ミスター&ミスター! 学園の王子様決定戦(後編)

天井に届かんばかりに設えられた木棚の色が黒々と染まりこの場所の過ぎた年月を想起させる。がしかし、真白いカーテンが静かに風の波間を揺蕩うとこの部屋だけ時が止まっているかのような感覚に陥ってしまう。数多の知識が息を潜めて眠るノスタルジックな場所――図書室で、彼らの眠りを妨げるのを恐れるかのようにマシュが小さな声で呟いた。
「各部員お勧めの本が展示されているのですね」
出入り口入って直ぐの大きな陳列棚に、大小色味様々の本が所狭しと並べられている。陳列されている本の真下には、本の推薦者と推薦理由が綴られた画用紙。学生らしいフレームの中には、手書きの統一性の無い文字が並ぶ。大きくのた打った字、小さく生真面目な字、もはや解読不能なほど個性的な字、などなど。それらを眺め下ろし、紫の瞳がキラキラと好奇心に染まる。立香は普段の様子とは少し違う、幼げな少女を見て微笑ましくなる。しかし、そんな温かい気持ちに水を差すように「例年代わり映えしないそうだけどね」と黒髪の少年が皮肉った。
「素敵な企画だと思います」
その冷たい微笑みに怯むことも無くマシュは素直な感想を口にした。彼女の視線の先には、一際几帳面に文字が書かれたフレーム。それが誰の物かをよくよく知っているオベロンはムスリと口を噤む。立香がころころと鈴が鳴るような音で忍び笑えば、意地っ張りなオベロンの唇はますます下へと向いてしまった。
生徒会は学園祭の実行委員も兼ねているらしい。部活動以外にも同好会やクラブが乱立するこの学園において、この時期の生徒会一同は一分一秒が惜しいとばかりに駆け回っている。読書クラブの展示を確認し終えたマシュは名残惜しげにしつつも足早に図書室を出て行った。二人きりになった空間で立香は手持ち無沙汰気にオベロンに尋ねる。
「これ手伝うことってあんまり無かったんじゃ?」
今この部屋に、オベロン以外の読書クラブのメンバーは誰も見当たらない。さてお手伝い頑張るぞと意気揚々と図書室に来た立香だったが、各人テキパキと上級生の指示に従い展示物を並べ、騒ぐことも無く画用紙にコメントを書き、終わったらサッサと部屋を出て行ってしまった。立香が呆気にとられている間にマシュが展示物の確認に来て、それもものの数分で終わった。立香がしたことと言えば、みんなに画用紙を配ったことぐらいだ。流石に居心地が悪かった。
「助けて貰っておいて、文句を付けるなんて随分と生意気だなぁ」
うっと首を引っ込めた立香をせせら笑いつつ、オベロンは「読書クラブは省エネをモットーにしてるから」と言った。はて?と首を傾げる立香にオベロンは淡々と説明する。曰く、この学園では生徒は何かしらの活動に参加せねばならないが、当然何にも興味がない層というのは存在する。そういった人々が作ったのが『読書クラブ』だ。活動内容は月に一度、読んだ本の感想を意見交換するだけ。つまるところ――。
「帰宅部?」
立香の言葉にオベロンは薄ら笑いを浮かべた。うわぁと引き気味の感嘆符を零した立香だが、ふと背後に視線を感じて振り返る。――決闘で惨敗したはずのダブルFが出入り口に張り付き、実に恨みがましい視線をオベロンに注いでいた。
「うらめしや~~」
「「うわ」」
しかしその程度の視線で怯む彼では無い。出入り口に歩み寄り、「用の無いヤツは立ち入り禁止だよ」と犬猫を追い払うかのようにしっしっと手を振った。喧々囂々と彼らが言い争うのを遠目に眺めながら立香はふうと息を零す。
(……最初の印象は最悪だった。でも――)
皮肉屋で愛想が無くて時に乱暴者な彼、誰にも興味が無さそうな素振りな癖に立香にだけは並々ならぬ視線を送るのだ。何にも感じない方がどうかしてる。家や学校で彼の人となりを知れば知るほど可愛らしく見えて、『立香』と名を呼ばれて抱き寄せられるとどうしようもなくて、何もかも差し出したくなる。
(『この身全てを差し出したい』なんて、それじゃあまるで)
「ねえ、聞いてる?」
「うひょわっお」
考え事をしている人間の悲鳴ほど滑稽なものはない。バクバクと鳴る心臓を押さえながら、立香は不機嫌そうな少年を見つめ返した。どうやら清姫達はオベロンに追い払われたらしい。文字通り誰も居ない部屋の中、立香は「何その声、お化けでも見たみたいに……」と鼻に皺を寄せる彼の顔を見た。鳴る鼓動は驚きの所為だけでは無い。胸の奥、しくしくと泣いている|少《・》|女《・》がいる。
(ねぇ、どうして? どうして、君は私のことを知ってたの?)
