協奏曲★一章:妖精王の口づけ

「さあ、幕をぶち上げろ! クライマックスだ!」
汎人類史の生存を賭けた戦いは、暗い日の射さぬ奈落の最中より始まり、蒼い空に帰った。
取るに足りぬ虫一匹を取り残したまま。

「いやー、ないわぁ。過労で殺す気か?」
ノウムカルデア、汎人類史最後の砦。よたよたと青年が廊下より、一室に入ろうとしている。
足取りは重い。無理もない。日夜、異聞帯攻略に向けて、マスターと数多の英霊群が研鑽と、己が欲望の昇華活動を行っている。周回に次ぐ周回。種火にイベントにと、青年――もとい奈落の妖精王オベロンは引っ張りだこだった。本日のルーティンを終えて、這う這うの体で戻ってきたのだ。
ぐったりとしたその足運びに反して、マスターに酷使具合を陳情する口は饒舌に回る。

「ごめんて。備えは幾らあっても足りないし、最近、新しい人も増えたからさ。全然素材が足りないんだよ」
オベロンの頭一つ下で橙色の髪が揺れている。藤丸立香、人類最後のマスター。
彼女も共にレイシフトから戻ってきていた。亀の歩みなれど、やがては目的地に到達する。
マイルーム前にして、右手を端末にかざすと軽い音共に扉が開いた。揃って同じ室内に入る。
「だから、この狂気としか思えない周回に付き合えって? 吐き気がする、そこら辺の英雄どもとやってろよ。俺を巻き込むな」
「いやー、オベロンてば優秀すぎる。流石、一人でブリテン崩落をやり切っただけあるよ」
「ははは、優秀だなんて。知ってるだろ?俺一人じゃ、モルガンすら倒せない。そんなか弱く儚い妖精王が優秀だなんて、実はこの組織、マスタ―含めた全員がポンコツってこと?」
本来であれば、オベロンには別室が与えられているが、ある日、虫の悪戯に怒髪天を突いたモルガンの急襲にあい、彼の部屋は見るも無残な状態になった。管理不行き届き(自業自得では?)という大義名分を掲げて、現在、オベロンはマスターの自室に押しかけている。また余談だが、部屋の修繕はとっくの昔に終わっているが、オベロンは、聞かれなかったからという屁理屈で、敢えてマスターに報告していない。
(マスターは資材不足がこんなところにまで、と嘆いている。一層、周回にも励もうというものだ)

ばさりとオベロンはマントを外して、床下に放り投げた。
「はー、疲れたぁ。あ、それ拾っておいて」
「えええ、王様かよ・・・いや、王様だったわ」
「平伏して、周回に疲れた王様に高級メロンを献上してくれても構わないよ? なんだっけ、えーと、ヨキニハカラエ~?」
「HAHAHA、オベロンてはお茶目さんなんだから」
小気味よく会話(お互いやってはならない下品なハンドサインを繰り出し)しながら、立香はオベロンが放ったマントを渋々拾おうと身を屈めた。結局拾うのかよ、という呆れたオベロンの視線が投げられる。――と、彼女がびくりと身を震わせた。日に焼けたが白い脚に紅い亀裂。モンスターの襲撃時に、余波で飛び跳ねた石で切ったものだった。痛むのだろう。
「チッ(だから、早く治療室に、せめて医療系サーヴァントを呼べっていったのに。自分で処理するって聞かないんだからな、馬鹿が)」
「っ!」
立香は後ろ脚に走った痛みに思わずたたらを踏んだ。咄嗟に体が反射はしたが、踏んだ先が悪かった。思い切りマントを踏みつけて、今度こそ彼女は足を滑らせた。
「このっ大馬鹿!」

