後奏曲★レポート№5:嵐山、黄泉路を行く

世間は常かくのみとかつ知れど痛き情は忍びかねつも
(世の中は常にこうだと知ってはいるが、つらい心を堪えがたいものだ)
~万葉集 巻三(四七二)より 詠み人 大伴宿禰家持

医師から告げられた言葉をマシュの心は拒否した。
「どうしてですか?なんでですか?どうすればいいですか?」
「なんでもします。必要なものがあるなら手に入れます。世界中でもどこでも探しに行きます!」
だから、――とマシュがアスクレピオスの腕に縋る。
「先輩を助けてください。助けてください、お願いします……」
縋るマシュの手を振り払うことも無く、アスクレピオスは苦しみの声を上げる。
「助けたい、僕だって助けたい。だが、異常がない。直すべきものが無い。手の施しようが……無いんだ」

ピッピッピッと無機質な電子音が響く医療ルームで、人々は一つの寝台を囲むように立っている。中央の寝台には、マスター・藤丸立香が横たわっている。

カンボジアから帰還した彼女の不調は直ぐに医療スタッフに伝えられ、細部に渡って調査されたが、どこにも異常は見つからなかった。けれど、彼女の眠りは続く。朝昼晩関係なく、気が付くと彼女は深い眠りについている。昏々と眠る姿は誰の目にも異常だと分かるのに、原因が分からないまま、数日が過ぎた。そうして、今日、アスクレピオス達、医療スタッフは現状から一つの結論を出した。彼女は老衰に近い状態である、と。彼女の細胞の劣化については、カルデアの人々が最も危惧しているものだった為、今回の異常に際して、真っ先に確認された。そして、その嬉しくない予感は的中する。劣化は急激に進んでいた。けれど、その原因の特定にまでは至らず。また、劣化については人間としては自然の摂理であり、萎れていく花の時を止める術は無いように、講じる対策は無かった。故に、彼女は人としての寿命を迎えようとしている――、そう断じる他無かった。

「話が違うじゃん!」
なぎこが振り絞るように声を荒げる。
「今すぐじゃないって。ピオちん、そう言ったじゃん……なんで、なんでこんな急に」
香子が彼女の両肩に手を置き、なぎこさん――と、諫める。分かっている。病とはそういうものなのだ。昨日元気だった人が今日倒れる、そんなことは痛いほどに知っている。
零れる涙を抑えきれず、なぎこは振り返り、背後の香子に抱き着いた。彼女の背が大きく波打つ。香子は、少し躊躇って……、それから両腕で彼女を抱きしめた。

「おやまあ。本当に死にかけでございまするな」
巨躯の陰が二人の上に落ちた。蘆屋道満――リンボが立っていた。キャッと香子が驚き、なぎこ共々に後ずさる。開かれた道を前に、うっそりとした動作で彼は寝台に近づく。マシュが咄嗟に彼の前に立ち、両手を広げた。涙に濡れながらも、激しい炎が彼女の紫電の瞳に揺らめいている。
「お待ちください、何用ですか」
「……おお、怖い怖い。酷いではありませぬか、マシュ殿。拙僧が何をしたと? ……いえ、何をすると?」
袂で口元を隠しながら、道満は悲しみの声を出すが、その目は弧を描いている。
「今、戯れはお辞めください。聞き入れてくださらないというならば、力づくでも退去頂きます」
マシュの髪が泡立ち、怒りに肩を吊り上がらせていく。それを見た道満は白けたというように顔から表情を消した。はああとこれみよがしにため息一つ。
「全く。無粋な小娘め。……主人の今生の別れに参っただけのこと。何か問題が?」
「今生ではありません! まだ、先輩はっ!」
「手の施しようがないのであれば、時間の問題でしょう? 何ですかな、そうやって邪魔立てして、マスターとの貴重な時間を潰そうと言うことでしょうかな。いやはやご立派ご立派! ……下がりや、小娘」
冷たい声が、侮蔑交じりの感情がマシュに降り注ぐ。彼女は動揺に身を揺らして、一歩下がる。そんな彼女の横を素知らぬ顔ですり抜けて、道満は立香の傍に立った。眠る彼女の顔を覗き込む。
「忌々しい――、まさか勝ち逃げされるとは露にも思わなんだ。どこまでも、どこまでも拙僧の予想を裏切りなさる。血塗られた戦場ではなく、怨嗟蔓延るえんさはびこる呪いの果てではなく。畳の上ならぬ、寝台の上で往生なさるか」
長い爪で傷つけぬように道満は、彼女の頬を撫でた。ンンン、無様ですなぁと嗤う彼の声は愉快という感情しか聞こえない。けれど、その瞳には寂寥が宿っている。
「やれやれ、仕様の無い。その有様では、さぞ地獄でも苦労なさるでしょうな。……いいでしょう。この道満、マスターの黄泉路の供を務めましょうぞ」

道満の言葉を聞いて、ゆっくりとダヴィンチが立ち上がった。隣に立つシオンに伝令を依頼する。
「シオン――。全サーヴァントに通達を。退去か残留か。残留の場合は契約の移行になる。次期契約者とのすり合わせを行う必要があるから、食堂に集まるようにって伝えてくれるかい?」
「ダヴィンチちゃん!? それは、それは……!」
マシュの悲痛な叫びがダヴィンチの耳を打つが、彼女は困ったように笑うだけで発言を撤回しなかった。その笑みを見て、マシュはとうとう沈黙した。俯く――。彼女の顔が前髪に隠れて見えなくなった。

部屋の片隅で、オベロンはじっと彼らのやり取りを見ていた。彼の腕の中には、幼子が3人。立香とオベロンの子供たち。彼らは大人たちの事情良く分からぬままにウトウトと夢路を彷徨っている。
――選択の時が、迫っていた。

 

穏やかな光と優しい花の香りに誘われるようにして、立香はその瞳を開いた。静かな風の音だけが聞こえる。ぱちりぱちりと二度ほど瞬きをして、その身を起こす。一面の花畑。その中で彼女は寝転んでいたらしい。
「お目覚めかい?」
彼女の後ろから男の声がした。ゆっくりと立香は振り返った。
「マーリン……」
名を呼ばれた夢魔は、にっこりと微笑みを返しながら彼女を歓迎した。
「ようこそ。楽園アヴァロンへ――。さあ、紅茶でも飲みながら積もる話をしようじゃないか」

 

カルデアの食堂は軽い小競り合いが起きていた。マスターを人外にしてでも生かそうとするもの。人として往生させるべきだと主張するもの。この機に乗じて己が願いを、欲望を、叶えようとするもの。混乱と喧騒を面白そうに眺め、囃し立てるもの。
「マスターが居ないだけで、こうも散り散りになるもんか」
「みな、我欲が強いものばかりですから」
村正とアルトリアは、食堂の入り口にほど近い壁で烏合の衆を眺めていた。段々と不穏な空気が溜まっていく英霊の中で彼らは静かに状況を見極めている。もし、戦闘が始まるようであれば諫め役として動くよう指示を受けている。ふう、と大きく村正が息を吐いた。霊圧の鍔迫り合いがすでに起きている。息苦しさが二人を圧した。
「あいつはどうするかね」
「……」
誰のことを指しているかなんて、言わなくても分かる付き合いだ。アルトリアも同じことを考えていた。オベロンはどうするだろうか、と。正直、妖精眼を持ってしても彼の心が静寂に包まれていて読めない。その静けさこそがアルトリアの心を不安にする。どんな選択でも、今の彼が選んだものならば、受け入れようとは思っている。けれど、立香を失いかけている彼の心中を思うと、……辛かった。自分たちですら、まだ現実を受け止め切れていないのに。
「やっぱり神様なんていないんですね」
ぽつりと落とされたアルトリアの言葉に、村正は、
「さてな。居ても居なくても何も変わらんとおれは思うがな。……儂は神様ってぇのは自分の中にいるもんだと思ってる。結局はてめえが何を考えて何をするか、それ次第じゃねーか?」
自分がどうしたいのか――、アルトリアは考える。
(わたしは、私は、……)

