中天の太陽は強い日差しを送りつつも、袖口を揺らす風は優しい。色づいた木の葉が初秋の風に乗って牧場を渡り鳥のように飛んでく。同じ風に揺られているのはフィーリンググリーンのピンポンマム。丸く花弁が広がるシルエット、いわゆる帽子につけられるような羊毛のポンポンに似ていることからその名がついたという。たんぽぽのように風に揺られているが、キク科に属するその花はすっくとブレること無くその茎を立たせている。
パチリ、――。オベロンは切り取ったピンポンマムのひと房を籠の中に丁寧に仕舞う。籠には白いマーガレット、赤い薔薇が溢れるよに敷き詰められている。香りの強い薔薇が目にも鼻にも主張してくるが、取り分けオベロンはこのピンポンマムが気に入っていた。ころころとしたシルエットは、森の仲間達を思い出させる。香りも控えめ、色も控えめ、そういうところが好ましかった。
モォオ〜。
がくりと膝が崩れ落ちそうになる気の抜けた鳴き声の後に。
「キャンっ!」
忙しない鳴き声が続く。胡乱気に動物小屋の方を見やれば、小さな茶柴が楽しそうに水溜りの上で跳ねまくっていた。バシャリと水溜まりが波打つ度に、泥水が近くにいたハナコ(乳牛)の鼻ずらに飛び散り、実に迷惑そうだ。
「こぉらぁ! アルトリアー!」
「キャゥン⁉︎」
オベロンがどやすと、子犬はしまった!というような顔で脱兎する。器用に動物小屋の柵を潜り抜けて、さつまいも畑へと逃げて行く。
「あいつ……、後で泡風呂の刑だな」
アルトリアは夏の終わりにペットショップから購入した柴犬だ。取り分け、お風呂が嫌いらしく毎回逃げ回っている。しかし、先程の泥遊びでベッタリと全身に泥を貼り付けていたのをオベロンは見逃さない。泣いても喚いてもしっかり爪の間まで洗ってやるからなと決心しながら、出荷箱に花達を突っ込んだ。
パカラッパカラッ!
「どうどぅ」
蹄の音と諌める声。オベロンが振り向くと、そこには緋色の髪の王子様……ではなく、同居人兼護衛対象の立香が手綱を引きながら馬小屋へと入っていくところだった。ぴょんと慣れた様子で馬の上から大地へと飛び降りる。長い鼻面を労るように二度三度撫で付けて、重そうなズタ袋を背負い直す。その足元には大きな影が一つ。凛々しい金色の瞳とアッシュグレイの毛並み。シベリアンハスキーと言われる犬種の大型犬。忙しないアルトリアと違って非常に大人しくしかし勇猛果敢な頼れる仲間だった。
「わふ」
帰ったぞというようにオベロンに向けて、犬が鳴く。それに鷹揚に頷いたところで、足元を旋風が通り抜けた。
「キャウン、キャンキャンっ!」
どこに行っていたんだお前!というように茶柴がハスキーに絡む。腹あたりに突っ込んできたソレを大きな前足でころりと転ばせたハスキーはガブリとその首元に噛みついた。ぶらんと宙に浮かされた茶柴は、キョトリとした顔でオベロンと顔を突き合わせる。
「よくやった、村正。……さぁ、お仕置きの時間だぞ。魔猪」
「キャインっ⁉︎」
ジタバタと暴れ回る茶色い塊を持ち上げてオベロンは「おー、よしよし。随分と盛大に泥まみれになってくれたなぁ、えぇ?」とドスの効いた声で脅しをかける。
「何事?」
と笑いながら立香が近寄ってきたので、泥だらけの茶柴を抱え上げる。
「うわ、随分と派手にやったねぇ。アルトリア」
弁明の余地なしと彼女はアルトリアに苦笑いを溢す。その表情にどうやら逃げ場は無いと悟ったのか、丸まった尾っぽがしなりと力を失ってオベロンの腹の方に垂れた。
よいしょとアルトリアを抱え直しながら、オベロンはゆっくりと家路を辿る。それに追従してくる立香。チラリと彼女の方に視線を流しながら、本日の成果を確認する。
「随分と下まで潜ったみたいだけど……」
