橙の章

「お兄ちゃん!」
溌剌とした少女の声に、ロマニ――緋の一族の当主である彼は苦笑を零した。
「あ・に・う・え、でしょ」
「いいじゃん、家の中なんだから」
「僕もうるさく言いたくないんだけどさ。立香はうっかりしてるから、家の外でも呼びそうになるだろう? 日頃から癖をつけておかないと何時か一番やっちゃいけないところでやらかすぞ~?」
帰宅した兄を出迎えた立香は廊下の階段に持たれながら、否定できないと項垂れた。兄妹のやりとりを緋の家の者達は微笑ましげに見つめる。彼らの両親は、数年前にロマニに家督を譲った後、地方に隠居してしまった。なんでも地元の人と一緒に農作をしているらしい。彼らの祖父母も別の地方で貴金属の加工に一役買い、いつの間にか工房を開いているとか。つまり、全然貴族らしくない。それが緋の一族だった。それでも、貴人として迎えられている以上、必要最低限の体裁は整えねばならない。王城のある都市に居を構え、日夜、性の合わないお貴族様をやっている。

「あーあ、父さんと母さんはいいよなぁ。僕も星の研究がしたい! 早く隠居したいよ~」
「まずはお嫁さん探しからじゃ無い?」
情けない兄の切実なる叫びに立香が鋭く突っ込んだ。グサッと言葉に出しながら、兄が広間のソファに倒れ込む。家族だけなので、誰もその愚行を止めない。唯一、彼らの教育係である執事が眉を顰めた程度。おほん、とその執事が咳払いして、ロマニに書状を手渡した。並べられるティーセットとお菓子に気をとられつつあったロマニがキョトンとその手紙を受け取る。パラパラと封を解き、中を検めた。
「……立香」
「なあにー?」
オレンジのマフィンに手を伸ばしながら、立香が応える。
「……きみ、オベロン殿のお茶会に全然出席してないな?」
立香の手が止まる。――ゆっくりと手を戻し、膝の上で気まずそうに縮ませる。
「これ、お返事督促のお手紙だよ。なかなかこちらの茶会の日と折り合いが付かないようなので、こちらの都合に合わせるから、日取りを教えて下さいって来てる」
沈黙する立香に、ロマニは眉をハの字にしながら、窘めた。
「白の一族相手だから、敷居が高いって気持ちは分かるけど。僕たちだって、普段はこんなだけどさ、ちゃんとやるべきことはやらないといけないんだ。これ以上は、失礼に当たる。ちゃんとお返事しなさい」
「……はい」
頷いた立香に家人達は慌ただしく動き出す。白の一族への茶会だ。ドレスに手土産。やるべきことは沢山ある。家の中が一気に忙しくなり、やっと王城から戻ってリラックス出来ると期待したロマニは陰鬱にため息をついた。その裏で、彼は思考を巡らせる。
(白の一族覚えめでたき、オベロン殿。あの事件の当事者が一体、うちの立香に何の用だろうか)
格差はあれど、同じ輝珠のもの。交流だって普通にある。現に、ロマニだって緑の一族のアタランテと友人だし、立香も青や赤の子供達と幼い頃から一緒に転げ回っている。けれど、白はやはり特別だった。秘密主義というのだろうか。彼らは特に他の色と交流する際に、自分たちの立ち位置を強調するきらいがあった。その白の中でも特別な地位にあるオベロン。その彼が、ここ最近、やたらと立香に茶会の誘いをかけてくる。王城で羨ましそうにする者もあれば、眉を顰める者もいる。白と緋、一番上と一番下。あまりにも不釣り合いだった。
「何だか嫌な予感がするな~」
「うっ、マナーには気をつけるから!」
呟いた言葉は、妹には違う意味で伝わったらしい。それを訂正する気も起きず、ロマニは地方に行ってしまった両親を恨めしく思うのだった。

