回廊の出来事から数日。二人の噂は益々、人々の話題に上がるようになっていた。
「聞いたか? あの王が、お認めになったとか」「何でも、緋色の娘を大層可愛がって居られてな、養子にでもするんじゃないかという話も聞いたぞ」「おいおい。それじゃあ、いよいよ噂は本当だってことか……」
白の王子と緋色の娘が近々、結婚をする。そんな話が王宮を駆け巡っていた。その話がアルトリア達に届かないはずが無く。村正達は王宮の隅っこにある図書エリア、――の中でも更に人目の少ない場所に居たヴォーティガーンに詰め寄った。
「おいおい、どうなってんだ」「ヴォーティ! 嘘ですよね??」
彼は二人を見て、何も言わず、呼んでいた本に視線を落とした。
「ちょっと!」
おほんっ!咳払いが三人の背を震わせた。司書が厳しい顔でこちらを見ている。アルトリアは、え、えへへと笑いながら会釈し、オベロンの腕を掴んだ。
「……おい」
良いから来なさいと無言の圧で、アルトリアと村正はオベロンを外に引きずり出す。図書エリアの裏庭、……柔らかな木漏れ日と噴水の水音が静かな空間を作り出している。平時ならば、さぞ癒やされる空間だっただろう。しかし、今は、三人の男女の言い争いで剣呑な雰囲気が立ちこめている。
「だから! 俺は何も聞いてない!!」
「何で聞いてないんですか! オベロンと、立香の事でしょう!?」
そんなこと聞けるもんか!とヴォーティガーンは絞り出すように叫んだ。流石のアルトリアもその勢いに気圧される。はぁはぁと荒い息を吐く黒の青年。落ち着けと村正がヴォーティガーンの肩に手を置こうとするが、彼はその手を払いのけた。
「聞けると思うのか!? 俺が、俺が立香に、オベロンと結婚するのか――なんて」
建物の壁に背を預けた彼がずるずると膝から崩れ落ちる。初めてその話を聞いた時は、まさかと気にしていなかった。……気にしない振りをしていた。段々と話が頻出するようになり、今は公然のように聞かされる毎日。質の悪い冗談であって欲しかった。
(何時かは、そんな時が来る。分かっていた、けど……その相手がよりによって、あいつだなんて!)
俯いて顔を上げる事すら出来ないヴォーティガーンに、二人はなんと声をかければ良いのか、言葉に詰まった。口を開いては閉じ、……何も言えないまま、沈黙が場を支配していた。
その時、三人の耳に聞き慣れた声が聞こえた。
「だから――、 って」
「立香の声だ……」
ヴォーティガーンが顔上げる。立ち上がり、反対の建物の方から聞こえてくる声にフラフラと近づいていく。アルトリアと村正も慌てて彼の背を追った。段々と声はクリアになり、彼女が他の誰かと一緒だということが分かった。その声も、聞き覚えがある。生まれた時から知っている。
「立香。お願いだよ。うんと言ってくれ。――好きなんだろう?」
「――! そ、そうだけど。……でも!」
ガツンと頭を殴られたような衝撃。ヴォーティガーンの目の前が真っ暗になる。建物の陰から見知った姿が現れた。オベロンと立香。
「お願い、結婚は、結婚はまだ……」
立香が哀切を持って、オベロンに訴える。彼の背後でアルトリア達が息を飲んだのが分かった。
(何だそれ)
傑作だ。噂は本当だった。彼女は、立香は、自分の兄を愛しているのだ。ハハと乾いた笑いがヴォーティガーンの口から零れる。ゆらりと彼は二人に近づく。最初に彼に気づいたのは兄だった。
「っ、ヴォーティ」
その名に立香が振り返った。彼の姿を認めると、みるみると彼女の顔から色が無くなった。
(ああ、――。愛してた、愛してたんだ)
おめでとう、兄さん、立香。そう言わなければならないのに、口は貝のようにぴったりと閉じて開く様子は無い。代わりにマグマのような怒りが身の内に込み上げてくる。何時だって、何だって、兄が奪っていく。ヴォーティガーンの大事なモノを奪っていく。気がつけば、オベロンの胸ぐらを掴んでいた。