「口に合えばいいんだけど」
差し出された紅茶に礼を述べながら、立香は対面に座る男を見る。オベロンとはまた雰囲気の違う美青年。花の魔術師、マーリン。バビロニアで出会って以降、彼も長らく立香を支えてくれた英霊の一人だ。しかし、他の英霊たちとは一線を画す霊基。本来であれば、冠位グランド相当な魔術師である。口つけていたカップをソーサの上に置き、立香は尋ねた。
「マーリン。私、死んだの?」
「うーん、清々しい程の直球だね。そうだなぁ、そうとも言えるし、そうとも言えない」
なんだそれは、と立香の顔に皺が寄るが、少しして腑に落ちる。
「ああ、なるほど。、のね」
マーリンは否定しなかった。ふぅ、と立香は嘆息する。
「それで、どうして私はアヴァロンにいるの?」
にこっとマーリンは微笑みながら、よくぞ聞いてくれました!という顔で立香にクッキーを差し出す。
「いやぁ、最近、君と来たら全く育児に追われて私の事なんて忘れてしまった風じゃないかい? いけないなぁ、ファンは大事にしないと! さぁさぁ、最近は幾つか冒険をしたんだろう? 是非とも当事者からの感想を聞きたいなぁ。その為に、君の魂をちょろ……おっと、私の領域にご招待したんだよ☆」
流石はグランドろくでなし野郎。彼に人の心は無い。あくまでも私利私欲の為に、立香の魂をちょろまかしたようだ。そんなことがホイホイ出来てしまうあたりが質が悪い。言語道断の所作に今更腹も立たないが、イラつきはする。今度、アルトリアリリィでも連れて凸してやろうか。……ため息。クッキーを一枚、口の中に放り込む。
「冒険ってねぇ、あれはあれで大変だったんだから!」
「苦労してたよねぇ。ねぇねぇ、エーゲ海の……」
白いテーブルの上、彼らはこれまでの旅路を振り返る。二人以外誰も居ない空間で、美しい花たちは彼らの会話に聞き耳を立てるように、そよりと風に吹かれ身を揺らした。

 

医療ルームには、マシュとオベロンと子供たちだけが残った。道満は身辺整理だなんだと言って、部屋を一時出ていった。シンとした室内で、オベロンは朧げな表情で立香を見つめている。彼の胸元がもぞりと動いた。
「スピカ」
長女が目を覚ましたのか、くしくしと顔をこすっている。優しくその手を取って、オベロンが彼女の目元を拭ってやる。彼女はなすがまま、オベロンの手の平に顔を擦り付けてくる。ふっと彼の口が綻んだ。
(可愛い、可愛い俺の子。真珠のように無垢で、愛らしい……)
ゆっくりと娘の銀色の髪を撫でつける。嬉しそうにスピカが目を閉じるが、はっと見開いて、周囲を見渡しだした。
「どうした?」
「まんま」
「……」
部屋の隅のマシュがびくりと反応したのが分かった。オベロンは少し迷ってから、ゆっくりと立ち上がった。娘を抱きかかえたまま、寝台へと近づいていく。ぴったりと寄り添って、娘から母親の顔が見えるように抱え直してやる。
「まんま?」
「うん」
「まんま、ねんね?」
「そう、ねんね」
「?」
「ママ疲れちゃったみたいなんだ」
「……」
「たくさん……、沢山頑張ったんだ。――ママ凄いんだよ。皆の為に頑張ったんだ。ずっと、ずっと頑張ったんだ。辛くても苦しくても悲しくても泣きたくても。ずっとずっと頑張ったんだ。だから――」
言葉に詰まる――。静かな部屋にマシュのすすり泣く声が聞こえる。
「だから、……」
(だから?)
あの日、彼女を貫いた光を覚えている。痛みと苦しみの果て。そんな終わりは許せなかった。……でも、今は違う。痛みも苦しみも無い。ただ、眠るように終われるというなら。
(手放すべきなんだろうか)
思い出す。エーゲ海で見た美しい夕日を、空中宮殿で感じた風を――。
何度も何度も、寒い夜を二人抱き合って、温め合って、朝を待った。子守唄を歌い、歌われ、遠い星を二人で見た。十分だと思う、恵まれていたと思う。――そりゃあ、こんなところに呼ばれて最初は嫌々だった。だって、もう終わったと思った舞台にもう一度立たされるなんて、滑稽過ぎる。格好がつかないにもほどがある。でも、あの娘が居たから。散々に使い潰して、振り回して、戯れて……。退屈しない日は無かった。終いには、とんでもない奇跡まで起こして見せた。人でも無い、妖精でも無い、どうしようもない塵芥の|虫《自分》に、|同類《子供》を作ってしまった薄紅色の娘。
もう彼女を温めることが出来なくとも、もうこの歌が届くことはなくとも。もうきっと自分には朝が訪れないのだとしても――。

――彼女におやすみの言葉を告げなければ。
どうか……、その眠りが温かなものでありますように、と。

祈るようにオベロンは瞳を伏せた。

 

「はー、面白かった!」
マーリンは満足そうに紅茶を啜った。やはり本人から聞く物語は、己の目で見るものとは違った面白さがある。特に彼女の話は痛快で爽快だ。面白がられて機嫌を損ねたのか、立香の目が半眼になる。このやろう。声なき声が聞こえてきて、ふふふっとマーリンは笑う。ご馳走、と勝手に味わった彼女の感情に礼を言う。それから、――惜しいなぁと思う。そう、惜しい。彼女の命は文字通り尽きようとしている。正直、彼女亡きあとの世界を思うと憂鬱で堪らない。彼女ほど色鮮やかな物語を描ける人物は早々には現れないだろう。数十年か数百年か、面白みのない世界が始まるかと思うと鬱屈になってしまう。
だから、夢魔は彼女にある提案を持ちかけた。
「ねえ、立香くん。どうだろう?これまで特に忙しなく生きてきた君だ。このまま没するというのは聊か味気ない。なに、時間と空間なら幾らでもある。
暫く楽園ここでのんびりしていかないかい?」
立香は少し驚いた顔をして、考え込む。
「難しく考える必要は無いさ。君にデメリットは無いんだ。飽きたら何時だって此処から出て行って大丈夫だし、黄泉路へもきちんと送り届けよう」
うーん、と立香が唸る。旗色の悪い返事に、マーリンは何時になく焦る気持ちで言葉を重ねた。
「それに、ここからだったら。悪くない話だろう?」
「そんなことが出来るの?」
彼女の驚嘆の声に、マーリンは笑みを浮かべる。
「出来るとも。これでもグランドだからね!」
「そうなんだ。……じゃあ、お願いしていい?」
「いいとも!」
晴れやかな空のように、喜色の色で魔術師は応えた。

 