ちくりと責めるような色合いの声音に立香の首が罰が悪そうに竦む。
「調子が良かったんだよ。運よく下の階段が見つかったから」
ついね、と言葉を濁す娘にオベロンは大きく息を吐いた。
「キミといい、アルトリアといい、どうしてお淑やかに出来ないんだか。……村正、いいかい。今度この跳ねっ返りがまた地下に行きそうになったらガブリとその足に噛みついていいからな?」
「わふ」
心得たというような応答に立香の首はますます引っ込んでいく。
「ほ、ほら! 今日はダイアモンドが取れたんだよ!」
私の行動に意味はありますと主張する愚か者にオベロンは今一度ため息をつく。
「キミの服を全部白いワンピースにしてやろうか」
「勘弁して!」
割と本気で実行プランを考えながら、オベロンは悲鳴を置き去りに家の扉を押し開いた。
泥だらけのアルトリアと土埃だらけの立香を風呂場に追いやって、オベロンは厨房に立つ。広めのキッチンにそこそこの大きさの冷蔵庫。荒屋だった家は今は小さな家と呼んでも差し支えのないほどに立派になった。
冷蔵庫から玉ねぎを四つ取り出す。先端を包丁で切り落としたら、手早く皮をむいていく。ツンとした匂いがキッチンに広がった。さっと水を潜らせたら薄切りにしていく。鍋にバターを入れて溶かし薄切りにした玉ねぎを入れる。きつね色になるまでゆっくりと弱火で炒め、水と固形ブイヨンを加えて煮詰めていく。あらかた水分が飛んだら、塩胡椒で味を整える。
「ま、こんなもんだろ」
納得のいくベースになったことを確認して、フライパンを取り出した。バターを溶かして、パン全体に行き渡るよに回し入れる。水分の少ない硬い肌触りのドイツパンをザクザクと切り分けてフライパンに。焦がしすぎないように両面焼く。バターと小麦の香り。
鼻から味わうように息を吸い込んでいると、……。
『アルトリア! こらっ、ダメだったら!』
騒がしい声と水音に眉間に皺が寄る。大人しく風呂に入ることも出来ないのかと嘆息しそうになった時。
『きゃっ、やだ、そんなとこ舐めたらダメだってばっ』
何をしてるんだ、何を。思わず握っていたお玉に力が入った。雑念を振り払うようにグラタン皿に飴色のスープ、パン、チーズと盛り付けていく。チーズはやり過ぎなぐらい多めに盛る。自家製のチーズは雑味が無くこっくりとした旨みがあり、ホテルに卸せるぐらいの品質にまで仕上がった。我ながら凝り性なところが遺憾無く発揮された逸品。かたや立香はパンに並々ならぬ情熱を注いでおり、こちらも人のことは言えない。柔らかいブリオッシュもいいが、スープにつけるならガリガリのドイツパンが最高に合う。いい加減、酒のひとつでも欲しくなってきた。来年は葡萄でも仕込むかと思案していると、チンというオーブンの音が鳴る。
ガチンと金属音を立てながら扉を開くと、濃厚なチーズの香り。会心の出来に、やっぱり酒が欲しいと舌を打つ。
「うわぁ、おいしそー……」
気がつけば花の香りが近くにあった。しっとりと濡れた髪をタオルで押さえながら、立香がオベロンの背後からオーブンを覗き込んでいる。風呂場からそのまま来たのか、薄着のシャツの下から上気した肌が見え隠れしている。再度、オベロンは舌を打った。
「みっともない格好でうろつかないでくれるぅ? あっちこっちに水滴が落ちてるじゃないか、犬じゃあるまいし。さっさと身なりを整えてこい!」
厳しめに一喝して立香をキッチンから追い出した。
「はーい」
呑気な返事に苛立たしさが増す。こっちの気にもなって欲しいものだと荒々しくグラタン皿をテーブルに置いたところで、しんと静寂が落ちる。
(こっちの気に? どんな気だよ、馬鹿馬鹿しい……)