信じたいのに、好きでいたいのに、――立香の秘密を知る彼が怖い。

天高く馬肥ゆる秋、空は快晴、雲は尾を長く引き、風は凪いでいる。老若男女、様々な人々が学園を訪れていた。
「いらっしゃいませー! 料理部にてケモ耳カフェを実施中でーす」
「視聴覚室で映研のドラマを上映中~、次の回は11時半から開始になります!!」
「美術部です! 色々なイラストを展示販売してます! 是非見に来て下さい!」
わいわいがやがや。多くの文化部が客引き用のプラカードを持って、廊下を練り歩いている。
「すまない」
チラシを手渡された女性が男子生徒に声をかける。
「はい! チケットですか?」
「ああ、いや、違うんだ。その、ミスターコンはどこでやっているんだろうか」
「はいはいはい、ミスターコンですね。中庭のグラウンドです。そこの窓、見えますか?出店がいっぱいあるので分かりづらいかもですけど、中央あたりの赤いやつです」
「なるほど、あそこか。ありがとう、引き留めてしまってすまなかった」
「いいえー、うちの名物ですもん。でも、映研のやつも気合入ってるんで!」
分かった分かったと苦笑を零しながら、女性は立ち去る男子生徒に手を振った。
「なんとも騒々しいことよ」
「活気があっていいじゃないか」
女性とその連れ、常人ならざるオーラを放つ金髪の男性はゆっくりと階段を下りていく。普段ならば、遠巻きにされ滅多に声をかけられないというのに一度に学園の門を潜れば、どこから湧いて出たのかという量の生徒達に囲まれ、チラシを押しつけられた。祭り気分にブーストされた若さゆえか、はたまた、この学園の生徒だからなのか。
(両方だな)
とあっさりと判定を下し、金髪の男性ことギルガメッシュも熱気溢れるこの空間を楽しげに見下ろした。かつて自身が治めた国を遠くに想って――。

「か、か、可愛い~~~~!」
きゃあーっと女子生徒達が喜声をあげた。ははは、と立香は乾いた笑い声を零した。普段一括りにされた緋色の髪は丁寧に梳き下ろされ、黒のカチューシャが差し込まれた。青いドレスに白いエプロン。足下の黒いエナメル靴がコツコツと木音を響かせる。時計を持った兎を追いかけた少女、アリスの出来上がりだ。半分ほどに減ったペットボトルを握りしめた立香はだらだらと内心冷や汗を垂れ流していた。
(やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい)
事の起こりは一時間前、女子達にメイクを施される前のこと。喉が渇いたと思って開けたペットボトルを口にしようとした瞬間、早く早くと急いたメイク担当の女子が立香の背を押した。ぶはっと顔面に大量のお茶を被った立香に慌てて謝ったが、立香は空返事で大丈夫だと距離を取る。
『あれ? 藤丸君、なんか変わった?』
『いやーーー、どうかなーーー! 服の所為かも!!!』
そうかなと、そうかと納得した女性生徒に立香は安堵の息を吐く。飲んでいたお茶は自販機で買ったばかりのホット・・・だった。不便極まりない立香の体質――水を被れば男になり、お湯を被れば元の女になる――その判定に引っかかってしまったのだ。つまり、今の立香は正真正銘の『女の子』だった。
幸いメイクとこの服のお陰で、誰にも怪しまれていないようだが、いつ何時違和感に気づかれても可笑しくない。早く水を被らなければと思うが、クラスメイトに囲まれて独りになることが出来ない。仮に独りになったとて、メイクと衣装を汚すことなく水を被るのは至難の業だ。どうしよう、と顔色悪く辺りを見回していた立香だが、背後からの響めきに縋るような視線を投げた。
「え、綺麗」
黒壇のように黒く長い髪は光に当たる度に艶々と煌めき、白い頬は雪のように儚い曲線を描き、そして、血のように赤い唇は漏れ出る息を色目かしく彩った。スノウホワイトの衣装を身に纏ったオベロン。余りの美の迫力に、茶化すどころではない。ガチであかんやつを作ってしまったという慄く空気が一年三組に広がった。