「いやです」
マシュの言葉にオベロンは閉じていた瞼を押し上げる。彼女の方に視線をやれば、俯いていたマシュが顔を上げてこちらを見ていた。彼女の足元には、次女トゥーリが居る。
(いつの間に――)
小さな手に励まされるように紫の瞳が光を灯す。
「子供のような我が儘を……言っていると自分でも思います。自分が嫌だから、駄々をこねている。分かっています。でも、嫌なんです」
世界を拒絶するように丸まっていた彼女の背は伸ばされて、降りしきる雪の中に咲く山茶花のように、彼女は凛と立った。
「私がこれまで見てきた景色で、最も美しいと言えるものが3つあります。蒼い空、黄昏の国、そして、先輩とオベロンさんが、子供たちと一緒に笑っている光景です。胸が苦しくなります。涙が出るんです、嬉しくて、愛おしくて……」
「無くしたくない……無くしたくないんです。だから、わたし、……諦めません!」
心を決めかけたオベロンの中に迷いが生じる。オベロンだって、嫌だった。穏やかな終わりは望ましいが、こんなにも短い物語で終わるなんて、嫌だった。それが生命というものだと分かっていても。何を言うべきか、諭すべきか、賛同すべきか。逡巡するオベロンの袖を、長女がクイクイと引っ張る。
「スピカ?」
ぱちりと目を瞬かせて、オベロンは娘と目を合わせた。
「おはな」
(はな? 鼻……、花!)
言葉の意味を正しく捉えた瞬間、部屋の中央に花吹雪が起きる。花の中から、男が一人現れた。花の魔術師、マーリン。オベロンの最も忌避する男だった。隠すようにスピカを自分の外套の中に引き寄せる。じりじりと距離を取りながら、オベロンは警戒した。マシュもひどく驚いた様子で、魔術師を見ていたが、我に返ったように叫んだ。
「マーリンさん! ど、どうされたのですか?」
「やあ、マシュ。お邪魔するよ」
周囲の反応を気にも留めず、マーリンは手を上げて挨拶する。マシュの足元で、トゥーリが不思議そうに彼を見上げた。その様子に、マーリンは優しく目元を緩めた。
「似ているね、立香くんに」
見られたことに気付いたのか、トゥーリはまじまじとマーリンを見返す。どことなく座りが悪くなったマーリンは、おほんと咳払い一つして、マシュに尋ねた。
「ところで、ここに妖精王はいるかな?」
「え゛……あー、なんと言いますか、ええっと、そのぉ、いるような? いないような?」
大きくバッテンのサインを送るオベロンにマシュは困ったように眉を下げる。それを見て可笑しそうにマーリンは笑った。
「そうか、残念だ。今度こそ姿を拝見できるかと思ったんだけれどね。じゃあ、伝えてくれるかい。立香くんの体の処遇について――」
部屋の空気が凍った。オベロンは上げていた手を下げて、拳に力を込める。瞳に剣呑な光が宿った。マシュは少し冷えた声色で確認した。
「どういう意味ですか? ……貴方は何かをご存じなのですか?」
おや、参ったなとマーリンは苦笑しながら、立香の眠る寝台に腰かけた。ふわりと足元の花が散る。トゥーリが追いかけようとしたので、マシュがやんわりと止めた。その様を見つつ、マーリンはマシュと、マシュ以外の人物に聞かせるように話す。
「ああ、彼女の体に起きている異変については知っているよ」
「「!」」
マシュが一歩前に出た。
「ご存じなのですか!?」
どうどうと諫めながら、マーリンは頷いた。
「知っているとも。彼女の異変の原因は――聖杯だよ」

当たり前の話だが、聖杯は膨大な魔力リソースだ。誰かの願いを適える程のそれ。カルデアの聖杯は、冬木などの本来の聖杯に比べれば、聊か縮小した力、あくまでもリソースという側面が強い部分がある。それでも聖杯は聖杯だ。そんなものを複数抱えている立香の体に負担がかからないはずはない。ここまでの見立てはカルデア陣と同じ。では、何故に立香の体の負荷(細胞の劣化)が早まったのか。

「件の少年の名前はなんと言ったかな。まあ、誰でもいいけれど。彼の登場によって、立香くんは聖杯の情報に対して警戒を強めた。聖杯の存在が知られれば、子供たちに危険が及ぶ。その考えは間違っていない。故に、彼女の中で聖杯の存在を隠したいという意識が働いた。これも自然なことだった。問題だったのは、意識的に行った以外の行動、深層心理で聖杯の存在を隠したいと考えてしまったことだ。に、聖杯の存在を内に秘めようとしたんだ」

それまではどうなっていたかというと、彼女という容れ物は聖杯を包含するには浅く、常時魔力が漏れ出ていたような状況だった。それを彼女は意図的(無意識)に止めようとしてしまったのだという。外に出れない魔力は彼女の体を駆け巡る。脆い体に無理に魔力が通れば、細胞が悲鳴を上げる。その結果が、今なのだと言う。
「では、聖杯を取り除けば、先輩の命は助かるということでしょうか」
マシュの前のめりな質問に、残念だけれど、と魔術師は首を振った。
「理屈的にはそうだけど。現状、それを成す方法が無い。つまり、詰んでる。……魂も既にここにはない。そして、別の問題が残っている」
マシュは奥歯を噛みしめた。突破口かと思ったそれは、マシュの願いを叶えてはくれないらしい。それでも他に方法が無いか聞きたいところだが、彼の言う残っている問題のほうに注意を払う。マシュの視線を受けて、マーリンは現状の課題を告げた。
「いいかい。聖杯は未だ彼女の体の中にある。そして、彼女の命の火が消えれば、聖杯は彼女という体から解き放たれる形になる。このままでは、魔力の暴走が起きる」
そんな……、マシュが口元を手の平で覆った。それではまるで爆弾のようではないか!その思考を見たのか、マーリンはその通りと頷く。
「このまま彼女の体を放置するわけにはいかない。どこかへ移動する必要があるだろう」
「…………」
「そうそう都合の良い場所はないけれど、候補は二つ。私のいる楽園アヴァロンか、果てと言う概念を喪失した……奈落か」
どうする?とマーリンがマシュに尋ねる。けれど、本当の意味で問うている先は、――
(君はどんな答えを選ぶのかな、妖精王)

オベロンは惑う。その在り様の違いから唾棄していた男が、自分に彼女の体を奈落に吞み込めと言ったのか。なんなんだ、どうしてこう嫌なことばかり続くのか。彼女を失うという事実ですら受け入れがたい現状に、更なる混乱を与えらえる。つくづく自分と言う存在は、不運な星周りの下にある定めらしい。
彷徨う視線を寝台に横たわる立香に向ける。眠り続ける彼女。ぐらりと自分の中で魂が揺れる。
(喰らいたい、呑みたい、――いやだ、まだ、でも誰にも渡したくない、喰らわなければ、ああ、ちがう、喰喰喰喰喰喰喰喰喰喰
「オベロンさん!」
オベロンの霊基が揺れる。はーっはーっと荒い息。銀糸は漆黒へ。柔らかい人間の手足は、固い異形へ。
「ぐっ、あぁ!」
彼の背が膨らんだ。大きく風船のように盛り上がり、漆黒の塵と虫を吐きだしている。異形の王、奈落の虫へと変貌しようとしていた。
「ああ、君がそうなのか」
零れ落ちる涎を止めることも出来ず、オベロンはぎょろりと魔術師を見やる。彼の眼は、しっかりとオベロンを見つめていた。霊基の異常から彼に対する隠匿が剥がれ落ちてしまったらしい。忌々しい。今すぐ吞み込んでやろうか、という憎悪が内心に立ち上る。それを引き金にしたのか、どんどんとオベロンが人の形を失っていく。
「オベロンさん、だめです! スピカさんが!」
「!」
はっとオベロンは自分の真下を見る。小さな我が子、スピカが呆けたように自分を見上げていた。
(いけない――!)
マシュに娘を保護してくれと伝える為、口を開くが、獣のような唸り声しか出ない。人として発声する器官を失っているようだ。ああ、人の身が、砕ける――
絶望に瞳を閉じようとしたオベロンの目の端に、きらりと星が瞬いた。
(――?)
変ずる痛みが苦しみが、波のように引いていく。オベロンが不思議に思う間にも、視界の中に移る煌めきは滔々と増えていく。まるで、雪のように降ってくるもの。温かく優しい、魔術の残照。
「ぱんぱ」
聞こえてきた背後の声に、オベロンは泣きそうになりながら振り返った。自分の色を映したかのような子供。シリウスが両手をオベロンに向けて、苦しそうに息を吐いている。
「驚いたな。そんな年頃で魔術を使うのか」
マーリンが興味深そうな声で言った言葉に、自分の息子が行っていることを理解した。治癒の魔術をオベロンにかけようとしているのだ。
(やめろ、そんな小さな体で魔術なんて――)
白い光に、金と緋色の光が混ざった。見なくても分かった。スピカとアルクトゥルスの魔力だ――。オベロンは必死に鳴き声を抑え込んだ。失った制御を必死に手繰り寄せて、己の体の形を取り戻そうとする。
「あああああああああああ!」
虫の咆哮が響いた。