受肉をした弊害か。睡眠と食欲以外のものが時折、オベロンを苛む。生理現象とは分かっていても、どうにも気持ちが悪い。人間のオベロン。あまりに矛盾した言葉に嘲笑が込み上げる。捻じ曲がる呪いからは解放されたが、代わりとばかりに悍ましい生命としての本能がオベロンを縛った。
薄紅に染まった肌、シャツの合わせ目から覗く柔らかな曲線。匂い立つ桃のような甘い匂い。
(ああ――、本当にっ気持ちが悪い‼︎)
人の皮を被った蟲、生皮の下にあるのは真っ黒な空洞であり蟲の死体の集合。それが今の己であるとオベロンは理解している。そんなものが彼女に触れていいはずがない。ましてや、彼女の生命の揺籠に横たわるなど……冒涜にすぎる。
はぁ、と儘ならない現状にため息を溢したところで足元に違和感。
「くぅん」
アルトリアがオベロンの足に擦り寄っていた。気遣わしげな視線に、オベロンの口角が上がる。
「はいはい、すぐに君たちのご飯も用意するよ」
小さな塊を蹴り飛ばさないよう、大股でオベロンはキッチンへと戻る。その背を見送る獣。ご飯という言葉に尻尾が二度三度揺れるが、その後、パタリと床に落ちる。
「クゥーン」
そうじゃないよ、とでも言いたげな鳴き声に大きな影が寄り添う。灰色の毛並みを見上げるアルトリアの瞳は実に恨めしげだった。
「わふっ」
なるようになるさ――。村正は達観したような瞳でオベロンの背を追う。
「ウーッ」
ワンっとアルトリアは村正の毛量のある毛並みに突っ込んだ。もだもだする気持ちをどうにかしたくて、頭と鼻先を押し付けるようにその毛並みの中へと差し入れる。整えられた毛並みは見るも無惨に逆立っていく。それに構うことなく、村正はアルトリアの好きにさせた。それで彼女の気が済むなら良いという感じだ。
「あ! こらアルトリア! まーた、お前は村正に絡んで――」
「ぎゃうん!」
誰のせいだと思ってるんだ、ばかオベロン!
その声が聞こえたかどうか、オベロンとアルトリアの攻防は立香が戻ってくるまで続いた。
「いってきまーす」
元気よく立香が家の扉を飛び出していく。週に一度の買い出しの日だ。
「転ぶなよー」
「転びません!」
まるで親子のような会話をして緋色の髪が舞い散る木の葉の中に消えていくのを見守った。
盛秋――、すっかり木々は艶やかに色づきその葉を大地へと落としていく。
桑を持って外に出ると、小さな毛玉と大きな影が足元を弾丸のように通り過ぎていく。天然の絨毯にアルトリアと村正が木の葉を蹴散らしながら駆け回った。
「元気なことで」
オベロンは肩をすくめながら牧場を見渡す。
夏から続いていたナスとトマトの連作は秋まで。今日中に全て収穫すれば、もう一回は収穫できそうな様子。秋になって植えたほうれん草とにんじんはすでに2回目の収穫が終わったところだ。種メーカーに入れて品質を少しずつ上げていく作業に入っている。流石にひと季節では最高品質までには上げられない。来年に期待しよう。
スプリンクラーがクルクルと回りながら水を放出している畑を通り抜ける。――広大な畑を人力でやり切るには些か無理があった。カルデアにいた頃の杵柄か、立香は器用にも色々なアイテムを作り出す。もちろんオベロンも道具作りには一家言があるので、二人でせっせと便利道具を作っていた。その一つが、自動で畑に水やりをしてくれるスプリンクラーだ。しかも、試行錯誤を繰り返した結果、周辺25マスまで水が撒ける改良型も仕上がった。格段に農業が楽になり、収穫率も総じて上がってきた。牧場主一年生とは思えぬ経営に町長であるヴィクトルも実に嬉しげに髭を揺らしていた。なんでも観光客が増えたらしい。自分達の牧場で取れた野菜や酪農品が一役買っているとかいないとか。そのあたりは全て立香に丸投げしているのでよく分からないが。まあ、良いことなのではないだろうか。