輝珠の一族の公式の場では、自分たちの色を纏うのが常識だ。色の一族といえど、頭からつま先までその色に染まっているわけでは無い。髪飾りだったり、ドレスだったり、色の特徴が少ない者は特に好んで自身の色を身に纏う。茶会の場に現れた立香をオベロンは満面の笑みで迎えた。
「やあ、いらっしゃい。そのドレスよく似合っているよ」
彼女のドレスはレモンイエロー。本来は黄の一族が好んで身に纏いそうな色だ。けれど、立香の家の者はその色でドレスを仕立てた。理由は単純で、彼女の髪が見事な緋色だから。黄金の瞳、風に遊ぶように流れる緋色の美しい髪。彼女をよく知るものは、彼女を太陽の娘と呼んだ。その色を映えさせる為に敢えて色味の薄いレモンイエローのドレスが選ばれたのだった。
「お招き有り難うございます。また、これまで折角のお誘いを……事情があったとはいえ、大変申し訳ございませんでした」
カーテンシーをしながら、陳謝する立香をオベロンが笑って制する。
「そんなに固くならないで。お茶会の事も気にしてないし、今日君が来てくれて喜んでいるんだよ?」
その言葉にますます恐縮しながら、立香は顔を上げる。
(変わらない――)
随分前に王城のパーティであったきりだ。シルバーの髪はサラサラと柔らかく、女の自分よりも艶があるのでは無いだろうか。薄いブルーの瞳が彼の白さに彩を添えている。何よりも、彼の胸元に輝く宝珠の煌めきと言ったら!一片の濁りも無い透明度。繊細な結晶の屈折が日の光を受けて、|七色の綾《プリズム》を織りなしている。――一度見たら忘れられない輝きだった。
オベロンにエスコートされるまま、立香は真っ白なテーブルに着席した。ガーデニングテーブルには王宮並みの色取り取りの茶菓子が並べられ、甘酸っぱい紅茶の香りが広がっている。庭に関しては、見事としか言い様がない。深い深い緑に大輪の真っ白なバラ。白と深緑のコントラストが目に焼き付いて、離れない。ここが白の一族のテリトリーであると否応なしに感じさせられる庭だった。
「悪趣味だろう?」
「え……」
一瞬何を言われたのか分からなかった。数秒言葉を咀嚼して冷や汗がどっと出る。何か顔に出ていただろうか、開始早々やらかしたのだろうかと立香は青ざめた。彼女の顔の変化を見て、オベロンが噴出した。
「アハハハ! すっごい顔!」
ふとその笑顔が先程の挨拶の時より自然なものに思えて、立香は肩の力を少しだけ抜いた。
「そこまで笑われると、いっそ清々しいです……」
「ははっ。ごめん、レディに失礼だったね」
クスクスと彼は収まらぬ笑いを手の甲で隠す。ひとしきり笑ってから、紅茶を手に取って「ファーストフラッシュだよ」と立香に促した。立香は白い陶器を慎重につまみ、その琥珀の色を口に含む。鼻の奥まで濃厚な花の香りが広がり、口先にまろやかな味を残していく。
(これ、絶対高いやつ――)
美味しいですと言いながら、立香は足先を所在なさげに組み替えた。立香の心の声を見ているかのようにオベロンがもう一度口の端に笑みを乗せる。堅苦しさなど一切見せず、リラックスした彼の姿に立香も何時しか気を許していた。
「君は覚えていないかもしれないけど。昔、王宮で君に助けられた事があったんだ」
「へ?」
そうだったけ?そんなことあった?と立香の頭が思い出という記憶の引き出しを引っかき回す。知らず首を傾げていた彼女を見て、オベロンは、やっぱり覚えてないかーと苦笑。流石に気まずくて立香がごめんなさいと首を竦めた。いいんだとオベロンは首を振った。
