ブルーの生地の上に細かな小花の刺繍がちらされたオーガンジー。足下はウェッジソールの白いサンダル。緋色の髪はハーフアップに纏められて、耳元には花のイヤリング。薄く化粧が施された少女は落ち着かない様子で籠のハンドバックを右に左にと揺らしている。
「……今日は、随分と、雰囲気が違うね」
似合っているよとでも言えばいいものを、ギクシャクとした返しをする黒髪の青年に少女もまた歯切れ悪く答えた。
「わ、私じゃ無くて。ダヴィンチが、なんか、はりきっちゃって」
そうなんだと棒読みで返した青年は、こっそりと今日の自分の服装を見直した。明るいベージュのチノパンにネイビーのジャケット。
(セーフ!!)
青年は楽な格好を好む為、オーバサイズのパーカで事済ますことも多く、素材が良いのに勿体ないと家族からため息をつかれることもある。実際、この数日はそういった格好の方が多かった。しかし、「今日は街に行くしな」とラフな服装を選ばなかった。着飾った少女の隣に立つパーカー姿の自身を想像する。……思わず身震いした。MVPもののファインプレーに朝の自分に盛大な拍手を送る青年だった。
「あ、危なかった」
「え?」
「……何でも無いよ」
首を傾げる少女に、映画に遅れるからと話題を逸らした。そうだったと俄に小走りになった少女は、不慣れな足下故に踏み出した靴先を小石に当ててしまう。躓き、倒れそうになる少女の手を青年が反射で捕まえる。
「「……」」
掴んだ手を、ゆっくりと手放す。絡んだ指先は、するりと。呆気なく遠のいていった。そして、柔らかい感触だけが掌に残る。
「気をつけて……」
「うん、ありがとう」
(意気地無しめ)
あのまま、握っていたかったなんて口が裂けても言えず。心の中だけで罵倒する。いつも以上にゆっくりとした足並みので二人は遠く喧噪が聞こえてくる街へと向かい始めた。
「やっぱり、あの教授は最初から分かってたんじゃ無いかな」
「自分の助手が犯人だって? なるほど、そういう見方も出来るか」
「だって、そうじゃなきゃあの瞬間に図書室に行くのは不自然だよ」
「その辺りは劇中では明確にはされなかったけど、そうだと仮定して最後の台詞を振り返ると……腑に落ちるところがあるよ」
でしょう?!と勢い良く少女がフォークをケーキに突き刺す。ベストセラーとなったミステリー小説を映画化した話題作は、空きの席がひとつも無いほどの大盛況だった。そして、それに見合うだけの重厚なストーリーで。すっかり夢中になった二人はランチのカフェでも感想合戦を繰り広げていた。テーブル越しに楽しそうに会話する二人は、周囲の視線も気にならなかった。
(不思議だな、街中にいるのに……凄く落ちついてる)
タグの無い自分に対する奇異の視線が、今日ばかりは何も気にならない。
(――彼女が居るから)
かつて無い経験に、何の変哲もないカフェラテですらバリスタが入れた至高のドリップのように思える。耳は周りの雑音では無く、弾むようなアルトを。鼻はコーヒーと紅茶と誰かのオムライスの匂いを。いつも伏し目がちなブルーの瞳は鮮やかなオレンジを。街は、世間は、世界は、とても穏やかだった。
「この後はどうする?」
「……もし、良かったら。歩きたいな」
つくづく欲の無い少女だと青年は思った。偏見かもしれないが、こういう時、女性は彼や是やと買い物を強請るものでは無いのだろうか。映画館だって青年が提案したから行っただけで、本人ときたら本当に街中を歩くだけのつもりだったのだ。
当て所なく、少女と青年は街中を歩いてく。時折、ショーウィンドウのガラスに顔を移して、面白そうに覗くだけ。店に入るかと聞いても首を横に振るばかり。どうしたものかと思案していると、気怠げに間延びする声が響いた。
「おねーさん」
「私?」
「そうそう。ちょっと見ていかない?」
道路の一角にテーブルを広げた男性。何だ何だと二人が近づいてみると、どうやらシルバー系のアクセサリーを販売しているようだ。厳めしい髑髏のついたロックなものから、シンプルなリングや三連になったネックレスなど幅広いレパートリー。