「お、出来てる」
畑の横に連なる果樹の道、その一つでオベロンは足を止める。この秋に植えたばかりの葡萄の樹だ。春に植えた桜桃に比べれば細く若木という風情だが、その枝の先には慎ましげに紫の実がついていた。試しにひとつもいで口に入れる。
「酸っぱ!」
だめだこりゃと顔を顰めた。甘みがないわけではないが、とても商品としては出せそうにない。うーんと腕組みをして、ジャムにでもするかと得心する。ワインにするのも時期尚早だと判断した。
「あー、来年かぁ」
実に名残惜しげにその樹の元を去る。葡萄の次は、林檎、その隣にはオリーブ。こちらはまあまあの出来栄え。実のなり具合をチェックして、数日後に収穫を予定する。オベロンの足はそのまま果樹の道の先まで続き、幹の合間を抜ける。目の前が開けると眩い黄色で埋め尽くされる。――それは黄金の海。そよそよと秋の風に吹かれながら、稲穂がたっぷりと肥えた穂先を地面に向けて並んでいる。一面の黄金は壮観の一言。夏頃から始めた稲作と麦作はここにきて集大成となった。パン作りに欠かせない小麦、そして日本人のソウルフードである米には立香が並々ならぬ情熱を注ぎ、秋の森の中に黄金の海を作るまでに至った。風が吹けば、それこそ波のように稲穂が揺れる。この光景をオベロンもひとつの景観として気に入っていた。
それは良いのだが……。
「これを収穫するのは苦労しそうだなぁ」
ひゅるり、通り抜ける秋風がオベロンの肩を撫ぜた。思わず腰に手をやったのもこれまでの経験故か。鎌は鎌でも、自分が使っていた大鎌だと怒られるだろうか。などと考え耽っていると、鼻の奥に気になる匂いが届く。くん、と鼻を鳴らして空を仰いだ。
「一雨来そうだな」
空は快晴。青空が広がっているが、空気に雨の気配が漂っている。乙女の心と秋の空、とはよく言ったもの。天気が変わりやすいのも秋の特徴だろう。
「あいつ、傘持ってたっけ?」
元気よく外に飛び出した同居人の様子を思い出す。両手に買い物袋と品卸用の箱はあれど、雨具の類は見当たらなかった。
「濡れ鼠になられても困るな」
家の床が汚れるのはもちろん、風邪の一つでも引かれたら面倒だ。は〜、やれやれとオベロンは肩を鳴らしながら、来た道を逆戻り。上半身の動きとは裏腹に足早に家に戻るオベロンをアルトリアと村正が不思議そうに見つめたが、舞い散る木の葉の方が重要だったのですぐさま興味を失った。――しかし、ものの数分後。けたたましく家の扉を開けて街へと走るオベロンに驚いて二人が遊んでいた木の葉は四方へと飛び散ってしまった。
「クゥン」
残念そうなアルトリアに村正はため息交じりに落ち葉をかき集め始める。人間というのは実に忙しないなと呆れながらの作業であった。
ぽつりぽつり。雨雲よりも先に雨粒がオベロンの瞼を打った。
「あ〜、くそ! 降ってきやがった……」
手元の傘を広げる。バッという鳥が羽を広げる音と共に黒い傘が空に手を伸ばした。オベロンの手にはもう一本の傘がある。柔らかなブルーのそれは立香のお気に入り。雨空の下でも青空が見えると喜び勇んだ買ったものだ。少しばかり早くなった雨足に焦りを滲ませつつ、久しぶりの街中に視線を走らせる。
(居ない……)
オレンジ色のレンガに水滴が落ちて茶色に変わったそこを踏みつけて、緩やかな階段を駆け上がった。雨雲が垂れ込めたのか、暗い視界の中で消えぬ緋色を見つける。
「り、」
かけたようとした言葉は文字通り欠けて地面へと吸い込まれた。恐縮する立香の手に大きな手が被さる。グリーンの傘を手渡す青年の瞳がオベロンの目にはよく見えた。飾り気の無いツナギの服、流れるような金髪は肩口で切り揃えられている。しかし、そのどれよりもライトグレーの瞳が印象的だった。それは星の煌めき、淡い愛を唄う色彩。