「間違って倉庫みたいなところに入り込んでしまったらしくてね。叫んでも誰も来なくて……。真っ暗で、怖かった」
特別な子だと自分自身思っていた。何せ同じ顔をした弟と待遇が違いすぎた。他の色の子とも違う。白の一族の中でも、特別大事にされ、育てられてきた。だから、あの暗闇での絶望は一際深かった。欲しいものは全て口にする前に用意され、呼ばずとも誰かが側に居た。そんなことが当たり前だった自分にとって、呼んでも泣いても誰も助けてくれないあの空間、あの時間は本当に恐ろしかった。扉を開ける、そのやり方さえ知らずに育ってきたのだ。どうしてそんなところに入ってしまったのか、今となってはもう覚えていない。なんとなく退屈だったから、……のような気がする。沈黙する扉、日の差さぬ暗闇。ふと、弟の顔が過った。いつもいつも無きように扱われるあの子が居る場所はこんな場所では無かったか。こんな恐ろしいところに生まれた時からずっといる自分の弟。生まれて初めて、オベロンは後悔・・した。ごめんなさい、と謝った。きっとそれは純粋な罪悪感では無く、ただ恐ろしいものから逃げたい焦燥からの言葉。それでも、彼はごめんなさいと自分の弟に謝った。
『ティみーつけた!』
ぎいいと音を立てて、扉が開かれる。暗闇に光が差した。恐る恐る扉を見れば、小さな太陽がいた。きらきらと輝く緋の色。お日様みたいな暖かい光。
「それが君だった」
カップの縁をなぞりながら、オベロンは語る。立香は腕を組みながら、記憶を漁るが、とんと覚えが無い。王宮探検なんて日常茶飯だったので。正直に言えば、騒いだり備品を壊したりして、王宮の大人に叱られた記憶の方が覚えている。あの給仕のおばちゃん、怖かったなーと言った具合だ。
「あーあ。僕にとっては、すっごく大事な思い出なんだけどなぁ」
「ええっと、その、ごめん?」
いいけどね、と彼はウィンクひとつ。それから彼はテーブルのベルを鳴らした。彼の側仕え達が部屋の方に戻っていく。人払いをした彼に、立香は不思議そうな顔をする。彼は、少し困った顔をしてから、声を潜めて彼女に囁いた。
「君に恩返しがしたい」
えっ、と立香が動揺の声をあげるがオベロンが瞳で静かにと咎める。ごくりと息を呑んで、立香が真剣な表情を返した。
「僕と結婚して」
叫ぼうとした立香の口をオベロンが押さえた。むぐぐと立香が苦しそうに藻掻く。黙って最後まで聞いて、とオベロンがもう一度立香を睨んだ。こくりと頷いたのを確認して彼はその手を離す。
「僕の弟が、好きなんだろう?」
「!!!」
立香の顔が絶望の色を映す。それに首を振りながら、オベロンは言葉を続けた。
「黒と緋である限り、君たちは絶対に結ばれない。これは変えられない事実だ」
「――」
「でも、白と緋なら? 反対はあるだろうけど、十中八九通る」
なんとなくオベロンの言いたい事が分かってきた。彼は自分と結婚する形で、立香とヴォーティガーンを娶そうというのだ。
「あいつにはこれまで以上にその存在を隠してもらう必要があるし、時々は僕の相手もしてもらう必要がある」
結婚が決まれば、色々なところへの挨拶だったり、披露宴だったり。新居もそうだ。ヴォーティガーンの前に、オベロンと共に周囲に関係を見せる必要がある。けれど、それさえ我慢すれば、彼と一緒に居られる。それは、立香にとって諦めていた希望の火を灯す言葉だった。
「立香、期待しているところ悪いけど。君が思う以上に、この道は茨の道だよ。まず第一に、君はあいつと子供を設ける事は出来ない。黒がまた生まれたら、全てが水の泡だ。――君には僕の子供を産んでもらう」
「そんな……出来ないよ……」
