた。
ゆっくりと視線を皿の上から目の前の人物に向ける。真摯なその瞳は、同居人とは似ても似つかない。色合いは似ているはずなのに、変な感じだと立香は食べかけの一欠片を飲み下した。
「そうなんですか? 嬉しいなぁ……。丹精込めて作ったものだけど、人前に出せるものになっているかどうか不安だったから。こうやって外で目にすると喜びが倍増しますね」
「立香が作ったものはどれも人気だよ。この野菜目当てに観光に来る人も増えたって話を聞いた」
「それは――」
(あんまり嬉しくないかもしれない)
一応、追われている身であることは忘れていないので。人口増加の要因になることはあまり良いことではない気がした。
でも、心のどこかで胸を張りたくなる気持ちも確かにある。
何せ、二人三脚で、それこそ雨の日も風の日も頑張って育ててきたのだ。あの凝り性が側にいて中途半端なものを出すわけがないと自分事のように鼻が高くなる。
「同居人も喜びます」
「……」
その答えにクレメンスの顔が沈む。テーブルに生けられたベゴニアの鮮やかなシェルピンクも一緒に燻んだ気がした。
「ずっと聞きたかったんだけど」
「はい」
「その、同居している人はどういう関係のひと……なのかな」
フォークを取り皿の上に置いて、立香ははっきりと答えた。
「保護者ですね」
ほごしゃ……、と口の中で二度三度繰り返し。最後に、クレメンスはすがるように立香を見返した。
「それは立香にとっても?」
Mon amour puisque tu m’aimes
クレメンスの声と、歌の最後のフレーズが被さった。
(――寝過ぎた)
冷えた空気にオベロンは寝入ってしまったことを悟る。一体今は何時なのか。無理な体勢で寝続けた体が悲鳴を上げ、思わず口から犬のような唸り声が飛び出した。拍子に、顔の上に乗せていた本がどさりと床に落ちる。億劫な……、と思ったところで。
「あ、起きた?」
聞き慣れた声が聞こえて、上半身が飛び起きた。幽霊でも見るような顔つきでオベロンはキッチンを振り返る。
立香がサーモンピンクのエプロンを身につけてこちらを覗いていた。
「ゆめ?」
「なあに? 何か夢でも見てたの?」
あははと笑いながら、彼女はミルクパンと大皿に小ぶりに切ったバゲットをテーブルの上に乗せていく。ツンとチーズの匂いがして、それに釣られるようにオベロンの足がキッチンへと向かう。
「ご飯食べてないんでしょ?」
言い当てられてすぐ、グゥーとオベロンの腹が鳴る。腹を慌てて抑えるも一度鳴ったものは取り消せない。頬を擦りながら、バツが悪そうにオベロンは立ち竦んだ。それを見た立香はちょいちょいとオベロンを手招く。
「一緒に食べよう」
言われるがまま、オベロンはいつもの席に座った。ミルクパンの中には真っ白なチーズがあり、長めのフォークが二つ刺さっている。バゲットにはオリーブが塗られているのか、爽やかな香りが鼻腔に届いた。早くも2回目の大合唱がなりそうだったので、オベロンはお腹に力を入れてやり過ごす。
「さて」
立香がお決まりの合図をしたので、オベロンの口から反射的に言葉が飛び出した。
「「いただきます」」
もったりとしたチーズが追うようにフォークの後に線を引く。それをなんとか絡め取って、そのまま口の中に運んだ。
「ブラックペッパー?」
「そう」
舌先に残るピリリとした刺激の正体を誰何すると、立香はあっさりと隠し味を白状した。
「こんなのもあります」
立香がテーブルの端から中央に寄せたのはひとつのプレート。その白い上には、艶やかなサーモンの切り身。オベロンは無言でバゲットの上に切り身をひとつ乗せると、掬ったチーズを被せた。溢れないように一口で頬張った。
モゴモゴとしばし咀嚼した後で、肩肘をついて顔を俯かせた。
「……誰か、ワインをくれ」
「来年ねー」
「地獄か?」
「しっぶいワイン擬きでも良ければ」
眉間に深い皺が寄る。チクタク秒針が一回りする前にオベロンは口を開いた。
「それでもいい」
「はいよ」
いつの間に用意されていたのか、オベロンのグラスに葡萄色の液体が注がれた。同じく立香のマグにも同色の何かがあるのをオベロンが見咎める。
「お酒、飲めたっけ?」
「サングリアですー」
確かに彼女のマグには果肉の切れ端が浮かんでいる。くんと鼻を鳴らすとオベロンは何だと意地の悪い笑みを浮かべた。
「随分とアルコールの匂いがしないサングリアだね?」
「……工程はほとんど一緒だもん」
ハッとオベロンは鼻で笑う。どうやら彼女のマグの中身はホットワイン、それも相当アルコールを飛ばしたもののようだと勘づいたからだ。お子ちゃまめと意気揚々とオベロンはワインを口にした。
「ぶっ、ゴホッ、……しっぶ!」
「言ったじゃん、渋いって」
ニヤニヤと今度は立香が笑う番だった。ギロリと立香を睨め付けた後、口の中に残ったそれをオベロンは見せつけるように飲み干す。そして、カンッとグラスにあるまじき勢いでテーブルに置くと叫んだ。
「絶対、来年は最高品質のやつを作ってやる!」
「私、桃食べたい、桃。作ろうよ、桃ジュース、桃タルト、桃ゼリー」
「こうなったら、白ワインも作ってやろうか。――白葡萄の品種って店売りしてた?」
「あったかなぁ? 取り寄せないと無いかも……」
あーでもない、こーでもないと物欲ならぬ食欲まみれの計画に花が咲いた。
「オベロン、そんなところで寝たらダメだって」
気がつくとオベロンは最初のカウチに座っていた。
(あ? ゆめ、か?)