ザアアアア――! 雨が降る、激しく、海鳴りのように。
「ただいまっ!」
飛び込むように立香は玄関の扉から室内に入った。バタンと閉じられた扉の向こうは大きな水音でしっちゃかめっちゃか。途中で降り出した雨は時が進むにつれ激しくなってしまった。クレメンスから借りた傘の先、滔々と雨粒が落ちてもはや小さな滝のようですらあった。
「……ちゃんと拭いてから上がりなよ」
オベロンは顎をしゃくって、玄関の側に置いてあるタオルを差し示した。わざわざ用意しておいてくれたのだろう。それを手に取ると微かな温もりが感じられた。冷たい雨と風に凍えた体が安堵する。ほぅと息を吐きながら顔全体にそれを押し付けた。これ以上冷えない内にと手早く体全体の水を拭き取る。人心地ついたところで、視線を屋内へと向けた。暖炉の側でオベロンが寛ぐように一人がけのソファに身を預けている。手元には何がしかの本があるようだが、暗くてよく見えない。
(あれ?)
「部屋暗くない?」
そう言いながら、立香は電気をつける。オベロンが眩しそうに目を瞬かせた。農作業で随分と荒れた手がオベロンの顔半分を覆う。
「一言ぐらい言え」
実に迷惑そうな声にいつもの立香であればごめんという詫びの一言も告げたであろうが、立香は沈黙したままオベロンの方へとツカツカと歩み寄る。
「……何?」
不穏な空気にオベロンが剣呑な声で対抗する。それを意に介さず、立香は口を開いた。
「どうしたの?」
「俺のセリフだろ、君こそ帰ってくるなりどうしたって言うんだよ」
相変わらず手のひらで目元を覆いながらオベロンは色のない声で問い返す。
「……オベロン、最近、考え事が多いね」
立香の回答は婉曲だった。ある意味、確信めいたそれにオベロンはこれまでかと嘆息する。パチリパチリと焚き火の音がオベロンの耳を打つ。手を顔から話すと本をサイドテーブルにおいて前屈みの姿勢で両手を組んだ。
「……そろそろ保護者離れの時期かと思ってね」
立香はその言葉を鼻で笑った。
「保護者の自覚があったことに驚きを禁じ得ない」
「被保護者の自覚が無かったことの方が驚きだね」
「天真爛漫な幼年期、若葉燃ゆる青春を過ごし、安寧とした巣からの旅立ち。新世界に飛び出した雛は、やがて新たな番を得て、次の世代を創っていく。人間たちの生存本能、いやぁー、実に涙ぐましい! ……漸くきみもその群れに帰ることが出来るようになった。凡庸でなんでもない人生。きみが命を懸けて勝ち得たものだ。ならば、その平凡な人生に伴侶という存在は必要不可欠だろう。何時までも俺が傍に居たんじゃあ、ね」
沈黙が室内を寒々しく打ち据える。
立香の指先から一雫の水が滑り落ちて、ダークブラウンの床に黒い染みを作った。
「私に誰かと結婚してほしいってこと?」
「そういうことになるかな」
「結婚して、家庭を持って、何時か誰かの子供を授かる。そういうことでいいのかな?」
「そうなんじゃないの」
「歯切れが悪いなぁ。自分で言い出したことなのにさ」
「……」
「――分かった。やってみるよ」
「…………」
ギイイイ、――バタン。
閉じられたリビングのドアにオベロンは詰めていた息を吐いた。背もたれに頭を乗せて逆しまの世界を見る。部屋の隅で四つの瞳がオベロンを見返していた。
「なんだよ」
どこか拗ねたような口調になったことをオベロンは後悔する。四つの内の二つは「あーあ」という色を隠しもせず、もう二つは何も言わず手元の方へと伏せられた。論ずるまでも無いと言う仕草に頭痛がした。
(俺にどうしろって言うんだよ、畜生!)