「ティっ!?」
「許さない、……許さない! 立香だけは、立香だけはお前に渡さない!」
殺してやる! ――思わず、そう叫んでいた。オベロンの目が丸まると見開かれる。彼らの直ぐ側で立香が両手を口に当てて息を止めていた。あ、とヴォーティガーンの口から吐息が零れた。なんてことを、なんてことを言ってしまったのか。急に冷えた頭の中はぐちゃぐちゃで、何も言えず、ずるりと彼の手が掴んだ胸元から落ちた時、――ガツンと誰かに殴られた。
「きゃああ!?」「何を!!!」「てめぇ!」
彼がズキズキとする頭を辛うじて持ち上げれば、一人の老人が杖を振り上げていた。うっすらとその棒に赤い血が付いている。ガツン! もう一度強かに殴られる。
「この野郎!」
村正が老人を取り押さえた。それに抵抗しながら、老人は叫びを上げる。
「貴様が、貴様ごときが白の子に何を!!! おのれ! この汚れた黒がっ!!!」
殴られた頭より、胸が痛かった。その言葉が、何よりもヴォーティガーンを傷つけた。汚れた黒。何もしていないのに。どうして、俺が、俺だけが……。倒れ伏す彼の側に、鮮やかな緋色が駆け寄ってきた。
「ティ! ティ! ティっ!」
「立香……」
ぽろぽろと彼女の頬から涙が零れている。日の光が当たり、まるでダイヤモンドのように輝いている。
(綺麗だ――)
ヴォーティガーンは痛みも忘れてその輝きに魅入った。
「……俺が、俺が白だったら。きみを愛せたのに」
(他のどんな色よりもきみの緋色が好きだ。なのに、黒の俺は、きみを、愛することすら出来ないんだ)
痛くて、痛くて、死んでしまいそうだった。なのに、やっぱり涙は零れない。
ざわざわと人のざわめきが聞こえだした。どうやらオベロンが人を呼んだらしい。救護らしき人がこちらに寄ってくる。その間にもヴォーティガーンの耳には、人々の声が飛び込んでくる。
「おぞましい」「何時かやるんじゃ無いかって思っていたわ」「だって、あんなに醜い色」「黒が」「黒の」「黒に制裁を」
静かにヴォーティガーンは瞳を閉じる。もう何も、見たく無かった。
「うるさい」
灼熱の声。ハッとヴォーティガーンが閉じた瞳を開く。――立香が群衆の前に立っていた。救護の者も、オベロンも、老人も、アルトリアと村正も、みんな、彼女に射止められたように立ち尽くす。
「うるさい、煩い、煩い!!! 黙れ! 私の黒を侮辱するなっ」
緋色の髪が燐光を帯びて立ち上がる。誰も黄金の瞳から目が離せない。
「ああ、そんな」というオベロンの声がした。
彼女の胸で、黄昏が輝く――。世界を変える色が煌めいた。
呆然と誰かが言った。
「幻想《ファンシー》――」と。
(とんでもないことになった)
青の当主アルジュナは涼しい顔でその場に立ちながら、内心では頭を抱えていた。玉座の間には、白、青、赤、緑、黄、紫、緋、全ての色の当主が立ち並んでいる。その他にも多くの人間が広間にはごった返していた。このように人が集まったのは、ハクノ王女の結婚式以来。今、王城は前代未聞の事態に揺れていた。
「まさか、幻想が二人も現れるとはな」
アルジュナの隣、白髪に赤い目をした男が言った。静かな瞳でざわめく広間を見つめる男の名前はカルナ、――赤の一族の当主だ。みなが顔色悪く立つ中、顔色ひとつ変えないその態度に、アルジュナは思わず舌打ちしそうになった。昔からこの男とはどうにもそりが合わない。静謐の青。激動の赤のような印象があるだろうが、実際には彼らの性格は真反対。沸点が割と低いのが青で、武人のように泰然自若としているのが赤だ。その為、青と赤は顔を合わせれば対立し合うことがほとんどだ。アルトリアと村正のようにが仲が良いのは、かなり珍しいケースだ。