I’m always with you ~Day 7~

駆けて、駆けて、駆け続けて。青年は坂道を走る。

ちゅんちゅん、という鳥の鳴き声に朝が来たことを知る。
「……」
寝起きは最悪で、昨夜はとかく眠れず。気が付けば朝という流れ。
「……朝食」
惰眠を貪りたいところだが、朝の支度が彼を待っている。もぞりと芋虫のようにベッドから這い出て、ベッドサイドにある携帯を手に取った。『AM 7:10』、いつもより10分の遅刻。だらりと両手を下ろし、窓を見る。
「今日も暑くなりそうだな」
空は、雲ひとつ無い快晴だった。
『AM 10:31』。飾り気の無い腕時計には、約束の時間より少し早いことを示していた。
「……」
朝から落ち着かず、思わず早めに玄関のドアを潜った青年はどうしたものかと玄関先の坂道で二の足を踏む。早く言ったところで彼女に会えるわけでも無い。それでも、止まない寝不足の頭痛がまるでアラートのように青年の頭の中で木霊する。ふうと息を吐いて、青年は一歩を踏み出した。トントントン。夏の暑さを反射する坂道を下りていく。もう何度も通った道だ。迷うことも無く、中央の広場に出た。
(ほらみろ、早すぎた)
辺りには人影すら見当たらない。じわじわと地面から茹で上がった空気が青年の額や首に汗を滴らせるので、自然と青年の足は木陰になっているベンチへと向かった。
「あっつ……」
目元を拭った腕を降ろした時、青年の目に白い何かが映る。――紙だ。白い紙がベンチに放置されている。重し代わりというような拳ほどの石が乗せられた白い紙。
「……」
青年がゆっくりと近づいてみると、白い紙の正体はよく見かけるタイプの便せんだった。ジーワジワジワ。蝉が、鳴いている。その大合唱に急かされるように青年は白い便せんを手に取り、中を開く。
その手紙は、『オベロンじゃない君へ』という文字から始まった。

駆けて、駆けて、駆け続けて。青年はとうとう目的地に辿り着いた。咳き込みながら、ゲートの前に立つガードマンに縋り付いた。
「っす、ゲホッ、すみません・・・!」
「どうしました!?」
「りつかっ、……俺と同じくらいの年齢の女の子、が! こちらに、よっんで、呼んで貰えませんか!」
最初はすわ事件かと身構えたガードマンは、動揺しながらも「アポイントは」と返した。それに頭を振る青年。ガードマンが困ったように帽子のつばを触る。
「申し訳ございませんが、こちらは関係者以外立ち入り禁止となっておりまして……」
「……っ!」
「どうした」
ガードマンの後ろからもう一人の守衛が現れた。その声に縋るように青年が顔を上げて、「あ」と声を漏らす。
「君は」
少女が親しげに話していたガードマンだった。二人から事情を聞いた中年の男性は、「確認するだけしてみよう」と守衛室の方に戻っていく。青年は、その後ろ姿を見送って、――がくりと膝をついた。
「え! だ、大丈夫かい?」
残った若い方のガードマンが、青年の背をさする。
「ゲホッ、――!」
広場からずっと走り通した為、青年の足はガクガクと震え、喉は皮が張り付いて裂けそうだった。これを飲んでと差し出されたペットボトルに口を付ける。
「連絡先とか分からないのかな」
「何も、……何も知らなくて」
(そうだ。俺は、彼女の名前以外、何も知らない――!)
青年の瞳に涙が滲む。その滴が零れ落ちる寸前、青年の前に影が射した。

ひょろりとした体躯。
オレンジの髪を一括りにした白衣の男性が立っていた。

「君が立香くんの『トモダチ』かい?」
ひとつ頷いた青年は、今一番知りたい言葉を口にする。
「彼女は?」
「……」
酷く頼りない印象のその男は沈黙する。固まる青年の表情に、緑の瞳が曖昧な笑みの形に歪む。
「おいで。中に案内しよう」