ガンっという落下音は聞こえず、立香が想定した痛みは来なかった。はっと目を開くと、彼女の目の前には病的に白い肌と上等な生地のブラウスがある。
オベロンが彼女を抱きとめて、後ろ向きに地面と衝突するのを防いでくれたようだ。
ごくりと目の前の喉仏が動き、はぁああと心の底から出されたため息(めんどくさそう)が、彼女の前髪を揺らす。
「きみは俺を疲れさせる天才か?」
「あ・・・、ごめん、なさい。あの、・・・ありがとう。流石にさっきの体制のままだったら、思いっきり頭を打ってたかも。」
「かもじゃなくて、その通りだよ。ほんっとうにさぁあ、どうしてきみは次から次へと問題を」
抱え込んだ彼女の肩越しに、己のを両手を見やって、突如、オベロンは言葉を止める。
「・・・オベロン?」
立香の不思議そうな声を聴きながら、オベロンはその問には答えずに、自問した。

(手に力が入らない。微かに震えてさえいる。怖かった?何が?――彼女が傷つくこと、それが俺は恐ろしいのか。)
必死で彼女を抱きとめて、安堵のため息を吐いている。その圧倒的な違和感。
全ての生命を忌避し、ありとあらゆる終焉を望んだ奈落の王が! ただ一人の娘の傷に慄いている!

そして、こんなに近く、彼女と接触して、嫌悪感を抱かない現状の状態にも疑問を呈する。
(おかしいだろ。何で気持ち悪くない?)
(俺は、僕は、何もかも気持ち悪い。それは疑いようも無く事実だ。じゃあ、この状態はなんなんだ?)
一度沸いた疑問、取るに足りぬと捨て置けばよかった。だが、将来の真面目さからオベロンはその違和感の根源を探してしまった。ここに金と青の少女がいたならば、『今更ですか、オベロン。あなた、とってもニブチンなんですね。』と失笑したことであろう。

「哀れみ? あるいは、役目に追われた者同士のシンパシー?」
「あの、・・・オベロン? おーい? (・・・だめだ、聞いてないなこれ)」
一人で自問するオベロンを眺めて、なんか考え始めたなぁ、と立香は寛容(諦めともいう)に受け止めた。時折、このようにオベロンは他者を隔絶して自分自身の考えに没頭することがある。
暫くすれば、勝手に納得して、なんでもないよと煙に巻くのだ。だから、まあ、いいかと。
むしろ足元で踏んでいるマントのほうを彼女は気にしだした。
(これ洗ったほうがいいのかな。霊体化したら、汚れも消える? エミヤに相談かなぁ)
流石は人類最後のマスター、心が広い。他者からの接触に麻痺している。
『こっちはこっちでニブチンだったかー』頭を抱える金碧の少女の幻想が見える。南無三。

放置されたオベロンの自問は、袋小路に陥った結果、変な方向に着地し始めた。
正しい分析には検証が必要だ。どこまでなら自分は彼女を許容できるのか。
オベロンは咄嗟に背に回した両手の内、その右手をするりと背から腕へと移動し、彼女の左手の甲をなぞった。
「お?」
動き出したオベロンへの疑問の声を無視して、立香の手を取った。
彼女の左手を握る。やわやわと握りこんで、感触を確かめた。
(特に変化なし)
握りこんだ手の平を解放し、今度は異形の左手に力を込めた。ぐっと前に押し出せば、彼女の体は自然とオベロンに寄り添う。
「待って、本当に何してるの?」
(これも変化なし)
「ちょっと――ッ!」
そっと彼は顔を寄せ、立香の額に頬を寄せた。ぴたりと彼女の動作が止まる。
皮膚と皮膚と触れ合わせて、尚、オベロンは嫌悪感を抱かなかった。異常事態では?
「後は・・・」