「なら、他の赤や黄の男の子供を産むんだね?」
「…………」
「立香。そういうことだよ。そういうこと・・・・・・なんだよ」
彼女の瞳から涙の真珠が落ちる。分かっていても、結局それは分かったつもりだった。第三者、それもヴォーティガーンと同じ顔をした男から、残酷な真実を告げられて、漸く立香は実感する。彼女は愛した人以外に抱かれて、その男の子供を産むのだ。彼以外に体を暴かれる自分を想像して、吐き気がした。怖い。怖い怖い怖い!いやだ、いやだ、ティ。助けて――。
声無く泣く彼女をオベロンは痛ましそうに見つめる。
「可哀想だと思う。でも、これが最善なんだ。他の誰かになるぐらいなら、せめて僕の方がマシじゃ無い?」
だって同じ顔だし。と彼は苦く精一杯のという風情で笑った。泣きながら、立香はオベロンの顔を見つめ返す。彼がどんな決意でこれを申し出てくれているか、その気持ちを思うとめそめそと泣くのは憚られる。
彼女のまっすぐな瞳を受けて、オベロンが居心地悪そうに居住まいを正した。
「流石に初めてを貰うのは気が引けるから、譲るけど。避妊はしてね」
それから、結婚式の後つまり世間的な意味の初夜は流石に僕と寝て貰うからその前にどうぞ。と言われたので立香は顔を真っ赤にして俯いた。
「もしかして、と思って初めてって言ったんだけど。……まだ・・なんだ?」
「な、な、な、なんてこと言うの!!! は、破廉恥よ!」
「まあそうか。万が一があっても困るしね」
「……」
急に現実的な話に戻るのは止めて欲しい。話題に振り回された立香はぐったりと両手をテーブルの上に置いた。うつ伏せにならないだけ、まだマナーを気にしていると思って欲しい。
「返事は急がないけど。あんまりゆっくりしていると、君の縁談が決まってしまいそうだ。……色よい返事を待っているよ」
それがオベロンとの最後の会話になった。立香は逃げるように自分の屋敷へと帰る。頭の中をオベロンの言葉が駆け巡っていた。
「結婚……かぁ」
少しでも彼と一緒に居られる可能性があるなら、オベロンが言うようにそれが最善なのだろう。でも、あの白い人に抱かれる自分への嫌悪感が拭えない。どんなに顔が一緒でもそれは彼では無い。――彼女が愛した黒ではないのだ。立香はテーブルに顔をうつ伏せた。

ひそひそひそ。
「やっぱりそうなのかしら」「どうかしら、あのお転婆でしょう?」「でも、案外お似合いだったり」
王宮の使用人達の間に噂話が広がっている。とある若い男女のことだ。白の青年と緋の娘。同じ輝珠でも身分差がある組み合わせ。人々が色めき立たぬ訳が無かった。廊下の角で立香はため息を吐く。今は何処に行っても注目の的だ。これというのもオベロンのせい。彼曰く。
『交流も無いのに行き成り結婚だなんて言えば怪しまれる。これからは適度に人前で会うようにしよう』
返事を保留している立香からすれば、いやまだすると決めた訳じゃと言いたいのだが、如何せん、彼はこちらの話を聞いているようで聞いていない。王城に上がる度に、声をかけられ、親しげに会話を持ちかけられる。人目に付かぬ方がどうかしている。適度にとはなんだったのか。
「こんな隅っこでどうしたの?」
立香の体が垂直に飛び上がった。髪が振り乱れる勢いで背後を見れば、オベロンがにこやかな笑顔と共に立っていた。あ、いや、そのと立香が彼から一歩二歩後ずされば、視線が突き刺さる気配。彼方此方から人の目を感じる。うっかり、廊下の角から姿を現してしまったらしい。
「そうだ。また今度・・・・、家においでよ。丁度誘おうと思っていたんだ」
(こ、このーーー!)