ごおん、と重たい音を響かせてエレベーターは止まった。先日尋ねた際よりも遙かに下の階層。寝不足の頭痛と灼熱の空気の中を走り続けた後、トドメのように下に引きずられる重力の弊害で、青年は今にも倒れそうだった。白衣の男(彼はロマニと名乗った)が「大丈夫かい?」と彼の左側から支える。
這々の体で青年は部屋の中に入った。部屋は酷く暗く、入り口の緑の照明だけがボンヤリと点いていた。
「ごめんね、今電気を付けるよ」
バチンとスイッチが鳴って、部屋が煌と明るくなる。
(眩しい)
ぎゅっと目を閉じた青年が、再び目を開き――、部屋の奥に駆けだした。
「りつか!」
部屋の奥、白い大きな背もたれのある椅子に少女が座っていた。彼女の細い肩に触れ、俯く少女の顔を覗き込もうとした青年はぎくりと身を振るわせる。
「……ぁ」
カツン。青年の背後から足音が響いた。
「よく出来ている・・・・・だろう?」
息が止まりそうになった。
「何を、言って」
「ダヴィンチがとある有名な人形師に依頼して作成した、人間と寸分変わらない人形だよ」
青年の口が開いて、――閉じる。瞳は限界まで見開かれ、信じられないと叫んでいた。ロマニは痛ましげにそれを見つつも、青年にとって信じがたい、そして残酷な言葉を続ける。

世界中で課題となっている障害に関して、この研究所で調査を続けた結果、とある人物が非常に重要なキーを握っていることが分かった。それが、青年が出会った『りつか』という少女だった。当然、研究陣は協力を要請したが、『りつか』は本来一般の場には姿を表すことが出来ない要人だった。幾度となく彼女が所属する組織とこの研究所を有する組織が議論をした結果、彼女の『意識』のみをこの地に派遣することが決定した。その入れ物となったのが、この人形『マリーゴールド』であるという。

「じゃあ、俺はこの一週間ずっと人形とトモダチごっこをしていたと?」
ロマニは何も言わず、青年の肩を摩ろうとした。がしかし。「はははは!」と突如笑い出した青年にその手を止める。
「魂? 人形? ……馬鹿にしやがって! 人形が動いて喋るなんて、子供だって信じやしないさ!」
青年は立ち上がり、声を張り上げる。
「りつか! 隠れんぼは終わりだ! こんな蝋人形まで用意して、俺は揶揄うのは楽しかったかい?!」
冷たい空気の部屋の中、青年の荒い息づかいだけが木霊する。
(これでも出てこないつもりか)
良いだろうと青年がもう一度声を出そうとした時、ひとつの輝きが目に留った。
「…………」
青い石がついたシルバーリング。青年の目の奥で、少女の姿がフラッシュバックする。

『大事にするね』

(違う。彼女は、彼女は。他人に大事なものを渡したりなんかしない……)

(じゃあ、そうだって言うなら、バカみたいなこの話が本当だって)

そうだと言うならば――。

震える手で青年は少女の重ね慣れた手に触れた。
柔らかく冷たい。
その感触を知っている。

「ぁ、あ、……ああああああ!!」

青年は目を逸らし続けた現実を、理解する。
この穏やかに俯く少女の人形が青年のトモダチで。

――もう二度と会えないのだということを。

『オベロンじゃない君へ

こんな形でごめんなさい。

でも、君の顔を見たら決意が鈍りそうで……。会えそうにないです。

一週間、本当に有り難う。ずっとずっと楽しかった!