先ほど食べたフォンデュは幻だったのだろうか。回らない頭で記憶を探るが、溶けたチーズのようにあやふやで纏まらない。
「さっきのワイン擬き、あんまり相性が良くなかったのかな。珍しいね、オベロンがそんなに酔うの」
上気した頬に立香の手の甲が触れる。ひんやりとした感触にこれが夢でないと分かった。
溢れるように言葉が落ちる。
「もう帰ってこないかと思った」
――シンと部屋に静寂が落ちる。
ああ、しまったと思った。
言うべきではないことを口にしたとぼやけた頭で後悔する。
どんな答えが返ってくるのかと身構えていると、どさりと膝の上に重みがかかった。
ちょうどひと一人分の重みにオベロンの目が限界まで見開いた。
「は?」
目を開いた先に薄く化粧をした立香の顔があった。彼女はアルコールを飲んでいないはずなのに、どうしてかオベロンと同じように頬を上気させている。ぷるりと揺れる唇が果実のような香りを漂わせている。先ほどのサングリア擬きのせいだとオベロンは自分に言い聞かせる。オベロンの膝の上に跨って乗る立香に手を挙げて叫んだ。
「年頃の娘が男の膝の上に乗るんじゃない!」
冷めた視線がオベロンの顔に突き刺さった。よく言うという副音声が聞こえてくる。
「そろそろ答え合わせをした方がいいかと思って」
じろりと落とされる視線と、「ね、自称保護者さん?」と言う微笑みが実に恐ろしい。
「なんの」
抵抗を諦めたオベロンが渋々と口にすれば、立香は我が意を得たと口を開いた。
「五回デートして、三回ご飯を一緒に食べた」
「……」
「手も繋いでみた」
オベロンの眉がぴくりと動いた。
「キスもしてみた方が良かった?」
「――」
むっつりと黙り込んだオベロンを満足そうに見下ろして立香は歌うように叫んだ。
「全然、ダメだった‼︎」
はあ?とオベロンの口がオーの形に開く。
「ちゃんと考えたし、実際、トライもしてみたけど。……私がさ、ご飯を一緒に食べたいのはオベロンなんだよ」
クレメンスの逢瀬はとても穏やかで心地よいものだった、と彼女は言う。
「でもさ、ご飯を一緒に食べて確信した」
この味を彼は好むだろうか。
この野菜を気に入ってうちの牧場でも育ててみたいと言うだろうか。
ああ、今、この瞬間。
目の前にいるのが彼だったら。
聞きたいこと、話したいことがたくさんあるのに……。
「そんなことをばっかりだった」
「……」
オベロンの頬に細い指が沿う。掬い上げるように顔を上向かせて、彼女は唇から溢すように囁いた。
「すき」
「オベロンが、すき」
流れ星、――彼女の瞳の星から雫が滑り落ちる。
「いい加減、私の面倒なんて飽き飽きだろうとは思うけど。――それでも、オベロンがいい。オベロンじゃなきゃ、いやだ」
キッと彼女の眦が釣り上がる。まるで戦場に出ていく時のような表情で彼女は言葉を続ける。
「ねえ。……わ、わたしの、つ、番にな「待って。その台詞は本当にちょっと待って。きみさぁ……いや、もう今更だけど。俺も大概だけど!」
オベロンはこれ以上は目に毒と瞼をぎゅっと閉じて叫んだ。
「あ゛~、なんでこうなるんだ! いいか、よく考えろ! 折角なんでもない人生に戻れたんだぞ!? なんで! わざわざ! 人外を番にしようなんて! 考えるんだ! 馬鹿野郎!!!」
静寂が包む。
「だって、好きなんだもん」
ポツンと置いてけぼりにされた子供のような音。
噛み締めるようにオベロンが呻いた。
「……なんで、俺」
「うわぁ~、その台詞は逆に腹が立つよ。あんなことされてさ、好きにならない訳が無くない!?」
「あんなことって何。言っとくけど、不健全なことなんかしたこと無いからな。きみの妄想の中じゃどうだか知らないけど」
「違います~。そんなんじゃないです~」
「じゃあ、何!?」
「逆切れぇ。……大体さ、妖精国だってさ。私のこと励ましてくれたし」
「必要だったから」
「嘘だ。不必要だったよ。オベロンの目的には、私が人類最後のマスターであれば、それでよかったよ」
オベロンは黙り込む。反論する言葉が思い浮かばなかった。
「世界を救わなくていい、って言われたの、嬉しかった。私の不安な気持ちを分かってくれて、嬉しかった」