はぁはぁと荒い息を吐きながら、オベロンは両手を床につく。彼の身は、辛うじて第三臨まで戻った。マシュが慌てて駆け寄る。
「オベロンさん! 今、医療スタッフを……!」
「マシュ……。こ、子供たちは?」
無我夢中で力を使い、未だに視界がぶれて定まらない。子供たちは無事だろうか。とんだ無茶をする。お陰で自我を取り戻せたが、心臓に悪すぎた。ふらつく体をマシュに支えてもらいながら、周囲の気配を探る。
「見えますか? 今、オベロンさんの正面にいらっしゃいますよ」
ゆっくりと自分の手の先、数歩離れたところに無事な姿を確認する。ほぅ、と全身で息を吐いた。
(良かった……)
三人は一塊になってオベロンを見ている。少し、シリィがふらついている。そんな弟をスピカとトゥーリが支えるように間に挟んでいた。
(自分が不甲斐ないばかりに、無茶をさせてしまった)
なんて情けない父親なのか。オベロンは唇をぎゅうと引き結ぶ。唇が戦慄いた。
「ぱんぱ、めっ」
ぎゅっと顔を窄めながら、スピカがもう一度、「め」と言う。ぷっとマーリンの噴き出す音がしたが、その後すぐ、「マーリンシスベシフォゥ!」という掛け声とともに寝台の上から吹き飛んだ。「私が何をしたと言うんだい!?」存在そのものだ、愚か者め。そのまま床にくたばってろ。と口悪くオベロンは内心で悪態を吐くが、まずは目の前の子供たちだ。
スピカはどうも普段の自分の真似をしているらしい。可愛らしいそれにマシュが肩を震わせている。いや、可愛いけど。怒られている身なので、笑うに笑えないオベロンだった。と、トゥーリが「ぱんぱ」と舌足らずに自分を呼ぶ。
「まんま、ないない。め~」
んんん? ……なんて? 力がうまく使えないが、オベロンはなんとか妖精眼で彼女の真意を確認する。
(ママが居ないのはだめ? …………)
すとんとオベロンは地面に座り込んだ。少し天を仰ぐように上を向く。目を閉じて、考える。
(うん……)
オベロンは目を開いた。そして、自分の前に座る子供たちを見る。彼らと自分の気持ちを確認する。
「うん。だめだ。……ママが居ないのはだめだね」
泣き笑いの表情でオベロンは、言った。その言葉に、子供たちがにこりと笑い返す。胸が温かくなる。希望の星が瞬いている。まだ、諦めたくない――。

(おやまぁ)とマーリンは予想外の、いや、ある意味予想通りの展開に、にんまりと口の端を上げる。床に倒れ伏し、背中にびょんびょんと跳ねる小動物を侍らせたまま、彼は言った。
「それが君の、君たちの答えかい?」
頬杖をついて、こちらを楽しそうに見やる夢魔に、ケッと唾を吐きながらオベロンは頷いた。子供たちが疲れたのか転がりながら、オベロンの膝元に寄っていく。ころころ、まるで毬のように。それをオベロンが救い上げて膝に乗せる。トゥーリがマシュの膝にタッチしてだっこをせがんだ。マシュも嬉しそうに彼女に手を伸ばす。美しい光景だ。少しだけ残念だが、自分の計画は諦めるとしよう。こっちのほうが面白そうだし?とマーリンは更に笑みを深めた。
「さて、それじゃあ、立香くんを救うために作戦会議といこう。その前に、彼女からの伝言だ」
はっと弾かれたようにオベロンとマシュがマーリンを見返した。

『いいとも!』
『……? ああ、そうじゃなくてね。伝言を頼みたいの』

頷きを一つ返して、マーリンは花園で交わした立香の言葉を彼らに伝える。
「最低百歳まで長生きする予定なので、ヨロシク。だって」

「いい加減にしろ」
「こっちのセリフだぜ、そりゃ」
一触即発。食堂の場が揺れた。村正とアルトリアは武器を持つ手に力を込める。
「待ちなさい!」
「おいおい、穏やかじゃあねえな。武器を収めな」
しかし、彼らは止まらない。一度切られた口火は冷めず、彼ら以外も手に武器を、魔力を込めだす。開戦だ――。
「「ぶっとばす!」」と叫んだ食堂に、白い流れ星が落ちた。大きく食堂を旋回するように飛ぶそれは、白い蚕だった。彼女が誰の眷属か。それを知らぬものはこの場に居ない。白い軌跡を黙して追えば、二度大きく食堂を飛んだ彼女がゆるりと入口へと向かう。そして、食堂の入口に立つ人物の左腕に止まった。
「オベロン……」
アルトリアが呆然と彼の名を呼んだ。彼の背後にはマシュとマーリン。三人の子供たちもいる。この騒ぎの原因となっているマスターの近親者の登場に場が静まった。何を言うのか、皆がオベロンに注目する。
「やあ、お邪魔するよ。揉めているところ悪いんだけど、ちょっと協力してほしくてね。特に日本系サーヴァント。今すぐに集合して、……駆け足!」
呼ばれたサーヴァント達がわらわらとオベロンの前に出てくる。それをうむと鷹揚に頷いて、彼は尋ねた。
「ちょっと黄泉の国まで行きたいんだけど。誰か行き方知らない?」
「…………」
再び、場が静まった。村正が苦い顔で言う。
「お前さん……とうとうそこまで病んじまったのか」
他の面々も痛ましそうに彼を見る。それに、失礼な!と憤慨しながらオベロンが言い返す。
「あのねぇ! 僕は真剣だよ。大真面目に聞いているんだ! 立香の魂を取り返す、その為に黄泉の国に行く。時間がないんだからふざけてないで、真剣に答えてよ!」
お前がふざけているんじゃないのか、と狐に抓まれた様相でサーヴァント達が顔を見合わせる。
「黄泉の国つーと、出雲でいいのか?」「じゃない?」「あ、あー。ちょい待ち。あそこもう閉じらてるし」「なんと、誠にございまするか?」「げにげに。てか、現代で空いている場所なんてなくない?」「ははぁ、確かに」
うーんと日本由来のサーヴァント達が腕を組んで唸る。と其処に黒烏帽子が現れた。食堂の入口よりも大きなその人物が言う。
「何の騒ぎでございますかなこれは、主の危篤にとうとう気でも触れましたか。それは重畳」
ああー!とクロエが指さす。詳しそうな人きたこれ。プロ来たで。勝確というやつですな。と好き勝手にコメントしていく連中に、道満が僅かばかり後ずさる。嫌な予感。逃げ出そうとした瞬間、彼の着物の裾をオベロンが踏んだ。つんのめってしまった為、道満はずべしゃっと顔面から廊下の床に突っ込んだ。
「なんとぉ!」
「ははは、さっきはどうも。逃がすわけないだろ?さあ、キリキリ吐いてもらおうか」

 

「嫌じゃ嫌じゃ。なぜに拙僧がおぬしらに協力しなければならぬのか。生憎とマスターとの地獄巡りツアーの準備に多忙故。これにておさらば」
「頭に蛆虫でも湧いているのかなぁ? 奇遇だねえ、僕もとっても急いでいるんだ。君の旅行計画なんてどうでもいいから、とっとと場所を教えてくれるー? ていうか、独りで地獄に落ちてろ」
四方八方をカルデア陣形に囲まれながら、道満はぷいっと正面のオベロンから顔を背ける。いらいらと妖精王が鈴鹿御前から借り受けた大通連でチクチクと突く。化生退治のありがたーい逸品だ。現に、道満に効いている。
「ぎゃああ! おやめなされ、おやめなされ!」
それでも口を割らない道満に、どうしてくれようかとオベロンが気色ばんだ。その横にぴょこりとスピカが顔を出した。
「こら、汚れるから近寄っちゃだめだよ」
「おのれぇええ、人を床のシミのようにいいい」
怨嗟の声をあげるも、オベロンもスピカも動じない。それどころか、彼女が道満に一歩近づいた。流石に静止しようとしたオベロンを他所に、スピカが手を上げた。
 ばっちいいいいいん!
 ゴロゴロゴロゴロー!!
道満が吹っ飛んだ。
「「「え?」」」
黒烏帽子は勢い良く廊下を転がり、壁に衝突。ずるりと崩れ落ちた。彼はぶたれた頬に手を当てて、呆然とする。
「???」
「「「え?」」」
「おお、何時ぞやの。やはり彼女は暴れ牛ヴァッチェ・エン・フィットでしたね」
ケイローンが考え深げに頷く。
「待って。何その二つ名。まさかと思うけども、僕の可愛い娘に対する称号じゃないよね!? うそうそうそ。違うから! うちの娘は、魔猪の氏族じゃないから!」
僕の姫が! 妖精王の真珠が!とオベロンが髪を振り乱しながら、ケイローンに詰め寄る。
「ちょっと! なんですか! 私がさも乱暴者のように! 訂正を、訂正を求めます!」
もめる背後を気にもせず、スピカは道満に近づく。近寄る幼子に道満が戦慄する。見える、見えるぞ――。その紅葉のような小さな御手手に込めれた魔力の渦が!
「まんま」
「うっ……」
求められていることを正確に察し、道満が呻く。嫌だ協力したくない。でも、この娘、あな恐ろしや――!
「おのれえええ、清明いいいいいいい!」

