その白く大きな建物は、『株式会社フラッシュフォー 脳神経科学研究所』というご大層な黄金のプレートを掲げていた。
「……」
入場ゲートには屈強なガードマンとゲートが設けられており、いかにも一般人お断りの雰囲気でさしもの青年もごくりと生唾を呑み込んだ。固まり立ち止まる青年の横を、少女は恐れ名も無く通り過ぎていく。ゲートの担当者に軽く手を振り、何やら親しげに談笑をして一枚のカードを受け取った。
「はい、これ。ゲスト用の入館カード」
無言のまま受け取る青年に、少女が苦笑を零す。
「止めとく?」
「……いいや」
暫しの躊躇いの後、カードから少女へと顔を上げたその瞳に曇りは無かった。
ゲートを潜り、白い建物へと入っていく。中央の大広間を横に逸れて、ツルツルに磨き上げられたエレベーターに乗り込む。ピッという電子音。少女がカードを端末に翳すと自動的にエレベーターは下層へと向かい始めた。ぐんと引っ張られる感覚に青年は口元を押さえた。
(この感覚は、苦手だな)
まるでどこまでも落ちていくような――そんな気がして。軽い酔いのような状態は長くは続かなかった。ポーンという控えめな音共にエレベーターのドアが開かれる。眩しい光が青年の目を眇めさせる。少女が先導するように歩き出し、その後ろを無言で追いかけた。地下は、そうとは思えぬほどに灯りに見ていた。もちろん、人工物の光だが。煌々と照らされる部屋は様々な機械が誂えられ、沢山のモニターに良く分からない数値が並んでいた。その中に、ブラウンの長い髪を下ろした女性がひとり。
「ダヴィンチ」
「やぁ、いらっしゃい」
明るい声のトーンの人物は振り返り、にっこりと二人に笑いかけた。彼女の手には絵筆が握られており、どうやら絵を描いている最中だったようだ。
「紹介するね、私のトモダチ。こっちは私の、何だろう? ホゴシャ? 上司?」
「ははっ、確かに。言い得て妙だね。初めまして、ベリッシモ・アルジェント。私はダヴィンチ。この研究所の所長さ」
「べり? いや、僕は――」
「ああ、名乗る必要は無いよ。君のことは良く知っている、何せ貴重な『ゼロ』だ」
その言葉だけで、青年の後ろ髪がザワついた。じりっと足が下がりそうになるのを堪える。それを見咎めて、ダヴィンチは肩を竦めながら「ごめんよ、嫌な言い方だったね。悪気は無いんだ。どうにも研究者の性が抜けなくてね」と詫びる。それでも青年の厳しい表情は変わらなかった。少女は一つため息をついて、ダヴィンチと窘めた。
「やりすぎ。ねえ、大丈夫だよ。あのね、『アーティファクト』って知ってる?」
「……ああ、最近よくCMで見るよ」
一歩寄り添った少女の存在に青年も漸く空気を和らげた。
「ここはね、その技術を提供している会社なんだ。販売は別らしいけど。ダヴィンチ達はどうして障害が発生するのか、そしてどうすればその障害に対抗できるのかを研究してるの」
「そう。研究の過程ではもちろん『ゼロ』の対象者も調べることになるから、一方的だけど君のことは知ってるんだ」
ああ、だから少女は一番始めに自身のことや家族のことを知っていたのかと青年は納得する。なるほどと頷く青年にダヴィンチはもう一度悪かったねと申し訳なさそうに眉を下げてから、説明を続ける。
「彼女は、私達の研究の『協力者』だ。彼女のお陰で私達の研究は完成したと言っても過言じゃ無い」
その言葉に少女は居心地悪そうに苦笑を浮かべる。どうしてそんな表情をするのか青年は不思議に思った。多くの人がこの障害に悩み、多くの企業や国がこの対応策に苦慮しているのだ。その対応策に貢献したといえば、上にも下にも置かぬ好待遇だろうに。首を傾げる青年を余所にダヴィンチはやれやれとため息をついた。
「とはいえ、海水まみれで帰ってきたときは大分焦ったよ。繊細なんだから十分取り扱いには注意してくれたまえ」
「あ゛~、ごめんってば」
(あの自転車、借り物だったのか。本当無茶苦茶だな、コイツ)
ジト目の二人に囲まれて、少女は人差し指を摺り合わせて首を引っ込めた。分が悪いと判じたのか、少女は中央植物園に彼を招待したいんだけどいいかなと提案する。
「植物園?」
「そう。研究資材として貴重な植物を自生させてるの。色々な花があって見応えがあるよ」
植物好きそうだからと笑いかける少女に青年は肩の力を緩めた。今日の待ち合わせ以降、何処か張り詰めていたのだと分かる。少女が何者か、それを知ることが出来てほっとしたのだと青年は苦く笑う。
(大物と言えば大物だけど、極真っ当な人間だった)
もしかしたら、悪の組織の一員で自分や家族に害をなす者では無いかと密かに戦々恐々としていた青年だったが、漫画の見過ぎだなと自嘲する。いいかなとお伺いを立てる少女にダヴィンチは構わないよと笑いかける。確かに親しげな空気は妹と姉のような雰囲気だ。保護者というのも頷ける。