半ばやけになりながらオベロンは足早に自分の部屋へと逃げ去る。家の中で誰もオベロンの味方が居ない。それは裏寂しくオベロンの胸中に隙間風を吹かせた。灯のない部屋の中、どさりと身をシーツに投げながら、自問自答する。
(俺は間違ってない。――立香を本来の群れに帰す。それが自然の摂理だろうが)
お誂え向きに町の青年が立香に恋をしている。立香とて悪い印象は抱いていなさそうだった。だったら、自分が舞台から降りるべきだろう、そう考えたことは間違いなんかじゃない。
「俺は間違ってなんかいない」
――吐き出した言葉は雨音にかき消されてどこにも届かなかった。
翌日、空は雨で洗い流されたお陰か澄み渡るような快晴だった。雲ひとつないそれを見上げながら、オベロンの機嫌は最高に悪かった。
「よーし、やるかぁ!」
立香が腕をぐるぐる回しながら黄金の海へと消えていく。足元が昨日の雨で泥濘むのか時折悲鳴が聞こえてきた。稲穂にその腰あたりまで埋めながら彼女は果敢にも稲刈りに挑んで行った。一方、オベロンの方もうかうかはして居られない。実りに実ったトマトと茄子をひたすらに籠に入れる作業が待っている。赤と紫の道は果てしなく。誰だこんなに植えたやつと罵っても、山彦のように自分に跳ね返ってくるだけ。重い足を無理やり動かして野菜畑へと突入した。
昼食の時間になり、二人は再び集合する。方や重そうに籠を抱え、方やしんどそうに腰を摩っている。中腰が堪えたらしい。
「お昼何する?」
「あー、どうするかなぁ」
籠の中、赤と紫が艶々と輝きを放っている。実に良い張り具合。それを見た立香が提案する。
「ナポリタンとかどう?」
「いいんじゃない? ちょうどピーマンも余ってたし」
トマトを幾つか手元に残し、その他は出荷箱にポイと放る。不思議な箱には魔法も何もかかっていない。町長や雑貨屋の運び手が朝一番に勝手に持っていくのだ。代金は口座振り込みとなっている。魚だろうが野菜だろうが、腐りもせずに収納されるこの箱。その謎は解いてはいけない気がして見なかったふりをしている。ピョーン、とまたひとつコロポンが足元を走っていった。
(俺は、何も見ていない!)
