ジーワジワジワ。
緑の木々の合間から殺人的な日光が降り注いでいる。全方位から木霊する蝉たちの合唱が脳を揺さぶり、額と言わず全身から汗が噴き出す。皮膚を滑り落ちたそれは、黒々としたアスファルトから立ち昇る陽炎に溶けて消えた。
「あっい……」
辛抱堪らず開いた口に熱せられた空気が入り込み、容赦なく青年の喉と肺を焼いた。
「――ッ!」
むせる喉を押さえて、我が家へと続く坂道を昇る。右手に持ったエコバッグから顔を覗かせているのは色取り取りの果物。頭上のキャップを深めに被り直して、黒髪の青年は坂の途中にある広場への階段を気合で登り切った。ふらふらと揺れる体は、次の階段には向かわず大きな木の下にあるベンチへ。ドサリ。崩れるように座り込む。
「はぁ……」
辛うじてある木陰に癒やされながら、リュックの横に差し込んだペットボトルに手をかけた。
「うわ、ぬるくなってるし」
すっかりと暖められたお茶を嫌々ながらも口を付ければ、喉から大きな音が出るほど勢い良く吸い込んだ。数秒もせずボトルの中身は青年の腹の中へ。水分を得て、安堵の息を大きく吐く。そして、……。恨めしげに我が家へと続く階段を睨みあげた。
「誰だよ、こんな坂の上に住もうって決めたヤツ」
急勾配な坂の上、白い洋式の一軒家。今時珍しい煙突付き。遠くに橋の下を進む船が見える。海へと出て行く船を背に、青年は我が家の入り口を潜った。
「……ただいま」
「おかえりー」
足音と滑車音。応える声は、ひとつ。出迎えの二人を見て、青年は盛大に顔を歪めた。
「ねえ、ほんと最悪なんだけど。何この暑さ、マジで死ぬって」
車椅子に座った少女が肩を竦める。
「だから、夕方にした方が良いって言ったじゃ無いですか」
『汗、凄いよ。シャワー浴びたら?』
電子ボードを持った少女が心配そうにバスルームを指さした。
「ありがとう、ブランカ。……そうする。アルトリアだけ、かけうどんね」
「えええー! 嫌です、私も素麺がいいー!」
ヤダヤダと子供のような叫び声を背に青年は、タオルと着替えを取りに手洗い場へと移動した。
(夏バテで食事が進んでなかったけど、あの調子なら大丈夫か。トッピング用のオクラとオレンジも買ったし、後は冷蔵庫の好きな具材を切って……)
肌に張り付いた白いシャツを脱ぎ捨てる傍ら、夕飯のメニューを決めていく。数ある家事の中、料理は青年の担当だった。足の不自由な少女と声が出ない少女。その二人が彼の唯一の家族だった。
青年の一番古い記憶は、――坂道だった。見知らぬ男に手を引かれて、幼子には辛すぎる坂を黙々と登る自分。やがて辿り着いた玄関の扉を開いた先にいたのは、二人の少女。何にも関心を抱かなかった自分が初めて興味を持った希有な存在。あの日から、彼の世界は始まった。
『~社より、最新のアーティファクトをご紹介!』
「「「……ずずず」」」
素麺を啜る音の合間に、テレビショッピングの軽快な音楽が紛れ込む。MCの男性が、女性の足下に新商品を近づける。手軽な仕草で彼は商品を女性の足に装着。……女性が立ち上がった。彼女は持っていた杖をMCの男性に渡し、自分の足で歩いて見せた。
『ご覧下さい! この自然な歩き! 従来より軽い素材を使い、かつ、脳信号への経路を最新の~』
麦茶のコップを持ちあげて、青年が口を開いた。
「アレ、いる?」
「……いいえ、要りませんよ」
ごく自然な口調でアルトリアは答えた。チラリとブランカの方に視線を投げれば、――彼女は困ったように微笑み、首を横に振った。彼女の首にはブルーのタッグがついている。言語不自由を示す割り札だ。同じような札がアルトリアの首にもぶら下がっている。
(あーあ)
クソッタレな世の中だ、と青年は内心で毒づいた。ほぼ世界中の人々が身につけるそれが、青年の首元には無い。黒髪の青年は、通称「ゼロ」と呼ばれる存在だった。「ゼロ」は、世界でも数えるほどしか存在が確認されていない、身体機能に不全を持たないものたち。世界中の誰もが体の何処かに欠陥を抱えて生まれてくる。目が見えない者、耳が聞こえない者、発語出来ない者、手足が動かない者。どうして人々が欠陥を抱えて生まれてくるのか。随分長い間、研究されているが未だ解明されていない。その間に医療と科学は発達し、体に不全があったとしても何かしらの代替え機能で人々は通常の生活を送っている。近年は、【アーティファクト】と呼ばれる装身具が市場を独占しており、街中もテレビもその話題で持ちきりだ。大切な家族に不自由の無い生活をと望むことは、ごく自然なことだろう。とりわけ、イロモノ扱いを受けやすい彼にとって二人の少女は特別だ。彼らの養父がどうして三人を引き取ったのか、そのあたりの事情は世界中を飛び回っている彼に聞く機会も無く。当たり障りの無い日常を過ごすこと早十何年、……すっかりと興味を失ってしまった。