「お兄さんが作ったんですか?」
「俺が作ったのもあるけど、別のやつが作ったものもあるし、買ったやつもあるよ」
おねーさんにはこの辺りがいいんじゃ無いかな、とリングの一角が示される。赤、青、黄色。小さなカラーストーンがついたシルバーリング。それらがお行儀良くクッション台の中に並んでいる。
「かわいい」
ポツリと。少女が口元を緩めて呟いた。物珍しげに少女の背後に立っていた青年は、ふと視線を感じて顔を上げる。
「プレゼントには最適だと思うな~」
男性の意味ありげな目配せに「ごほっ」と喉が詰まった。
「え?」
違和感のある言葉に少女が疑問の声を上げたタイミングで、遮るように青年が口を開いた。
「いくらですか」
「さすがー! そうだな、2000円におまけしておくよ」
「え!?」
「じゃあこれで」
「まっ」
「毎度あり~」
「えーーー!?」
とんとん拍子。少女が遠慮の言葉を吐き出すよりも早く、小さな紙袋が少女の手の上に載せられる。青年はくるりと身を翻して、通りへと歩み始める。それを追いかけるべきか、商品を返すべきか右往左往する少女が叫んだ。
「ちが、違うの! ああ、待って! お金、お金あるから!」
バックの中から財布を取り出そうとした少女の背に、露天の男性が声をかける。
「おねーさん、男に恥をかかせたらダメだよ。……貰っておきなよ。思い出になるからさ」
「……」
少女は瞳を伏せて浅く息を吐く。そして、男性にぺこりと頭を下げ、――青年の後を追いかけるべく走り出した。
「青春だね~」
長い黒髪の男性は入れ墨の入った腕で両足を摩りながら、少女が青年の背中に頭突きをするのを見送った。
「いった! ……きみは猪の化身か何かかい?」
「……ありがとう」
「どう、いたしまて」
夕暮れが迫る、橙色に染め上げられた広場で。少女は「今日はありがとう」と改まった様子で頭を下げた。右足の爪先をコツコツと地面に当てながら、青年は所在なさげに「大げさだなぁ」と口にする。その様子に苦笑を零しながら、少女は胸元に引き寄せた紙袋を見下ろす。
「大事にするね」
「だから、大げさだって。……本物の宝石じゃあるまいし」
少女は頭を振る。
「ううん。きっと本物よりもっと――」
言いかけた言葉は少女の口の中に消えていき、代わりの別れの言葉が告げられる。
「……行かなくちゃ。ダヴィンチが待ってる」
少女の足が一歩後ろに下がった。その瞬間、青年の心に言い知れぬ不安が込み上げた。少女の手を掴もうと左腕が伸びるが、少女は危なげなくヒールのある靴でヒラリと身を翻していく。彼女が叫ぶ。
「ありがとう! きみとトモダチになれて、……本当に良かった!」
それっきり前を向いて、後ろを振り返ること無く坂道を駆けだした。翻る足と共に、少女のスカートの白い裾がふわりふわりと。飛ぶように遠ざかっていく。
「っ!」
青年は一歩踏み出した。
「あした! ここで、待ってるから! だから――」
少女が一瞬、振り向いて。
「――?」
突如背後から青年の名が呼ばれた。ぎくりと身を振るわせて振り返れば、車椅子に座った少女が重そうなリュックを膝に乗せて反対側の坂道から登ってくるところだった。
「どうしたんですか、そんな大声で。……あ。ははーん、さては例の人ですね」
どれどれとアルトリアが身を伸ばすので、慌ててその視線の先に立とうとした青年だったが。
「あれ? 誰も居ませんね」
その言葉に急いで後ろを振り返るが、真っ赤な坂道があるだけで。少女の姿は何処にも見えなかった。
「ちぇー。折角、お相手のお顔が見られると思ったんですけどね」
残念そうにため息をつく少女を横に青年は空を切った拳を握りしめる。
(明日――。必ず、伝えよう)
『また明日』
その言葉を告げること無く別れた彼女に不安に募らせながら。
明日も明後日も、その先もずっと。会いたいと伝えよう。そう、青年は自身に言い聞かせた。
「今日は楽しかった?」
「とっても。本当に本当に、楽しかったよ」
「そうかい。……それは良かった」
「うん」
「…………おやすみ、『マリー』」
「うん。おやすみ、ダヴィンチ」