ここで臨時ニュースです。
お前の実装は何時なんだと各方面より話題の陰陽師・安倍清明氏より本件に関するコメントを拝領しております。どうぞ。
『誠に遺憾です』

 

「既に伊勢の黄泉比良坂はお隠しになったというお話。他の路、可能性があるとすれば、それはやはり京――」
嵐山が最も相応しい、と道満は言った。嵐山、京都の西部に位置するそこは、春は桜、秋は紅葉と四季豊かな山だ。古来より貴族たちの保有地として有名であったとか。さて、件の京の都には結界が敷かれているというのは、皆さまよくご存じではないだろうか。時の桓武天皇が、政治の浮き沈みの末に無念の死を遂げた親王の怨霊の祟りを恐れ、京へと都を移した際に、平安京には様々な結界が施された。四神――青龍(河川)、朱雀(湖沼)、白虎(大道)、玄武(山)を配した土地が選ばれ、各方位に厄除の為の天照大御神などを奉った神社等々が建造された。そして、……、最強の陰陽師、安倍晴明による京都守護魔法陣が敷かれ、京の守りはこれ以上ない程強固なものとなった。――しかし、盤石に見える京において、唯一守護が手薄くなった場所がある。それが嵐山。洛外、結界の外にあった為に、一度、日が暮れれば、あっという間にうら寂しい雰囲気に。夜な夜な妖怪が棲むと言われ、ゆえに、「あやしやま」と呼んだ人もあったとか。
「嵐山は、鬼、即ち、死者の国に通じていると言われておりました。可能性があるとすれば、この地において他あるまい――と、このように拙僧は思いまするが、努々お忘れなさるな。あくまでも、……という話」
こちらを試すように念押しする道満の言葉に、オベロンは迷わなかった。
「可能性でもなんでもいいさ。他に手掛かりも無し。時間が無い、行こう――」

いざや、日ノ本の国、京へ――

嵐山に辿り着く頃には、太陽は随分と西に寄っていた。とても大っぴらに出来ない方法で、来日したオベロンと道満は、麓より山中へと入っていく。山道を歩きながら、オベロンは花の魔術師との会話を思い出す。

『立香くんは、文字通り、死にかけている。これはいけないと私が立香くんの魂を楽園に呼んだわけだけれど、実は呼べた魂は三分の一程度。残りの三分の二、魂本体は既に黄泉の国へ向かってしまった。ん? エレシュキガルが見てないって? ああ、立香くんは日本人だからね。冥界じゃなくて、死の女神イザナミの支配する黄泉の国に行くのが通りさ。……聖杯の問題は追々どうにかするとして、まずは離れてしまった魂を取り戻さないといけない』
作戦会議の末、マスターの魂の迎え役は、夫のオベロンとその道のプロということで蘆屋道満となった。マシュを始め多くの英霊たちが同行に名乗りを上げたが、マーリンと道満共々難色を示した。
『君たちがこれから行くのは死者の国だ。暗く静かに魂が揺蕩う場所。そんなところにぞろぞろと英霊が行くのはお勧めしない。英霊の魂は輝きが強すぎるんだ。そう、某王国のエレクトリカルパレードみたいな感じ。……良く分かった? うん、それは何より』

そういう訳で、オベロンと道満の二人旅となった。正直、この面子はどうかと思うが、文句は言っていられない。黙々とオベロン達は山道を進む。一刻ほど歩き続けて、道満が山に入ってから初めてオベロンに声をかけた。
「もう一刻ほど登った先に、洞窟がありまする。かなり魔力が濃い場所ですから、貴殿でも直ぐにお分かりになるでしょう。さて……」
道満の説明に鷹揚に頷いたオベロンの前に道満が立ち塞がった。大きな体で山道を塞いでいる。立ち退く気配は無い。
「……何の真似かな」
口元を着物の袖で隠しながら、道満が笑う。山は夕日で茜色に染まっている。
「なにただのお遊びですよ。拙僧の問答にお付き合い頂ければよいのです。それだけにございます。須らくお答えいただければ、疾くこの道を譲りましょうぞ」
「……いいだろう、ならば言うがいい」
冷えた眼差しのまま、オベロンが承諾の意を示す。瞳を三日月の形に歪ませながら、道満は蟹坊主をご存じで?と尋ねた。知らないね、とオベロンはにべも無く答える。くっくっくっと道満は笑い声を上げながら、お伽噺でございますよ、と言った。
「貴方方、外つ国の妖精に近しいものとして、日ノ本には妖怪と呼ばれる者たちがおりまする。河童に天狗、鬼に付喪神。いくらかの妖怪は既にカルデアにもおりますな。あれらを果たして物語の可愛らしい妖怪と同じにしても良いものか、はてさて。兎にも角にも、その妖怪の中で、蟹坊主という巨大な蟹の妖怪がおりましてな。これが面白い妖怪にございまして、夜な夜な古寺などに現れまして、そこにいる者どもに問答をするのでございまする。『両足八足大足二足、横行自在にして、眼は天を差す。これ如何に』……と」
「問答……謎かけか。こちらの国でも小妖精が好むけれど、ああいう手合いの共通特性なのかな。何処の国も変わらないねぇ」
オベロンは肩を竦めながら、鬱陶しそうにため息を吐いた。少し苛立っているように見える。それを意に介さず、道満は話を続けた。
「さあ? 拙僧には分かりかねますが……まあ、この際置いておきましょう。さて、蟹坊主に準えて、お尋ねいたしましょう」
オベロンは道満を正面に見据えて、腕を組んだ。

道満が問う。
《汝は、妖精王なりや?》
オベロンは目を開いて道満を凝視する。ふうむ、と口元に手を当てて、一考。
「否。それでは僕のガワのみだ」

道満が一つ頷いて、再び尋ねる。
《汝は、白き竜の化身なりや?》
少し迷う素振りを見せながら、オベロンは答えた。
「否。確かに一部ではあるが、全てではない。それでは足りない」

ころころと道満が笑いながら、最後に聞いた。
《では、汝は何者か?》
オベロンは沈黙する。その様を見ながら、道満は内心で暗く嗤う。彼は知らないだろう。正体を暴かれた蟹坊主は看破された際に僧侶に独鈷を投げつけられ、割れた甲羅から血を流して死んでしまった。昔から、この手の化生退治において、正体を見破ることは一番の対抗策と言える。やんごとない身分の貴族は御簾の中に姿を隠し、魑魅魍魎たちは霧や山に姿を隠した。見えぬものは美しく、見えぬものは恐ろしい。幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはよく言ったもの。ましてや、己は陰陽師。そのようなものに正体を告げることは、自らの弱点を差し出すようなものだ。着物の下で道満の口の端が吊り上がった。
(さあ、さあ、さあ、――貴方様の正体をこの道満めにお教えくださりませ)
黄昏に染まった山中に、生温い風が吹く。オベロンが口を開いた。

「法師、お前如きの浅はかな下心など、この妖精王が見通せないと思ったかい?」
ほ、と道満は意表を突かれた声を上げる。

「なるほど、お前の考えは正しい。真名を問うて正体を知る。見破られた神秘は、如何に強力なものだとしても、力を失うだろう」
彼の銀色の髪が宵闇に染まっていく。手足は異形へと変わりゆく。

「けれど、されど、逆もしかり。名は体を表す。名付けぬことでその力を封じるものもあるとは、考えなかったか? ああ、人の足元ばかりを見ていたお前は考えもしなかったろうな。――だが、もう遅い。問うたな? 俺が誰かとお前は問うたな? ならば答えよう。
我が名は、妖精王オベロン。オベロン・ヴォーティガン!
奈落の虫、星の終わりを告げるもの! ……お前にこの終末が耐えられるか?」