「や、やるな、オベロン」
「何が」
どこか悔しささえ滲ませるセタンタにオベロンはドスの利いた声で冷たく返す。それを皮切りに次々とクラスメイトがオベロンを褒めそやした。
(あ、これ、大丈夫だな)
スンッと立香は表情を無にした。有り難い、大変有り難い存在なはずだ。だというのに、怒りが込み上げるのは何故だろうか。女子よりも綺麗可愛いというのはどうなんだと、もはや誰も注目しなくなったことに一角思わないでもない立香だった。

軽快なバックミュージックとともに、マイクを持った生徒が二名、赤いステージに登る。観客から歓声と拍手が送られた。
『お待たせいたしました! カルデア学園名物、ミスターコンの開催です! 本日司会を務めさせて頂くのは、生徒会書記のマシュ・キリエライトと』
『生徒会副会長のカドック・ゼムルプスです』
『例年大盛況の本企画ですが、今年も凄い人気ですね』
『毎年毎年よくやると思う』
『昨年は、カドック先輩も参加されたそうですが』
『いいか、マシュ。その話は直ぐに忘れろ』
似合ってたぞー!と同級生なのか観客側から野次が飛んだ。
『一生の汚点だ。今言ったのはベリルだな。後でオボエテロヨ』
どっと観客が笑いに沸く。それを待って、マシュがにこりと微笑み、言葉を続ける。
『流石はカドック先輩、場を一気に暖めてくれました』
『違うんだが、……まぁいいか。さて、何時までもこうしてはいられないな』
『ですね! では早速今年のミスターをご紹介いたしましょう! エントリー№1、一年一組……』
一組から順番に二名ずつ紹介が進み、とうとう三組の番になった。立香は緊張で握りしめた手を緩める。と、背中をトンと優しく叩かれた。振り返れば、美の暴力。咄嗟に目の上に手を翳した。
「うっ」
「おいこら」
「……冗談だよ」
半分だけど――と立香は内心で呟き、ふにゃりと柔らかく笑った。緊張がほぐれたらしい立香を見てオベロンは肩を竦める。
『エントリー№5、藤丸立香さん!』
掛かったコールに立香は壇上に向かう途中、一瞬だけ振り返って「ありがとう」と背後のオベロンに手を振った。細められた目の優しさに、どきりと胸がなったが、ソレを振り切るように階段を上った。一歩ステージに上がれば、会場から拍手と歓声が木霊する。
「え、男の子? 本当に?」
「可愛いーーー」
「普通に付き合ってほしい」
『な、な、なんて愛らしいんでしょうか! 可愛さの絶滅危惧種に指定すべきでは!?』
『落ち着けマシュ、意味が分からん』
『カドック先輩! 先輩には分からないんですか!? 可愛くないですか? 可愛いですよね? 可愛いに決まってますよね?』
圧のある三段活用が意味も無くカドックを襲う。どうどうとカドックがマシュを宥めつつ、「とても男には見えないな」とコメント。立香の背に冷や汗が流れるが、舞台袖に意識を向けるとスンッと心が凪いだ。
(大丈夫、大丈夫。この後、あの人だし……、なんか腹立つな)
と怒りを抑えつつ、自己紹介。
『えと、藤丸立香です。服のテーマは不思議の国のアリスで、』
『とっても似合ってます! 先輩!』
『食い気味食い気味、……というかお前達同学年じゃなかったか?』
会場に笑いが零れ、贔屓は良くないぞ~と誰かが叫ぶ。
『あはは、ありがとうマシュ。えーと、普段は陸上部に所属してます。趣味、趣味は強いて言うと旅行ですかね? 色々な景色を見るのが好きです。え? 優勝への意気込み? いやぁ、……自信ないです。その理由はこの後を見て貰えれば分かるかと』
ふっと顔に影が射した立香に会場一同は首を傾げるが時間も押していた為、それではと次の候補者の名が呼ばれた。