カルナとアルジュナもご多分に漏れず、学業に始まり、武芸に礼節にと何かにつけて競い合ってきた。突っかかるのがいつも青のアルジュナだからなのか、人曰く、その激情を制する為に青を身に纏っているのではと揶揄される。が、アルジュナからすれば勘違いも甚だしい。冷静沈着のように言われる赤だが、彼らは一定のラインを超えると燃える。轟々と、灼爍と。天をも焦がす激情を胸に秘めているのが赤だ。やらかしたエピソードなら、カルナの方がずっと多い。そして、失言も多い。どうしてそんなにアルジュナの気を逆立てる言葉のチョイスばかりなのか。一度頭の辞書を入れ替えてもらってこいと言いたいアルジュナだった。そんな彼だが、流石に今回ばかりはと言葉が控えめだ。
「それで、どちらが王になるのだ?」
訂正。彼は平常運転だ。アルジュナは必死に殴りかかりそうになる己を諫めた。
「カルナさん、カルナさん、良い子だから。黙ってるっすよ」
少々、いや、結構ふくよかな栗毛の女性が眼鏡を押さえながら、カルナにお口チャックとジェスチャーする。律儀にカルナはその動作を真似ながら口を閉じた。「ファインプレー。ぐっじょぶ、僕!」と女性――黄の一族のジナコはサムズアップした。カルナも同じようにサムズアップした。それは真似なくてよろしい。アルジュナは額を抑えた。
笛が鳴った。――王が来る。
人々が次々に跪き、ざわめいていた広間に沈黙が落ちる。
何処か暗い室内に、輝きが射す。ギルガメッシュ王が黄金の輝きと共に現れた。悠然と彼は広間を進んでいく。彼の直ぐ後ろに、白の王女と緑のエルキドゥが続く。そこから更に数メートルを置いて、この事件の当事者が入ってくる。
白のオベロン。赤の村正。青のアルトリア。黒のヴォーティガーン。そして、……。
「なんて美しい」
知らずアルジュナは言葉を零していた。緋色の髪を靡かせて、一人の少女が歩いてくる。その胸に柔らかくも鮮やかな緋色が輝いていた。
(こんなにも美しい緋色を初めて見た)
輝きは確かにギルガメッシュ王の方が強い。けれど、夕陽を溶かしたようなその色から目が離せない。郷愁が胸の内に込み上げて、どうか消えないでくれ――と思わされる、そんな色だった。
王の足が玉座を前にして止まる。
「さて、ここに幻想《ファンシー》がふたつ在る」
その一言に広間の全員が生唾を飲んだ。
「今こそ、年の功というやつだ。――許す、意見を述べよ」
ギルガメッシュ王は白の一族を睥睨した。特にその中央、一人の老人を見ている。彼はオベロンとヴォーティガーンの父親の前に当主だった男。そして、ヴォーティガーンを殴ったのもこの老人だった。彼は喘ぐようにして言葉を紡ぐ。
「こ、このような事態は、過去にも例が無く……我々もどう判断すべきか、」
王はその瞳を眇めた。酷く不快なものを見る目だ。それに焦った老人は目を右に左にと動かして、ハクノを見た。はっと彼が目を見開く。
「おお、おお……、そうです。妻となされよ」
「なんと言った?」
ギルガメッシュ王が呆気にとられる。この阿呆は何と言ったのか、ありありと分かるその表情。それをどう勘違いしたのか、老人は天恵を得たとばかりに捲し立てる。
「緋の娘を正妃とされるのがよろしい、と申し上げたのです。どちらも幻想ならば、どちらも王であれば良いのです!」
彼の喜色に満ちた声に、当人が本気でそう思っていることが窺えた。
「愚かな」
カルナが言った言葉にアルジュナも強く同意する。少ない在位ながらもギルガメッシュ王がどんな人物なのか二人は汲み取っている。彼は、ハクノが白の姫だから妻としたのではない。ハクノを特別に想っているから、彼女を娶ったのだ。立香を正妃とするということは、ハクノを側室とするということ……彼女を蔑ろにする行為だ。
(こんな展開になるなんて……!)