「なんと」
道満は男が黒い塵になり、そうして、自分の頭上に大きな穴が広がったのを見た。逃げようにも逃げ場も無い。耐えようにもオベロンが言ったように、星の終わりを告げるものに耐える程の霊基は道満には無かった。ついでに言うと、クラス相性も最悪だった。プリテンダーにアルターエゴ。勝敗は結果を見るまでも無い。くくくと道満はそれでも嗤う。
「ええ、ええ、そうでなければ。拙僧如きに遅れを取るようであれば、我らが主の傍に控える価値など無し!」
両手を広げ、道満は落ちてくる穴をその身に受け入れた。
オオオオオオオオオオオオオオオオオ!
咆哮が一つ、山中に響いて消えた。

草場に男が一人立った。青みを帯びた黒い髪、虫の羽が連ねったマントを纏い、異形の手で髪をかき上げる。
「まったく、余計な手間を掛けさせてくれる……。今頃、カルデアに戻されて、のた打ち回っているだろうよ。事情は直ぐに他の連中に伝わる、方々から叱られるがいいさ。……さあ、時間が無い。急ごう――」
オベロンは軽くマントの埃を払って、山道を一歩歩き出した。

オベロンは足早に山道を歩いて行く。森には慣れているが、山道は不慣れだ。英霊の身であるにも関わらず、額に汗をかきながら、オベロンは忙しなく足を動かす。道満をあしらってから半刻ほど歩いた後、その足が唐突に止まる。じっと彼はその場に立ち止まり、周囲を警戒した。彼のセンサーが危険を告げている。
「いるんだろう? でておいでよ」
オベロンの誰何の声に、クスクス、きゃらきゃら、という笑い声が響いた。周囲に突如として、霧が立ち込める。
「!」
咄嗟にオベロンはマントを引き寄せて口元を覆った。毒の霧だ――。このような技に心当たりがひとつ。そして、その予想に違わぬ人物がオベロンの前に現れた。
真っ直ぐに天に向かって伸びる角。赤い手足。気崩れた着物姿、鬼の者、茨木童子――、そして、その後ろに盃を持った酒吞童子の姿が見える。
「堪忍え、虫のお兄はん」
「きゃははは! 虫の! ここを何処と心得る! 京なれば、我らがいるのも通りであろう?」
「いや、全く分からないけど。……それで何しに?」
オベロンが鈍痛のするこめかみを押さえながら、鬼の二人に目的を聞くと、彼女らはにんまりと口の端を上げる。
「何でもなんも。折角、京でおもろいことしてはるようどすさかい、これに行かな、鬼の名折れどす」
「そうとも! 此処は大江山ではないが、魑魅魍魎ちみもうりょうの最後の住処。妖怪どもの首魁である吾らが行かずしてどうとする!」
来なくてよろしい。はぁあとオベロンは陰気にため息を吐いた。後で金時ゴールデンボーイに苦情を入れておこう。管理不行き届きだ。等と考えていたオベロンの耳がヒュッと風を切る音を拾った。咄嗟にバックステップで飛び下がる。はらりとオベロンが居たあたりの木の葉が落ちる。鋭く分かたれた葉の一部が宙を舞う。茨木童子が手に持った刃を振りぬいていた。
「何のつもりだい?」
聞いたところで答えなど分かっていても、一縷の望みをかけて聞かざるを得なかった。
「クハハ! 決まっておろう。虫退治だ――」
「鬼事のほうがええかもね。さて、ほんまの鬼やで。早う逃げてや」
糞が!とオベロンは口汚く罵りながら、走り出した。バーサーカーの茨木童子にアサシンの酒吞童子。あまりにも分が悪い戦いだった。道満と違い、彼らは遊び好き。虫でも殺すように人を殺して喰らうもの。オベロンは山中を翔ける。後ろから、一閃、二閃と刃の衝撃が飛んで来る。翅を、マントを、頬を、髪を、鋭い刃が襲った。半時ほど走り続けて、少し開かれた場所に躍り出る。はあはあと息が上がった状態で後ろを振り返った。がさりがさりと葉擦れの音がして、鬼が二匹現れた。
「なんだ、もう終いか?呆気なすぎる!」
「あらあら。聞いとった評判とえらいちゃうね。見込み違いやったかいな」
ぜぇと大きく息を吐いて、オベロンが苦々し気に言葉を捻りだす。
「いい加減この辺で手打ちにしてくれないか、今は君たちと遊んでる場合じゃないんだ」
「断る」一刀両断に、茨木童子は返答した。
「あの子も運があらへんなぁ。ほんでも死は死や。筋の通らへん話は堪忍やで」
そうかい、とオベロンは諦めたように瞳を閉じて、腰元に手をやった。
「「!」」
オベロンが手に取ったものを見て、二人は大層驚き、そして、嗤った――。
「キャハハハ! 汝、なんだそれは! 刀、刀ではないか!」
「あははは! いややわぁ、面白うて涙がでるわぁ。それ使うてどないすんの?」
うちらを斬るん?と酒呑童子が艶やかに笑う。お前のような者が?と口に出さずとも言われていることを百も承知で、オベロンは不敵に笑い返した。
「この刀はね、最強の刀鍛冶――千子村正が、かの有名な『髭切』を模して打ったものだよ」
その刀の名に、茨木は笑いを収める。彼女の瞳の奥に、炎が揺らめいた。それをちらりと横目で見ながら、酒吞童子が言う。
「そやさかい、どないしたん? どない凄い刀でも使い手ぇ三流やったら意味はあらへんで」
その通りとオベロンは頷く。動揺の欠片も無い仕草に酒吞童子はおやと首を傾げる。
「全く持ってその通り。ああ、ここに立っているのが妖精王である僕じゃなくて、鬼退治で有名な源氏の若武者だったらなぁ!」
大げさに手を広げてオベロンは嘆いて見せる。まるで、劇でも見せられているかのような心持ちに酒吞童子はにやりと笑みを零す。面白い――、さてこの虫の王子は自分たちに何を見せてくれるのか。
広げた手をゆっくりと下ろして、オベロンが刀に手を添える。
魍魎もうりょう蔓延る山の中、鬼が二匹。退治する男の手には、源氏の重宝『髭切』が一振り」
ひゅうと三人の間に風が吹く。夕日はとっくの昔に沈んで、山の中は闇に包まれている。と、そこに、オベロンの唇から朗々とした謡が紡がれた。

『秋風の音にたぐへて西川や、雲も行くなり大江山』

「その謡は――!」
ズンッと、まるで大地が揺れたかのような衝撃が鬼の二人を襲う。山が鳴動しているかのような、……。見る見るうちに周りの景色が変わっていく。場所は変わらず山の中、けれど、何よりも見慣れたその景色。二人の居城があった大江山そのもの。
「なんだ!? 何が起きているというのだ!」
「こら驚いた。いややわぁ……お兄はん、どこに行ってしもうたん?」
気が付けば、オベロンの姿は見なくなっていた。随分と大掛かりな幻術の類だろうか。すっかり獲物を見失ってしまった。
『今宵、この地は大江山となった――』
ざわりと二人の周辺に霧が立ち込める。何処ともなく、オベロンの声が響いてくる。二人は警戒するように背中合わせに周りを見渡した。
「……そこか!」
茨木が正面で揺らいだ影に刃で襲い掛かった。キン!という金属音。茨木は驚きに目を開く。交わる刃と刃は全く持って均衡、否、――茨木の方が押されていた。そして、間近に寄った彼女は己が切りかかった相手をしっかりと見た。切れ長の目、すらりとした体躯。手に持つ刀と同じくらい鋭い瞳、源氏の若武者――渡辺綱、その人であった。
「おのれ、おのれぇ、綱ぁ! ここで会ったが百年目、この腕の恨みを忘れはせぬ!!」
今一度振りかぶろうとした茨木は、ヒュッと自分の腕の傍で風切りの音がしたのを聞いた。ぼとりと自分の目の前に何かが落ちる。――自分の腕だった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛!」「茨木!」
酒吞童子は茨木の傍に寄りながら、若武者、渡辺綱と対峙する。言うまでも無いが、これは本物ではない。恐らく、オベロンが彼の役を羽織っているのだろう。どういう仕組みかは分からないが。その証拠に彼の影が揺らめいている。そして、先ほどオベロンが口にした謡を思い出す。あれは、謡曲『大江山』。道長の命を受けた頼光が四天王とともに鬼退治――即ち、茨木童子と酒吞童子を討った様を歌ったもの。彼が意味も無く、それを口にするはずもない。そして、山の様子が大江山に上書かれ、四天王が一人、渡辺綱に扮したオベロンがこの場に現れた。つまり、これは、大江山鬼退治の再現だ――。
「なるほどなぁ。確かにこれやったら、その剣の腕にも納得するわぁ。適うはずもあらへん。こので、鬼は退治されるものと決まってるんやさかい」
そうやろ?と酒吞童子は若武者に尋ねる。が、彼は黙したまま語らず。きちりと鍔が鳴る。それが答え。
「綱、綱、綱ぁああああ!」「はいはい。その辺にしとき」
腕を失いながらも憤る茨木童子の首根っこをひょいと掴んで、酒吞童子は若武者に別れの挨拶を告げる。
「参った参った。降参どす。こんなん持ち出されたら、たまったものちゃうわぁ。うん、そやね……ええものを見させてもろうたわ。また一緒に遊んでや。今度はあの娘と一緒にね――。ほな、さいなら」
登場時と同じように、突然姿を消した鬼二人に、男はゆっくりと刀を収めた。キン、と一つ音が鳴って、周囲の景色、そして、男の姿が崩れ落ちる。オベロンはゆっくりと大地に倒れ伏した。大の字に寝転びながら、オベロンは空に向かって悪態を吐く。
「全く……なんなんだ? カルデアってのは本当に面倒くさい連中ばかりだなぁ!」
満身創痍。あちらこちらに切り傷。走り続けた足はもうクタクタだ。疲労に閉じた瞼の裏、出かける際に刀をくれた村正と渡辺綱の姿を思い出す。