摩訶不思議な島と農場。触らぬが吉である。そう、例え白髪の涼しげな美女がこちらに向かって手を振っていても気にしてはいけない。ヤッホーと手を振る立香を置き去りにしてオベロンは部屋の中に入っていく。
長靴を室内履に履き替え、麦わら帽子を玄関口のポールに引っ掛ける。厚手の帽子はこの後出番が控えているが、今はまだ暑気があり、こちらの帽子の方が使い勝手が良かった。ささっとブラシで砂埃や土汚れを払い落としたら、キッチンで入念に手を洗う。髪をくくって、ダークグレーのエプロンを身に纏う。
「手伝う?」
「いらない。アルトリア達にご飯、あげといて」
はーいと間延びした声が遠ざかっていく。やれやれと漸く一人になったオベロンは食材達を揃え、サクサクと切り分けていく。玉ねぎは薄切りに。ピーマンはワタを取って細切りにする。冷蔵庫から使いかけのソーセージを取り出した。斜め切りに適当に切り分けたら、食材をまとめてフライパンに放り込む。じゅわわ〜といい音をさせる中にオリーブオイルを回し入れた。先に入れるつもりが忘れていたので、玉ねぎが少しこびりついてしまった。ちょっと焦りながら、木べらで全体をかき混ぜて誤魔化す。
(ナポリタンで良かった)
具全体がしんなりしたところで、パスタを半分に割って入れる。イタリア鯖が見たら悲鳴をあげそうだが、ここにはオベロンしかいないので問題ない。水、塩胡椒、コンソメ、刻んだトマトを贅沢に入れて煮詰める。時折、トマトをヘラで潰して様子見。ちょっとぽくならなさそうなので、冷蔵庫からケチャップを取り出した。結局入れるんかーいと言うツッコミがありそうだが、気にしない。それっぽければいいのだ、それっぽければ。
十分水気が飛んだところで、カンッとフライパンを鳴らした。
「出来たよー!」
部屋の奥に届くように声を張り上げる。すぐさま、「今行くー!」と言う応答が返ってきた。ドタドタと騒がしい音を聞きながら、ナポリタンをよそっていると、到着した立香がテーブルに手際良くフォークとスプーンを並べていく。作り置きのおくらスープに火を入れた。冷蔵庫に顔を突っ込んだ立香が水差しを取り出す。森で採取したローズマリーを水に浮かべるとハーブのシャッキリとした香りが広がった。全ての食事が整い、互いに決まった席に座る。
「「いただきます」」
手を合わせて今日の食事に感謝をする。立香の故郷に習ったこのやり取りも意識せずとも自然と出るようになった。がばりと口を大きく開けて赤い麺を啜る。下手に小口にすると口の周りが汚れるのだ。目の前にその例があった。口の端々に赤い色をつけて立香はもぐもぐと口を動かしている。小動物のようなそれに自然と笑いが込み上げた。
テイッシュをそれとなく手渡しするが、彼女はそれをテーブルの上に置いた。拭かないの?と視線だけで問うたが、彼女は「どうせ汚れるから最後に拭く」と堂々と答える。とすると? 食事が終わるまで口周りを真っ赤にさせておくのか? それは女子としてどうなんだと思ったが何も言わないでおく。美味しそうに麺を啜る顔を見ていたら、無粋なことのように思えたからだ。自分で作った食材を日々の糧として口にする。ここには銀の皿も金の燭台も無いが、それに勝る価値あるものが食卓の上にはあった。
――晩秋、食欲の秋の名をほしいままにした季節が終わろうとしていた。
ようやっと黄金の海を小池程度までに縮小しきった頃、立香が食卓で精霊祭の話題を口にする。
「大自然に感謝を込めてランタンを空に飛ばすんだって」
「ふーん。要は収穫祭ってことだろ?」
だねぇと立香はのんびりと相槌を打つ。収穫祭=ハロウィン。その言葉を聞いて震え上がるのはカルデアのもの達だけだろう。幸運な事にこの地では耳を切り落としたくなるようなロックミュージックは披露されないらしい。素晴らしいことだ。だというのに、この娘と来たら「ちょっと寂しいねぇ」などと言う。どうやら度重なる懲罰で耳がおかしくなったらしい。可哀想に。信じ難いものを見る目のオベロンに立香はあっけらかんと本題を口にした。
「クレメンスにお祭り誘われているから、行ってくるね」
飲んでいたお茶を吹き出さなかったのは奇跡だった。
「夕方からのイベントだから、夕飯も一緒にって言われてるの。だから、ご飯いらないよ」
「……わかった。せいぜい楽しんでくるといいさ」
ごくりと飲み下したお茶はまるで泥水のように苦く、溶岩のように胃を焼いた。
部屋の中、オベロンは何をするでもなくただ天井を見上げる。なんでもないことのように言い放つ立香の顔が忘れられなかった。自分で言い出したことだ、今更何を気にすると言うのか。あの日以降、明確に立香が行動しているようには見えなかったので油断した。否、見えなかっただけでこれまで何度も立香は街に赴いている。週に一度だったのが週に二度三度。オベロンが気づかないふりをしていただけだった。イベントに誘われるぐらいだ。二人の仲は順調に進展しているのだろう。
「……」
先程食べた食事が胃から口へと逆流しそうな気持ち悪さ。ベッドに寝転がりながら、吐き気を堪える。
(冗談だろう、何を気落ちしているんだ俺は?)