余計なことを言った老人をオベロンは睨み付ける。こんなことになるならば、自分の手駒にするなどという悠長なことは考えずに、さっさと始末しておけば良かったと彼は舌打ちした。後悔先に立たず。このまま指を咥えて見ているわけにはいかない。お待ちを!とオベロンは声をあげかけ、――しかし、ギルガメッシュ王の哄笑に言葉を飲み込んだ。
「ふ、ふ、フハハハハハハハッ! 笑いが止まらんわ! 幻想ならば、何をしても許される、と。例え、白の娘を使い捨てのように放り投げることも是とお前は、お前達はそう言うのだな?」
笑い収めた彼の瞳は凪いでいた。何の感情もソコには無い。彼はもう聞くことは無いと老人、そして白の一族から視線を逸らし、立香を見た。
「立香」
ヴォーティガーンの隣から決して離れようとしなかった彼女が、数歩進んで、彼を守るようにギルガメッシュ王の前に立つ。黄金と緋色。双色が対面し、共鳴するように輝いていく。広間に光が満ちるにつれ、人々の波間から快哉があがる。確かに、並び立つ輝きだと言えるだろう。けれど、アルジュナにはそれは恭順でも共愛でもなく、むしろ反対の、戦いの寸前のような何かを感じ取っていた。
「立香、我が妻となるか」
ギルガメッシュ王が問う。一呼吸後。立香はいいえ、と言った。白の老人が何故と立香を見る。広間が再びどよめいた。
「私は、彼を、ヴォーティガーンを愛しているから」
シンと静寂が落ちた。
「ふ、ふざけるな!」
老人が叫ぶ。続けざま、汚れた黒と口にしようとした老人の言葉が不自然に止まった。彼の喉が引きつり、ぐぐぐというくぐもった音が聞こえてくる。老人が必死に喉を掻きむしり、見えない何かを取り払おうとする。混乱する老人の視線の先に立香が映った。彼女は眉をつり上げて老人を睨んでいた。
「――!」
声なき怒声が老人の目から迸る。彼は筋張った手を立香に伸ばし、――どだんっと床に倒れた。老人の顔はどす黒くなり、ぐるりと充血した目が上を向いている。ふいと彼女が視線を逸らすと、かはっがっは、と荒く息が続いた。周りの者が慌てて彼を後ろに連れて行く。それを見た人々、特に老人と同じように彼女を糾弾しようとした者はみな閉口した。
ニヤリと王は笑いながら、立香に尋ねる。
「そうか。お前が番う相手はそこの白だという話だったか、違ったか」
「……。私、ティが苦しまないならそれが一番良いんだって、思ってたの。私が彼と一緒に居たいって言うのは簡単なの。誰かに何を言われたって平気。でも、きっと他の人は私じゃ無くて彼を責める。ずっと、ずっとそうだった。……ずっと、彼が傷つくのが怖かった」
オベロンと結婚すれば、人目に隠れながらもティと一緒に居られる。そんな馬鹿なことを考えたのと彼女は瞳を伏せながら告解する。
「どんなに違うって言っても、みんな彼を悪く言う。ただ黒に生まれたっていうそれだけで」
ヴォーティガーンは自分の前に立つ立香を見る。これまで彼女は悲し気ではあったが、恐怖も怒りも彼には見せなかった。どんな想いだっただろう。自分が嫌だと思ったように、きっと彼女も同じくらい、いやそれ以上に嫌だと思ってくれていた。どれだけ恐ろしかったことだろう。愛なくその体を暴かれる。いつかきっと訪れるその瞬間が怖くて怖くて仕方なかったはずなのに……。一人でその恐怖に戦っていた。――自分はと言えば。どうせと諦めて、その癖、彼女を手放せず。ただ、自分の生まれを恨めし気に思うだけ。挙句の果てにあの醜態。自分が情けなくて、怒りを覚えると同時に、彼女が哀れで愛おしくて……。彼女を抱きしめて、誰も居ない世界に彼女を連れ去ってしまいたかった。――そんな資格など、もう無いのに。