「持っていきな」
村正が前振りなく、オベロンに刀を差しだした。おっかなびっくり、オベロンは恐る恐るとそれを受け取る。
「え? 刀、……刀じゃないか! どうしたんだい、突然」
こきこきと首を鳴らしながら、村正はなんでもないように言う。
「欲しがってたろ? それから、この兄さん曰く、必要になるってよ」
オベロンは村正の少し後ろで、自分に対し真っ直ぐな視線を投げる源氏の武士に首を傾げる。オベロンの疑問に彼は静かに答えを返した。
「恐らくだが、物の怪の類に絡まれるだろう。そういう場所だ。それは髭切、俺の刀を模したものだ。加えて俺の祝詞をかけてある。大抵の化生であれば、それを持っているだけで近寄らんだろう」
それを聞いてオベロンは酷く納得し、そして、感謝の言葉を返す。
「ありがたい。時間が無いからね。少しでも面倒毎は回避したいから助かるよ」
源氏の武士――渡辺綱は、少しだけ沈黙した後で、
「我らが主を頼む」
それだけをオベロンに伝えた。

 

追いかけっこによって道を外れた為、更に一刻以上歩き続けたオベロンの目の前に、とうとうその洞窟が姿を見せた。ひゅーっと風が洞窟の内部に向けて吹き込んでいる。その先は何も見えない真っ暗闇。
「やあ、見慣れた景色」
恐れることも無く、疲労に滲む目元を拭って、オベロンは一歩、その中へと足を進める。
――じゃりじゃり。
砂の音だけが響いている。春が近いと言えど、日の沈んだ山中は酷く寒い。人間ならば、体が冷えて大層堪えたであろうが、彼はサーヴァントなのでその辺りは、ただの感想でしか無かったりする。はぁ、とオベロンの呼吸音が洞窟内に木霊する。
(この路は、果たして本当に黄泉の国に繋がっているだろうか……)
法師に鬼ども、散々に邪魔をされてのこの路だ。繋がっていてもらわねば困る。強気にそう思うが、ひたひたとオベロンの足元から不安がせり上がって来る。
(もしも、黄泉の国に行けなかったら。立香を迎えに行けない。もう、会えない……)
足が止まりそうになる。その時――、オベロンの影から白い星が昇った。
「ブランカ」
白い蚕、ブランカ。彼女はふわりと宙を飛び、オベロンの前を行く。導く光のような彼女の姿。こっちよ――、優しい声が聞こえた気がした。その声に励まされるように、オベロンは歩みを再開させる。
(あーあ、かっこわる。でも……。ありがとう、ブランカ)
何時かのブリテンのように。一人と一匹は、暗い洞窟の中を進んでいった。

そして、最奥に辿り着く。
(何もない――)
ただの土の壁に、オベロンが絶望しかけた時、彼の目が真実を映し出す。ゆらりと壁が空気に消えた。壁の向こうに大きな穴。はは、とオベロンは笑う。また、――。一周回って怒りがこみ上げてくる。いいだろう! 落ちるのは得意だとも!
そおれっ!とオベロンが穴の上に身を躍らせる。直ぐに重力が彼を下へと引っ張った。ひゅるりひゅるりと回転しながら、オベロンは下へ下へと落ちていく。やがて――

結構な距離を落ちたはずだが、落下の衝撃は殆ど無かった。闇の中――、ぼんやりと鬼火が浮かび上がる。
『何者か』
低い女の声がした。
「やあ、失礼するよ。僕は妖精王。妖精王オベロンだ。ご婦人、ここは黄泉の国で間違いないかい?」
『如何にも』
「それは良かった! たどり着けなかったらどうしようかと思っていたところさ」
『死者の国に体を伴って訪れるとは、酔狂なことよ。して、皇子とやら、……何用か』
「ああ、人探しに。髪は燃えるような夕暮れ、瞳は蜂蜜を溶かしたような黄金。娘を探しているが、心当たりは?」
『さて、どうであったか……。ここには毎日千の魂が訪れるゆえ』
「……どうか、どうか返してほしい。僕の妻を」
ほ、ほ、ほ、と女の笑い声がする。
『妻とな!この妾に、妻を返してほしいと申すか』
嘲笑にも動じず、暗闇を睨みつけるように立つオベロンに女は、「良い」と言った。
『外つ国の皇子か、誠に珍妙な形よ。良い良い、珍しいものが見れたゆえ、お前の願いを叶えよう』
その言葉にオベロンがほっと安堵の息を吐く。漸く、彼女に会える。その内心を読み取ったかのように暗闇の中で女の声が響いていく。
『さて、皇子。を呼んでやろう』
ぼぅっと真っ暗闇だった世界に、炎が現れる。二つの炎。一つは、白髪の老婆になった。もうひとつは――光り輝く美しい女性。その背には一対の羽が虹色に輝いていた。オベロンの喉からカラカラに干からびた声が出る。
「ティターニア……」
その声音にもう一度、女の笑い声がした。
『ほほほ。これはおかしなことよ。妾は確かにお前の妻を呼んだぞ?
だというのに、ここにはふたつの魂がある。さて、……お前の妻はどちらだ?』
連れていくのは一人だけだ、と女は言う。オベロンの目の前で、美しい女――ティターニアが言葉を発する。
「オーベロン。貴方を待っていたわ」

オベロンの体中の細胞が沸騰したような熱を帯びる。どくどくと激しい鼓動は止まらない。ぶわりと汗が噴き出した。叫んでいる。彼の中、何者かが彼女の名を叫んでいる。やっと、やっと会えたと目の奥が熱くなる。
「ティターニア、ティターニア。ああ、妖精王が求めた、輝ける星――」
焦がれに焦がれた声に、女は慈愛の笑みを浮かべる。
「永く果てしなかったブリテン崩落の旅路の中で、何度君を想ったか。
夜空に浮かぶ北極星、輝ける人よ」
彼女がその白く美しい手を、オベロンに差し出した。眩しいものを見るように、オベロンはその手を見つめ、
「――どうか、これからも夜空に輝いてくれ。
俺は地上で、生きていく。夜空を見上げながら、生きていくよ」
手を伸ばさなかった。

どうして、と悲しみに濡れた声が零れ落ちた。取られなかった手を自分の胸に引き寄せて、ティターニアは嘆いた。
「貴方は妖精王オベロンではないの。わたくしは、貴方の妃ではないの」
「……」
オベロンは答えない。
「そう……。貴方も、わたくしをいらないと言うのね」