少しだけ顔同士の距離が離れ、視線が交差した。いい加減にして、と立香は、声を上げた。
いや、上げようとして、咄嗟に右手でオベロンの口元を覆った。
「いやいやいやいや、何してんの? 流石にアウトなんですが?」
「うるさいな。さっさとその手をどけろ」
勢いがあったのか、いい音がしたので、相応に痛かったらしい。怒りの波動を感じるが、それどころではない。もごもごと、口元の手をどけようとするオベロンと近づいてきた顔というか唇に焦りながら、立香は声を張り上げた。
「いや!? 意味が分からないが!? だから、顔近い!!!!」
「ふるは(うるさ)」
不愉快そうにオベロンは顔面をゆがめて、ぎちりと左手の爪を立香の背に突き立てる。はっとその感触に青ざめた彼女は力を抜いてしまった。その隙を見過ごさず、オベロンは緩んだ手首を掴み上げ、――彼女の唇に嚙みついた。

(やっぱり何も感じないな)
ちゅっと唇を合わせながら、オベロンは身の内の感情を確かめる。
否、何も、というのは嘘だ。もっと奥に―、求める衝動のまま、
オベロンはそっと舌を差し入れようと、伏せていた顔を上げて、――びたと動作を止める。
寄せた視線の端に水滴が流れ落ちる。立香の目尻に溜まった涙が、ほろりほろりと次々に零れ落ちていく。
ぽかんとその様を眺めていたら、彼女の胸の奥に湧き上がる色を見つけてしまった。
見つけてしまった。

儚い薄紅色のその感情は、歓喜だ。

唐突に、前触れも、許しも無く、虫の王に乙女の唇を奪われてしまった哀れな人の娘。
人類最後のマスターとして、毅然と冷然と彼を糾弾しなければならない。
これは良くないことだ。なんという蛮行と誹らねばならない。
だというのに――、驚きをとうに越え、もはや制御出来ない感情は、限界まで立香の心を膨れ上がらせた。
心の奥に深く沈没していた感情さえも曝け出して。
(うれしい、うれしい、もっと、もっと/ちがう、ちがう。ああ、なんで、なんで!)

洪水のような心の声に頬をぶたれたような、蹴り飛ばされたような気持ちで、オベロンは言った。
「きみ、俺が好きなの?」
それは疑問というより、確認の声だった。

「違う、違う、違う! 言わないで、お願い、気づかせないで、お願い、どうか無かったことにして」
立香は動揺し、恐ろし気に叫んだ。彼女は自身の言葉が矛盾を、先ほどの疑問の肯定を示したことに気づいているだろうか。滂沱の涙は止まらず。咄嗟に、見られたくないという心理で顔を下に向ける。ぱたりぱたりと雫が落ちる音がする。捕らえられた手は捕食者を前にしたウサギのように震え、全身が凍ってしまったのではないかと思うほどの冷たさだ。

その冷たさが、震えが、オベロンを呆けた状態から正気に戻させる。腹の底より怒りが沸き立つ。
なぜ、彼女が無かったことにしようとしていることに、これほどの不愉快さを感じているのか。
ああ、そう。と切り捨ててしまえば良かった。本当に自分はいったいどうしてしまったのか。
分からない。分からないが、――。
「いいとも。マスターの他ならぬ『お願い』だ。忘れてあげるよ」
平坦な声色に、むしろほっとしたように立香は体の力を抜いた。
「立香、顔を上げて」
言われるがまま、立香はその顔を上げ、――判断を誤ったことに気づいた。

(馬鹿なやつ、俺は大ウソつきだって言ったのはきみだろう?)

噛みつくように口づけて、ひっという悲鳴ごと彼女を黙らせた。
ぴちゃぴちゃとみだらな水音とふっふっと苦し気な空気を上げさせながら、
先ほどの邂逅よりも、丹念に、入念に、唇と唇を深く合わせ、その小さな唇を弄る。
戦慄いてドウシテドウシテと啼く、声なき声が聞こえる。
嗤いながら、その声を踏み潰すように、けれど慰めるように何度も何度もオベロンは口づけた。
柔らかいそれは、微かに花蜜のような味がした。