立香は内心で絶叫する。その言い方ではまるで二人が頻繁に彼の家で会っているかのようでは無いか。分かっていてそんな言い方をするオベロンを立香は睨みあげる。彼はうっとりとするような目線で立香を見返した。周囲がざわつくのが分かった。何もかも、彼の手の平の上。立香は奥歯を噛みしめた。
その時、笛が鳴った。高く伸びるような笛の音――。周囲の者達が一斉に頭を垂れる。
立香とオベロンも慌てて跪いた。輝珠の一族である彼らが跪く。その相手はこの世でただ一人。彼らの王以外に他なら無い。暫しの静寂の後、足音と衣擦れの音が聞こえてきた。シャラシャラという紗々の音が聞こえる。その音は、段々と二人の側まで近づき、やがて、目の前で止まった。
「何だ、立香では無いか」
「我らが至高の輝き、ギルガメッシュ王に置かれましては、」
「良い、止めよ。……お前のような跳ねっ返りにそのようにかしこまれては悪寒がするわ」
立香は笑いそうになる顔を必死に堪えて、かの人に導かれるままに顔を上げた。見上げた先に、黄金の輝きがある。この世の誰よりも強く輝く宝珠。イエローダイヤモンドを胸に抱くのは、ギルガメッシュ王その人。金の髪に血のように赤い瞳。顔の造形、体の造形、全てが完璧。この世の美を体現した彼こそが、長らく空席だった輝珠の玉座に座った男であり、そして、立香が幼い頃から遊び相手として西に東にと共に駆けた大好きな『お兄ちゃん』の一人だった。

この国の話をしよう。先に述べた通り、この国の政治は白の一族を筆頭としたプレシャスによって統治されている。基本的に王を戴く事は無い。王が居ない……というわけでは無い。王を名乗るには条件があるのだ。王となる条件、それは――【幻想】であること。
幻想《ファンシー》……、輝珠の中でも更に特別な者達。それは、色彩を持ちながらダイヤモンドの輝きを持った者のこと。その地位はプレシャスより遙か上。通常、輝珠は宝珠を持って生まれるが、(希に石を持たない者、一族の系統に無い色を持って生まれる者もあるが、基本的には一族に類する宝珠を持って生まれてくる)……初めから幻想として生まれてくる者はいない。ファンシーカラーと呼ばれる彼らは、詰まるところ、色持った輝珠の突然変異種・・・・・だ。経緯や起因は全くもって謎。ある日突然、彼らは変異する。この変異現象を彼らは幻想《ファンシー》と呼んだ。数百年に一人、居るか居ないか。それほどまでに希少な存在。しかし、一度、世に現れたならば当世に天地の祝福を齎すとされ、至高の輝き、輝珠の王の地位が約束される。歴史書を紐解けば、歴代の王達の偉業が数多く残されている。――そして、今代の王もまた、その比類無き異彩をページに刻んでいる。

今世に現れた輝珠の王、ギルガメッシュ――、彼は元々黄の一族だった。尊大にして悠然。プレシャスでも無いにも関わらず、その行動・発言は飛び抜けており、そして何よりも彼は強く美しかった。トパーズでは収まらない、あの男は黄金の輝きであると誰もが言った。その言葉が正しかったと証左するように彼はある日、その輝きを至高のものとした。彼が幻想化する瞬間には立ち会わなかったので、立香は詳細を知らないが、黄の家は上に下にの大騒ぎだったらしい。何せ、ここ五百年ほど幻想は出現していなかったのだ。王宮も各色の家も、そして、国そのものがひっくり返ったビッグニュース。最初は慶事と喜んだ立香だったが、大好きな兄が遠い人になってしまったと分かって、とてもとても寂しかった。
その彼が――、野原を駆け回った頃と寸分変わらぬ凜々しい笑みで立香を見ている。彼の手が伸ばされた。ぐしゃぐしゃと乱される緋色の髪。
「ひゃあ」
「少し見ぬ間に大きくなりおって……」
オベロンが酷く驚いた顔をしているのが横目に見えた。彼は立香がこの王様と知り合いなことを知らなかったらしい。立香を立ち上がらせながら、王はブチブチと小言を言い始める。
「もっと頻繁に顔を見せんか! 退屈でかなわんわ。エルキドゥあたりを捕まえてこい。いや、あれはあれでお前を独占したがるからな。よし、おい、そこの」
はっ!と護衛の一人が敬礼をする。王はその人物の顔を見る事もせず、言い放つ。