不可思議だった。良いことをしたのに、正しいことをしたのに。何ひとつ間違っていないはずなのに。この世の全てが間違いだらけのような気がしている。
(じゃあ、どうすれば良かったんだ?)
このまま人形劇のような日常を彼女と続ければ良かったのだろうか。誰にも邪魔されず、誰にも関わらず。オベロンと立香と小さな獣達だけの世界に閉じこもっていれば良かったのだろうか。
「俺に、俺に分かるわけ、ないだろ……」
雨は無い。ザアザアとオベロンの言葉を掻き消すものは何もない。ただ、秋の虫の鳴く声だけが聞こえてくる。リーリーリー、と切なげに番を呼んでいるだけだ。
「……立香」
呟いた名前に果たしてどんな意味が込められているのか、オベロン自身にも分からなかった。
立香は手元のランタンに火を灯す。しばらくその炎の揺らめきを眺めていたが、やがてゆっくりとその手を放した。ふわりとランタンは光を伴って暗い空へと上がっていく。 ひとつ、ふたつ、みっつ。立香の周り、町の住人達も同じようにランタンを空へと飛ばしてく。太陽が沈んだ暗い海辺に橙色の光が蛍のように浮かび上がった
死者の魂を模しているとも、空に昇った人達への贈り物とも言われるこの催しは、オリーブタウン秋祭りの伝統だ。
「綺麗だろう?」
隣で穏やかに笑う青年に立香は頷きを返した。静かで、厳かで。心を締め付けられるような光景。これを誰かと一緒に見ることに意味があるとすら思えた。
(……オベロン)
彼が何を想って立香を突き放したのか。そんなことはとっくに気づいている。彼を憎からず想っている立香に随分と酷い仕打ちをしてくれるものだと思った。だが、彼の言うことも分からないでもない。所謂、吊り橋効果というやつで。特異な環境下にいた立香は刷り込みのように彼を想っているのかもしれない。この恋は錯覚で、気の迷いなのかもしれない。
(私だって、迷ってるんだよ)
何を信じていいのか。立香の考え自体が間違いなのか。カルデアを飛び出した日からずっと迷っている。
オベロンの手を取ったことは罪だったのか。彼を自分の我儘から解放すべきなのか。
――彼を、あの何もない終わりの無い奈落に戻してやるべきなのか。
「迷ってるんです」
「……そうか。付け込むようで気が引けるけど。僕は、……君の答えを待っていてもいいかな」
少し迷ってから立香は浅く頷いた。それを見た青年は薄い笑みを浮かべ、立香の手を握る。びくりと慄いた彼女を慮り、握る込むようなことはせず、ただ指先だけを触れ合わせた。
「――」
祭が終わるその時まで、その指が振り払われることは無かった。