「俺じゃなくても同じことをいう奴はいるだろ。そもそも、……妖精眼で見るから分かるだけだ。他の妖精どもにしてやったみたいに、だた、きみが欲しい言葉を並べ立てただけさ。意味なんて……、俺である意味なんて無いんだよ」
反論の糸口を見つけて、立石に水とばかりに言葉を羅列した。
「そうだよ。オベロンだから出来たんだよ。妖精眼を持った、奈落の虫のオベロンだったから。私の気持ちを分かってくれたんだ。私が欲しい言葉を、くれたんだよ」
また、言葉が見つからなくなった。
「騙したのに」
「騙しきれてないよ」
「嘘を吐いた」
「誰だって嘘くらい言うよ」
「しあわせに……なんて」
「しなくていいよ。勝手になるから」
否定の言葉を探しているうちに。
見知らぬ言葉が口から勝手に溢れて止まらなくなっていた。
――まだ酔いは冷めないようだった。
「子供も」
「授かりものだから。世の中にはそういう夫婦も沢山いるよ。子供だけが全てじゃないもの」
「欲しくないの」
「欲しいけど!」
「欲しいんじゃないか」
「だから! オベロンの子供が欲しいの!!」
「「……」」
一際、大きな沈黙が落ちる。
オベロンは身じろぎしたかったが、今の体勢では指一本動かすことすら致命傷になりかねなかった。
「もうヤダ。私、凄い事言った。オベロンに言わされた」
「聞き捨てならないな、きみが勝手に自爆しただけだろ」
「…………」
顔を両手で覆い、さめざめと泣くような仕草が流石に哀れになってオベロンは助け舟にならない泥舟を差し出した。
「出来るか、分からないけど。きみが……それでも、いいなら」
パッと立香の両手が離れる。まるで能面のように感情の無い顔と声音で彼女は告げた。
「私との結婚を前向きにご検討くだされば幸いです」
「善処します」
「善処かよお」
能面は一瞬で剥がれ落ちた。慌てたそぶりは見せないが、間髪入れずにオベロンは言葉を付け足した。
「前向きに」
その素早さに目を瞬かせる立香。ひとつ得心したように頷いてオベロンを見下ろした。
「……この際なので、ぶっちゃけるけど」
「嫌な予感しかしない」
「で、出来れば、兄弟で過ごしてほしいから。最低、ふ、ふたり。ほしい、デス」
オベロンはスゥーと大きく息を吸って。
「……善処します」
とだけ言葉にした。
「振られちゃったわね」
カウンターで店主が囁くように呟いた。
ウィスキーのグラスを傾けながら、クレメンスは苦く笑い返す。
「むしろよくここまで付き合ってくれたな、と思ってます」
そうなの?とミサキは意外そうな顔で同じくグラスを唇に傾けた。付き合ってもらえないかと頼まれて断れず。クレメンス以外には誰もいないから良しとした。
「もうね、あれぐらいあからさまに他人を想ってる顔だといっそ清々しかったですよ」
最初からわかっていたことだと彼は自分を慰める。逆にどうしてこちらに付き合ってくれたのだろうかと不思議ですらあった。店の片隅に置いてあるバイクを思い出す。
(潮時だな)
既にパーツは揃っていた。後は組み立てるだけ。
それを作業を先送りにしていたのは、ただの未練だった――。
Mon amour puisque tu m’aimes
店の中、レパートリの少ないBGMが一巡し、同じ歌詞が響いていた。
以下、注釈ーーー
Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer/青空が落ちてくるかもしれない
Et la terre peut bien s’écrouler/地球が壊れるかもしれない
Peu m’importe si tu m’aimes/そんなことはどうだっていい あなたが私を愛してくれるなら
Je me fous du monde entier/世の中のことなんてどうでもいいの
Tant qu’ l’amour inondra mes matins/愛が毎朝を満たしてくれる限り
Tant que mon corps frémira sous tes mains/あなたの手の下で 私の体が震える限り
Peu m’importe les problèmes/悩みことなど どうだっていい
Mon amour puisque tu m’aimes/愛する人よ、あなたが私を愛してくれるなら
ーーー 『愛の讃歌』より