「でも、もう決めたの。もうこの想いを隠さない。だって、そんなことをしても彼を守れないって分かったから」
彼女が振り向く。広間に居る全ての人を見て、叫んだ。
「汚れた黒? 何が? 何が汚れているっていうの? 貴方たちは彼の何を知っているの? こんなにも美しい人を、優しい人を、意味も無く、正当性も無く、下に見る。もう誰にも彼を悪く言わせない。私が言わせない!!」
彼女の宝珠が切り裂くように輝いた。
呆然と彼女を見ていたヴォーティガーンは、近くに立つオベロンの「うぅ」という苦しそうな声にはっと視線を周囲に走らせる。みな、苦しそうに喘ぎ、中には膝をつく者も居る。
「り、立香!」
ヴォーティガーンが慌て諫める。その声に、彼女の輝きが小さくなった。安堵する暇も無く、ヴォーティガーンは立香の瞳を見てぞっとする。多くの者が苦しむ様を見ながらも彼女の目には罪悪感は無く、ただただ怒りが満ちていた。彼女はそんな娘では無かった。お人好しでお転婆で……何処にでも居るようなそんな少女だったのに。ヴォーティガーンが変えてしまった。彼が彼女を怒れる太陽にさせてしまったのだ。
後悔だけが胸の内に込み上げて、彼女に何を言えばいいのかと惑うヴォーティガーンを余所に、ギルガメッシュ王が「良い、許す!」と叫んだ。
「よくぞ吠えた、立香。お前の考えは十二分に分かった。……では、貴様の番だ。黒の」
紅玉の瞳がヴォーティガーンを貫く。
「お前は何を思う?」
「俺は、……」
自分のせいで変わってしまった立香。人々の怯えた視線が彼女に向けられている。
(違う! 彼女はそんな風に見られるような人じゃ無いんだ……!)
そう思う。そう思うからこそ。
「……俺は彼女の隣に相応しくない」
立香の手が震えたのが見えた。……彼女の顔は見られなかった。
「だそうだが?」
王は意地悪げに立香を見る。彼女は下唇を引き結びながらも、顔を上げて、ギルガメッシュ王を睨みあげる。
「だとしても」
「立香……」
ヴォーティガーンが苦悩に満ちた声で彼女の名を呼ぶ。
それでも、と小さなその両手を震わせながら毅然と顔を上げる彼女を、ギルガメッシュは愛おしげに見つめた。
そして、王は告げる。
「ならば、我らが取る道はただひとつ!」
立香に伸ばされた王の手に、オベロンが叫ぶ。
「な! 原石化《ルース》!?」
その動揺の声を王は一笑する。
「たわけ。同じ輝き同士では成し得ぬ。……まあ、我ほどの存在であれば可能であろうがな」
しかし、立香はその笑みに悪寒を覚えた。危機が迫っている、と頭の中でけたたましく警鐘が鳴り響く。警戒し、一歩後ずさった彼女の動きがジャラララという鎖の音に堰き止められた。事態に気付き、立香が身を翻すも、数秒早く鎖が彼女の全身を縛り上げる。
「エルキドゥ、止めて!」
玉座の側で緑の青年が片手を大地につけ、金の鎖を縦横無尽に動かしている。彼のこの拘束具の威力を立香はよく知っている。幼い頃、見目麗しい彼らに近づこうとした悪漢が忽ちにこの鎖に絡め捕られ――、誰も逃げられなかった。国境を越えて、輝珠を捕らえようとした彼らは周辺諸国でも強奪者として悪名高く、その屈強さゆえにこれまで何度も騎士団の手を焼かせていたという。その男たちが当時幼子だったエルキドゥの鎖に手も足も出なかった。その大いなる力が自分に奮われる日が来ようとは、……立香は想像すらしなかった。