「違う」
その言葉を発したのはオベロンではなかった。老婆が俯いたまま、もう一度、違うよ、と言った。
「その人はずっと貴方のことを想ってた。今も想っている。どうか、その想いだけは嘘にしないで」
お願い、と老婆泣きながら懇願する。

(馬鹿だなぁ……お前が泣いてどうするんだ)
オベロンは少しだけ笑った。ああ、なんて哀らしい娘か。お前がそうだから、こんな惨めでみっともない存在になり下がったのだ。
「ティターニア」
たった一言。オベロンは彼女の名前を呼んだ。名を呼ばれた女は、驚いて……、そして、悲しそうに笑った。

オベロンが一歩一歩と歩き出す。やがて、老婆の前に辿り着き、膝をついた。地面に座り込み俯く老婆。彼女は頑なにその顔を見せなかった。
「さあ、顔を上げて。妖精王のひばり。何を恐れる?」
「見ないで。酷いの、本当に酷いの。……」
「見るな、だって? ここまでやって来た夫に随分とつれないじゃないか。
大丈夫、何も恐ろしいことなど無い」
そう言って、オベロンは俯く老婆――立香の顔を両手で掬うように上げさせる。
晒された顔は酷い有様だった。皮膚と言う皮膚が腐り、爛れている。彼女の黄金の瞳は失われ、ぽっかりと黒い空洞が覗いている。その瞳から蛆が沸いた。オベロンの形の良い鼻に酷い悪臭が届く。死体を長い間放置したような、溝水のような匂いだった。瑞々しく、愛らしい彼女の姿など影も形も無い。
『おお、恐ろしい。なんと醜い……。
皇子。見たか? 見たな? 今なら先ほどの言葉を撤回しても構わぬ。
さて、お前が地上に連れ戻るのは、本当にその娘か?』
さあ、さあ、と女――黄泉の国の女神イザナミがオベロンに問いかける。答えを知っているぞ、と酷く楽し気に彼女は笑う。ころころとまるで幼子のように彼女は笑う。
イザナミの問いには答えず、オベロンはじっと立香を見つめる。
「やっと……きみの顔が見れた。たった数日。きみの瞳を見ることが叶わなかっただけで、生きた心地がしなかったよ。俺のひばり。僕のお嫁さん。会いたかった」
オベロンは、腐って緑色になった立香の唇に口付けた。
『は?』
イザナミの口から呆然とした声が落ちる。その声から一切の喜色が消え失せた。
オベロンは、嘲り笑っていたイザナミの存在など忘れたように立香の口の中に舌を差し入れて、その腐った咥内を啜る。オベロンの口が緑と茶色に染まった。
「帰ろう、立香」

座り込む立香を抱き上げて、オベロンはその場を辞そうとする。その背に、イザナミの声がかかる。
『なぜ、なぜ、お前は、お前たちは……。
ああ、あの方は妾を置いて行ったというのに。嘘でもよい。ひとこと。ただ一言。
想っていると言ってくださったなら、……永久とこしえに迎えが無くても、あの方を憎みはしなかったのに』
すすり泣く女神の声に振り返らず、オベロンは来た道を戻っていく。かける言葉など無い。そして、かける必要も無い。彼女が求めているのはオベロンの言葉ではないのだから。

さて、どうしたものかとオベロンは穴の下で立ち尽くす。穴の下と言ったが、暗くて良く見えない。が、天井の方から風の音が聞こえるので、此処から降りてきたはず。行きはよいよい――、帰る方法が無い。オベロンの背ある翅はニセモノなので当然飛べやしない。
「うわ」
立往生していたオベロンの体が唐突に浮いた。ふわふわと上昇していく。思わず、立香の体を強く抱きしめる。ぐしゃりと彼女の体が潰れる音がした。慌ててオベロンは手の力を抜く。
「ごめん!」「っ……だ、大丈夫」
立香の痛々しい大丈夫に、もう一度、ごめん、と力なく呟く。消沈しながら、オベロンは遠ざかる暗闇の底を見る。遠くできらりと星が光った。
(……星よ、どうか――)

無事に穴を登り切って、よっという掛け声とともに、オベロンは大地に立つ。大きく息を吸い込めば、地上の匂いがした。先ほどの穴の底では、命の気配が全く無く、生きた心地がしなかったので、嗅ぎなれた自然の匂いに肩の力が抜けていく。ゆっくりとオベロンは歩き出した。べちゃり、と立香の体から水音がする。
「……」
「ごめんね」
ぽつりと立香が呟いた。何が?とオベロンは尋ねる。色々、と立香は言う。少しの間、二人の間に沈黙が下りて、オベロンが、
「僕もごめん」
と謝った。くすりと立香が笑って尋ねる。
「何が?」
それに、ため息を吐きながら、色々さ、とオベロンが返す。
歩く度にべちゃりと音がする。立香が苦しそうにオベロンの腕の中で身悶えた。ここに居るのは、立香の魂。だから、今の彼女の姿はきっと、彼女の魂の状態を表しているのだろう。彼女の魂が醜いということではない。傷ついて傷ついて、ずっとその傷を放置し続けた。その結果なのだ。痛ましいその姿が哀しい――。
洞窟の先、光が見えた。暗闇に慣れた目には聊か辛い光が目に入る。二人は咄嗟に両目を閉じて、――ゆっくりと開く。
「うわぁ!」
感嘆の声が、立香から零れ落ちる。随分と長い旅路になったせいで、山の端から朝日が覗いていた。そして、山は薄紅色に染まっていた。
「桜だ、桜だよ、オベロン!」
ざああと風が吹けば、ピンクの花びらが舞い散る。
「これがサクラ?……全然気づかなかった」
洞窟に来る前にも目にしたはずだが、オベロンには全く記憶が無い。必死に洞窟を目指していたせいで、景色を確かめる余裕が無かったようだ。ひらひらと薄紅色の花弁が山の中を飛んでいく。ふわりと一つ。美しいその色が立香の手の平に舞い込んでくる。
「綺麗……ね、オベロン」
手の平のそれを見せながら、立香が微笑む。自分の国の花を見せれたのが嬉しいと彼女の心が囁く。それを見て、オベロンは深く息を吐きながら呟いた。
「ああ、綺麗だ――」
でしょ?と言おうとした立香は、彼の視線が花ではなく自分に向けられていることに気付いた。どきりと心臓が鳴る。道中色々あったらしいオベロンはあちこちに傷を作って、ボロボロ。けれど、彼はびっくりするぐらい綺麗に微笑んでいる。
(格好いいなぁ……)
細い体なのに立香の体を抱えても揺るがない。英霊だから、当然と言えばそうなのだが、惚れた欲目か、彼の全てが格好良く、素敵に見える。とんでもない人を旦那さんにしてしまった。と思う。もう一度、彼の顔を見て、彼の瞳に、自分の姿が映っていることに気付いた。「あ」と立香の口から驚きの声が落ちる。彼の湖畔の瞳には、白い頬を薄紅色に染めた女の子が映っていた。恐る恐る、自分の頬に触れてみる。柔らかな、でも、しっかりとした弾力のある感触。手の甲を見る。白く瑞々しい肌があった。思わず、オベロンを見る。
「あーあ、見つかってしまったか。……僕だけの秘密だったのに。
内緒だよ、僕の――、俺だけが知っている女の子さ」

 

冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひわたるかも
(冬が去って春に咲いた花を手折り持ち、いつまでもいつまでもあなたのことを恋続けています)
~万葉集 巻十(千八百九十一)より 詠み人 柿本人麻呂

 

花畑に眠る立香がうっすらと光に包まれて消えていく。彼女の魂が本来あるべきところに帰っていくのだろう。それを見届けながら、マーリンはもうひとつの視界の先を見る。桜散る山奥で二人の男女が並んで景色を眺めている。やがて、女の方の姿が朝日に溶けて消えた。それを見送った男は、ふと空を見上げる。ばちりと視線が絡んだ。舌を出して、中指を立てる仕草。
「ぶはっ! あははは、見つかってしまった!」
楽しそうに魔術師は花畑で転げまわる。空を暫し眺めて、よいしょっと身を起こす。彼はそのままスキップでもするかのような足取りで丘の上を歩いて行く。向かう先はただひとつ――カルデアだ。
「よおし、これで暫くは退屈しないぞぅ!」