多分、何でも無い女の子の私の人生の中で、一番楽しかったよ。

……どうして、君に声をかけたのかって質問だけど、

実はね。君が私の好きな人にとてもよく似てたんだ。

でも、会って分かった。君は君だった。

あの人と同じくらい優しくて真面目で繊細な君。

本当に、本当に君とトモダチになれてよかった。
アルトリアとブランカのことは、ダヴィンチにちゃんとお願いをしておいたから。

彼女なら必ず、二人のこと直してくれるはずだよ。だから、安心してね。
顔が見えなくても、声が聞こえなくても。

ずっと、そばにいるよ。

君たちの幸せを願ってるから。

――忘れないで。

立香  』

 

灯台の側の公園で、黒い髪の青年は寄せては引く海を眺めていた。
ヒュオオオ――!
(さむっ)
冷たい風に晒されて、亀ように首をコートの襟の中に引っ込める。青々と茂っていた芝生は枯れて茶色になり、カサカサと乾いた葉擦れの音を立てている。季節は秋を通り過ぎ、冬になろうとしていた。
「……帰るか」
ゆっくりと坂道を下っていく。いつも以上にのんびりとした足並みで、中央の広場に辿り着くと、「おーい」という声が聞こえた。首を横にスライドさせると、アルトリアが階段を下りてくる途中だった。右手に添えられた片手杖を振り回して、ブランカに「こら!」と叱られる。
三人は広場で顔を突き合わせた。
「ねえ、――、聞いてよ、アルトリアったら」
「あーあー! それは言わないでって」
(うるさいなー)
ブランカが大口を開けて笑い、アルトリアが地団駄を踏む。何でも無いことが、何でも無かった。青年がずっと願っていた、もしもがココにはある。……あるのに。
青年は顔を両手で覆った。聞こえてきた嗚咽に、二人の少女はピタリと騒ぐのを止め、左と右、それぞれから青年の様子を伺い見る。
「どうしたの?」
「変な物でも食べたんじゃないですか」
青年がずっと願っていた、もしもがココにはある。――のに。
「ねえ、本当に大丈夫?」
「お腹痛いんですか? 病院……、行きますか?」
心配そうに両肩が摩られ、ますます青年の嗚咽は大きくなった。

ぽっかりと胸に穴が開いたような、――喪失感。

(りつか)

『オベロン』という言葉を調べたとき、『夏の夜の夢』という有名な戯曲が直ぐに出てきた。そして、有名なその言い回しも。

(夏の夢のきみ。……きみを夢だと思うには、眩しすぎたよ)

 

カツン、カツン。
ロマニは青年を送り届けた後、地下の『保管庫』へと戻ってきていた。ゆったりとした歩調で椅子に座る少女の人形の前に立つ。
(まだ慣れないな)
生まれたときから視力が弱く、視力補正のゴーグル無しで歩くことが出来なかった。しかし、今、自分の目で見る世界はとても美しく、色鮮やかだ。
「やあ、……」
何を言うべきか戸惑い、言葉が続かなかったが。ややして、青年を無事に送り届けたこと、お願いされた少女二人の治療についてダヴィンチが説明に行ったことなどをぽつぽつと話した。
「彼には、君の名前を教えていたんだね」
この研究所では彼女の名前は秘匿事項だった。魂の名前では呼べず、便宜上、人形の名前から『マリー』と彼女は呼ばれた。
「『りつか』」
誰も居ない部屋で、初めて口にする名前にロマニは首を傾げた。
「うーん、ちょっと違うかな。『りつかちゃん』? これもなんかしっくりこないな」
ううんと唸って、『りつか、くん?』と音にする。
「りつかくん。……うん。立香君」
右手に刻まれた赤い印をなぞり、ロマニは頭を深く下げた。
「何の、力にもなれなかった。……無力で残酷なボクたちをどうか許さないでほしい」
数秒、数十秒。頭を下げ続けた彼は、ひとつため息を零した後、顔を上げ入り口へとその身を反転させる。
やがて出入り口のドアに辿り着いた彼は、電灯のスイッチに手をかけて囁いた。
「おやすみ、『マリー』」
バチン。

暗い暗い部屋の中。少女の人形が椅子に座っている。膝の上にある右手は左手の上に。庇うように置かれたその掌の下、――左手の薬指にあるシルバーリングが非常灯の光を鈍く反射していた。

【了】