「どうして!」
「ごめんね、立香」
いつも無表情で、でも、ギルガメッシュや立香達と居る時、ほんの少しだけ口の端を緩めて笑う彼。今はただ冷たい――。立香の瞳に涙が込み上げた。
ぶちり――と。
立香の胸元で音がした。
「え?」
彼女はエルキドゥに向けていた視線を自分の顔の下、胸元に向ける。穴がある。そして、在るべきモノが無い。ゆっくりと顔を上げる。立香の目に、黄金の王とその手に緋色の輝きが映った。
「あ」
血は流れなかった。ただ、ぽっかりと白い肌と穴があるだけ。立香は崩れるように膝をつく。
「きゃああああああ!」「き、貴様ぁああああ!」
悲鳴と怒号が広間に充満する。
「待て、アルジュナ。これは――」「黙れ! そをどけ、カルナ! こんな、こんな暴挙が許されるはずが無い!!」
「お前、お前、お前えええええ!」「どけよ! そこをどけってんだ!!!」
アルトリアが怒りに泣き叫ぶ。村正が止める人々を吹き飛ばした。
りつか……と、ヴォーティガーンは彼女の名を呼んだ。人々の絶叫が木霊する中で、聞こえるはずもないその小さな声は、確かに彼女に届いた。振り向いた彼女の顔は強ばっている。その体は段々と透明になって彼女の体越しにギルガメッシュ王の姿が見えた。――彼女の体が色褪せていく。
「り、りつか。りつか、りつか、りつか!」
彼女の元に駆け寄ろうとしたヴォーティガーンは、何度も転びそうになる。膝が笑って足に力が入らない。そんな彼を見て、――立香は微笑んだ。幼い頃、お日様のようだと思った優しい彼女の笑顔。変わらない。何も変わってなんかいない彼女の笑顔に、ヴォーティガーンは手を伸ばした。
「ティ……大好きよ」
彼女の涙が頬を滑り落ちる前に、――彼女は消えた。残された衣服がふわりと地面に落ちる。トタトタと覚束無い足取りで駆けていたヴォーティガーンの足が止まった。視界が歪み、足下の感触も無い。天地さえも分からなくなった。ヴォーティガーンの視界の端で、緋色の輝きが煌めいた。その光を頼りに見れば、黄金の男が立っている。
立香の宝珠を差し向けながら、彼は言った。
「この娘の手を放すとは、こういうことだ」
「…………」
王に詰め寄ろうとする者、広間から逃げ出していく者、人々の混乱の中、ヴォーティガーンは人形のように立ち尽くす。それを酷く冷めた目で見ながら、王は群衆に玉言を言い放つ。
「裁定は下った! この世に輝珠の王は我ひとりのみ……。皆、大義であった。下がるがいい」
その言葉を皮切りに人々は横殴りの力で、一人一人と扉の向こうに飛ばされていく。激高していたアルトリアも村正も。誰も王の力には抗えなかった。
「ヴォーティ!」
自らの体を支える力も無いヴォーティガーンは軽々と宙を舞い、地面に叩きつけられる寸前でオベロンが抱き留めた。
他の者同様に吹き飛ばされたアルジュナは膝をつきながらも、くそっと扉の向こうを睨み付ける。王が身を翻して玉座に座るところだった。彼は大仰そうに座り、片肘をつく。彼の手の中には緋色の輝き。誰もいない広間の中、彼の左右には白の王女ハクノと緑のエルキドゥだけが控えていた。どこか愁いを帯びた王の瞳が閉じられるとともに、その玉座に通じる扉も重たい音を立てて閉じていく。
閉ざされた扉に誰かが近づく。黒い髪の青年は、扉を叩いた。ドン、ドン、ドン、――。音が回廊に響く。
「返し、返してくれ……りつか…… 、りつか……!」
幾度扉を叩き、請い続けても、――その扉が開くことは無かった。