「これは我が雑種よ。何時いかなる時も、これが来たら俺の元へ通せ」
「そ、それは……かはっ!!」
もごもごと言いづらそうにする護衛が次の瞬間、中庭の方へ飛んで行った・・・・・・・・・。甲冑を着込んだ屈強な男がまるで手鞠のように――。飛んだ先で二度三度と地面に転がり、……やがて慣性を失って地面に倒れ伏す。うつ伏せのまま身じろぎする気配はない。どうやら意識を失っているらしい。誰かが、息を呑んだ音がした。
「誰の許可を得て発言をしている? 俺が通せと言った。お前達の答えはひとつだけだ」
その場にいる全員が平伏した。この異常なまでの力、これが幻想だった。最悪な事に今代の王は歴代の王の中でも類を見ない程、傲慢で容赦なく、そして強い力を持っていた。彼が玉座についてからというもの、王宮の人々の心に安寧は訪れない。何時彼の怒りを買うか、戦々恐々としながら仕える毎日だった。しかし、立香だけが眉をつり上げてその美貌の顔に手を添える。殺されてしまう!と戦慄する周囲の反して、王である彼は立香を見つめ返し、面白そうに笑っただけだった。あまつさえ、添えられた手を大きな自分の手で覆って見せた。許す――、と声無く王は言う。この王が御身に触れさせる、それがどれほど衝撃的な事か。この娘が王にとって特別な存在であり、深い信頼と愛情を持っているかを、その場に居る全ての者に知らしめる光景だった。
「もう、王様! あんまり乱暴にしたらだめだよ」
「フン。この俺がこの国の王よ。誰も俺には逆らえぬ。誰もな……」
フハハハハ!と高笑いする王。相変わらずだなぁ……と呆れ目で見ていた立香だったが、「時に」と彼が立香では無くオベロンを見たので内心酷く驚いた。彼は一度認めた身内には甘いが、他者には非常に厳しく冷徹だ。興味を引く事すら難しい。その彼がオベロンを見下ろした。見えぬ圧を感じたのか、白い彼は深く頭を下げて畏まった。
「何やら雑魚どもが騒がしい。なんでもお前とよく分からぬ馬の骨がどうとか……誠か?」
「……(どうしよう)」
否定をしたいところだが、オベロンの提案を蹴ったわけでは無い。答え倦ねる立香にギルガメッシュ王の視線が鋭くなった。
「ギル」
凜とした女性の声が回廊に響いた。振り向けば、栗色の髪に白い豪奢な服を身に纏った女性が立っていた。白の姫、そして、このギルガメッシュ王の正妃であるハクノ王女。いや、婚儀が済んだ今、彼女は王女では無く王后なのだが、彼女の少女然とした風体が思わず王女と呼ばさしめた。
「何だ、ハクノでは無いか。茶会はどうした茶会は」
「とっくの昔に終わったよ。これから会議なのに、何時まで待っても貴方が来ないから呼びに来たんだ」
「ハン。会議などどうでも良いわ。今はこの立香の――」
「そうか。残念だ。今日の会議は貴方が楽しみにしていた狩猟会の催しについてだったんだけどな。仕方無い、また今度にしよう」
「待て。……それを早く言わんか」
「はいはい。それじゃあ、行こうか」
ハクノがギルガメッシュ王の背を押しながら回廊の向こうへと歩いて行く。通り過ぎ様、彼女がチラリと立香を見た。『悪かった……』、そう音無く彼女は囁いて直ぐに視線を前に戻す。その言葉にハッと我に返った立香は、慌てて片足を下げて彼女に礼を返した。あれはどうした、今は後でと騒ぐ王と王后の行進を見送って、暫く――回廊の先から見なくなる頃、人々が止めていた息を吹き返した。
「驚いた。立香、あの王様と知り合いだったの」
「うん。あの人、元々黄の出だから。緋の家とは仲が良かったんだよ」
なるほどね……とオベロンは顎に手を当てて、考え込む。面倒だなという呟きが聞こえたが、立香はそれを無視して歩き出した。
「……あ、立香!」
「また今度!」
そう言って彼女は駆け出す。追いかけるオベロンの声、――迫り来る決断から、逃げ出したかった。彼の提案が最善だと分かりつつも、足はみるみるスピードを上げていく。回廊を抜け、王宮を抜け、心臓が早鐘を打ち、張り裂けそうになっても彼女は駆けていく。駆けて、駆けて、駆け続けて、けれど、――野原で培った彼女の健脚は、彼女を何処にも連れて行ってはくれなかった。