「ただどれも貴重な品だ。くれぐれも持ち出したり、破損したりしないでくれよ」
ウィンクひとつ、彼女は横のポーチから一束の鍵を少女に明け渡す。あい分かったと少女は慣れたように鍵を受け取り、青年をドアへと誘った。女性に軽く会釈をしてから、青年は少女の後を追う。
扉を出て、右手の廊下を真っ直ぐ歩いて行くと青い扉が見えた。少女は鍵の束を眺め、これかなと一つ鍵を差し込む。カチリという音。どうやら正解だったようだ。よいしょっと重たそうに扉を開くので後ろから青年が支えて押し開いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人揃って扉を潜れば、一面のガラス窓が見えた。その奥に、目に眩いほどの瑞々しい緑。葉の形は個性的で、テレビのジャングル冒険番組で見たような大きなものがガラスに透けて見える。スプリンクラーがあるのか、時折、水しぶきが上がり光を反射している。
「植物園でしょ?」
「これは、うん、凄いね。あー、でも、正直そんなに植物には詳しくないから。『凄そう』って感想しか出てこない」
「あははっ、だよね? 貴重って言われても普通みんな分かんないよね~。まあ、折角の機会だし。ぐるっと中を見ていこうよ」
ガラスの扉を押し開くと湿度のある空気が溢れ出す。其処彼処から不可思議な匂いが青年の鼻をくすぐった。
「ハーブくさい」
「分かる。ていうか、ハーブなんだってば」
「ははっ、確かに」
自分の笑い声に青年はハッと口元を押さえた。チラリと少女を見やれば、困ったように笑っている。少しの沈黙の後、青年は言った。
「正直、ホッとしてる」
「悪いやつだと思った?」
「……ちょっとね。変な勧誘を受けることは少なくなかったから」
「うん。そうだったんだね。――そう、そうだよね。大変だったね」
同情では無く、心から労る言葉だった。ツンと鼻の奥が刺激され、慌てて上を見上げた青年の脳裏に過去のあれこれが思い浮かんだ。何時だって何故お前だけがと言われ、何時だって分からないと首を振る日々だった。その気持ちを理解する事が出来るのは、同じように障害を持たない彼女だけなのだと青年は反芻する。そして、素直に賞賛した。
「きみは凄いな。世界中の人のためになることをやり遂げたんだ。俺は何にもしなかったのに」
「……凄く何て無いよ。私、顔も知らない誰かのためになんて頑張れない」
青年は見上げていた視線を少女の方に向ける。少女も青年を見つめた。
「言ったでしょう? 私の大切な人達の為に、って」
澄んだ琥珀が真っ直ぐに青年に注がれる。青年はその視線に心臓を掴まれながら、そういえばと気づいた疑問を口にする。
「ねえ、どうしてきみは俺に声をかけたの」
茜、珊瑚、朱鷺、紫苑、藤、純白、温室には様々な花が色鮮やかに咲いている。けれど、そのどの花よりも眩い笑顔で少女は言った。
「内緒」
「ダヴィンチ」
長い髪を一纏めにした白衣の青年が室内の女性に声をかけた。ゆるりと女性が振り返ると、おやと青年は口元を緩ませた。
「すまない、リハビリ中だったのか」
その言葉に女性は肩を竦めると、大丈夫さと返す。
「丁度疲れてきたところだったから、止めようと思っていたんだ」
かたりと絵筆を小瓶に戻し、くるりと椅子を回転させて青年に向き直る。白衣の青年は厳めしいゴーグルをつけた頭を右に左にと動かし、首を傾げた。
「彼女が居るって聞いてきたんだけど?」
「ああ」
くすりとダヴィンチは笑った。人差し指をその桜色の唇の前に立てて、柔らかな笑みを浮かべる。
「例の彼と逢瀬中だよ」
青年の顔が苦々しく変化する。
「――彼に話したのかい?」
「ああ、話したとも。彼女は私達の『協力者』だってね」
「……それは」
口籠る青年にダヴィンチは真っ直ぐな視線を投げ、まるで託宣のように告げる。
「私も、君も。その赤い印を受けた時点で同罪だ。出来ることがあるとすれば、彼女の望みを叶えることだけ」
青年は自分の右手にある印を隠すように引っ込めたが、ダヴィンチはゆるりと持ち上げた自分の右手にそっと唇を押しつける。
「愛しい君。どうか、私達の罪を許さないでおくれ」
そう言うと、彼女は絵筆を咥えて再びキャンパスに向かう。その筆先は先程よりも滑らかに躊躇いが無い。ひとつひとつ、絵に彩が積み重ねられていく。これ以上話す気は無いという様子のダヴィンチに青年は深く息を吐いて、踵を返した。やがて、ドアが閉じる音が室内に響く。けれど、もうその音は画家の耳には届かない。一心不乱に顔を動かして描き続けるその様は、狂気すら感じるものだった。
オレンジの花で埋め尽くされた野原で微笑みながら眠る緋色の少女の絵。その絵の裏地に書かれた言葉は『マリーゴールド』。
「また明日。……ねえ、明日は街に行きたいな」
きみが住むこの街を見たいんだと微笑む少女に頷きを返す。どうか赤く染まった頬が夕暮れで隠れていますようにと祈りながら。