(二人が不自由なく過ごせれば、それでいい)
「あれ?」
食事も終わり、デザートにオレンジをと冷蔵庫を開いた青年だったが、何処にも見当たらない。
「……アルトリアー、オレンジ食べた?」
つまみ食い常習犯に尋ねた。
「食べてませーん」
テーブルの向こう、本を見下ろしながら彼女は答える。その様子に嘘は無いと判断。はて、ではどうした?と記憶を弄る。スーパー、会計、荷物詰め、帰宅……。次々と変わる場面。すっかりと夕暮れに染まった窓の外、大きな木の影が目に映る。
「……あ」
ツクツクホウシが鳴いている。まだ少し熱気が立ちこめる日暮れの中、坂道をトトトと駆け下りる人影。
「あった!」
昼間に座ったベンチの側に丸い橙色。拾い上げてみれば、幸運なことに虫や動物に荒らされた様子は無い。くるりと一回転させて問題ないことを確認し、持ってきた袋に突っ込んだ。やれやれと踵を返した青年の背に。
「久しぶりだね、オベロン」
高くも無く低くも無い、よく通るアルト。恐る恐ると青年が振り返ると、見知らぬ少女が立っていた。夕暮れに溶けてしまいそうな緋色の髪。金色の瞳は何もかもオレンジ色の世界で、小さく光っている。
「……きみ、誰? 誰と勘違いしているか知らないけど、俺はオベロンなんて名前じゃ無いよ」
警戒心を高め、一歩後ろに足を引いた青年に彼女はパチパチと瞳を瞬かせる。あれ、そっかと呟いたかと思えば、ごめんごめんと両手を合わせて笑った。
「そうだったね。懐かしくて、間違えちゃった。……ごめんね?」
初対面だという事実を認めつつも、彼女の言い方はやはり既知の相手に向けるもの。それに酷く不快感を感じて、青年が立ち去ろうとすると彼女の「待って」という声が掛かった。
「お願い、待って」
「……」
どうしてだか、その声を無視することが出来なかった。渋々と青年がもう一度振り返った。顔を向けた青年にほっと安堵の息を吐きつつ、少女は朗らかに笑った。
「ねえ、トモダチになってよ」
「はぁ?」
「ずっとじゃなくていいの。ちょっとの間だけ、お願い」
「嫌だね。何で俺が……」
にべもなく拒絶し、青年は少女に背を向ける。
「お願い! ……二人の病気を治す方法を知ってるの。もし、トモダチになってくれたら教えてあげる」
「…………」
――嘘だと思った。けれど、どうしてもその言葉を無視できない。
「……ちょっとってどれぐらい」
青年の言葉に少女の瞳に喜色が浮かぶ。ありがとう!と大きな声が返ってくる。そういうのいいから、と青年はイライラしながら、もう一度尋ねた。
「一ヶ月」
青年は無言で坂道を登り始めた。
「あ! ま、待って! 長い!? だめ!? じゃ、じゃあ、二週間!」
ピタリと青年の足が止まり、振り向くことも無く言葉を告げる。
「一週間」
「え゛」
「一週間」
強めの言葉に少女のがっくりとした気配が背中越しに伝わってくるが、それ以上の譲歩をする気にはならなかった。数秒迷う気配の後、少女が「分かった」と呟いた。ガサリ、握り直した袋が音を立てる。ゆっくりと坂道を歩き出した青年の背に、少女の声がぶつかった。
「また明日ね!」
ヒラリと片手を上げて、青年は家路へと向かう。
(また明日、ね。……妙なことになったもんだ)
聞き慣れないフレーズに違和感を感じながらも、不快さは無かった。チラリとと後ろを振り返ると、ひょこひょこと緋色の髪が揺れながら坂道の向こうへと消えていく最中だった。――突然、彼女が振り向いた。視線に気づかれたことにギョッとする青年に彼女は笑いながら、叫んだ。
「わたしー、りつかー! 明日、11時にベンチで待ってるねー! バイバーイ!」
大きく手を振る彼女の頭の上で、宵の明星が輝いていた。