『エントリー№6、オベロン・ヴォーティガンさん!』
気怠げにオベロンが壇上に登ると、一瞬の静寂が会場を支配し――。次の瞬間、学園のの中で最も大きな歓声が上がった。

『改めまして、投票方法の確認になります。各位、この後配られる投票紙に候補者の№を記入し、出口三方向に設置された投票ボックスに投函ください』
『不正を防ぐ為、投票紙はひとり一枚。無くされた場合、再発行は行いません。手に特殊なインクのスタンプを押しますので、万が一、不正が発覚した場合、我が校自慢のマッチョ部と稽古(スパルタ式)をして頂きます』
『ここまで説明しているのに、毎年不正が出るのは何でなんだろうな』
『コアなファンがいらっしゃるのでしょうね』
『物好きな』
『それでは皆様。沢山の投票、お待ちしております!!』
マシュの締めの言葉とともに会場では大きな拍手。それらを背に、登壇者はゆっくりと階段を下りていく。
「あ゛~。だっるっ」
オベロンが肩を鳴らしながら大股で歩く後ろで、立香は不満げに口を尖らせた。
「いいじゃん、そんだけ綺麗なんだから」
「……なんか、変なんだよなぁ」
「う、うえ、そっんなことないよォ?」
思わず出てしまった妬ましさが伝わってしまったのかと立香は慌てて首を振った。しかし、オベロンはじっと立香を見つめ、――やっぱり変だと口にする。
「なんかさ、いつもより背が低くない?」
「!」
「それに、声も。ちょっとだけど高い気がする」
(ど、どうして。――誰も気づかなかったのに)
誤魔化さなければと思うのに、立香の唇は震えるばかりで意味を成さない。
「……ねぇ」
(気づかないで/気づいて)
絶望と希望に染まる立香の視界に、見慣れた姿が映り込む。立香の口が漸く「あ」と音を成した。それに釣られるかのようにオベロンが後ろを振り向き、――。
「げええっ!」
「ふはははっ、まるで蛙が潰れたような音ではないか! 愉快、愉快!」
「やほー。会いに来たよ、立香」
オベロンの後ろに立っていたのは、金髪紅瞳の美丈夫とクラスで栗色の女性だった。二人が並ぶとまるで凸凹なのだが、不思議と違和感なくしっくりとくる。そんな二人組だった。
お姉ちゃん・・・・・!」
その言葉にオベロンがばっと立香を振り返った。一瞬の後、もう一度正面を向く。その動きを二回ほど繰り返した。
「あ、えと、紹介するね。私のお姉ちゃんとお兄ちゃん」
「『お兄ちゃん・・・・・』!?」
「え、う、うん。正確には義理のお兄さんだけど」
ぐしゃあっ――、オベロンの膝が地面に崩れ落ちた。
「ええええー! ど、どうしたの!?」
「立香よ、蟲のことなど放っておけ。それよりも我が尊顔に拝謁出来たことを喜ぶがいい」
「久しぶりに会えて嬉しいってさ」
通訳か何かか?と思いながら、立香は顔をほころばせた。
「虫って、あんまりな。うん、でも、本当に久しぶり」
会えて嬉しいなと喜ぶ立香の頭を乱暴にギルガメッシュが撫で回す。その反動で立香の黒いカチューシャがずり落ちた。それを仕方無いなと栗毛の女性が拾い上げ、持ち上げたカチューシャを自らの頭に差し込む。え、なんで差した?と衝撃を受けるオベロンを余所に彼女は言った。
「私は岸波白野。立香の姉です。こっちは私の婚約者、ギルガメッシュ。こんなんだが、一応大きな会社の社長だ」
「一応とはなんだ、一応とは。我がウルクコーポレーションは世界ランキング一位の企業! 敬えよ雑種!」
「一位はまだなってないってば。予定だろ、よ・て・い」
「笑止! 我が経営して一位にならぬなぞありえん。近い未来に確定した事項であれば、それはもはや現実というものよ」
フハハハと再び哄笑がオベロンの耳を打つ。頭がトンカチで殴られたのではないかと思うほど痛い。痛いが、事実を確認せねばならないという強い使命感で彼は立ち上がった。
「そこの金色の存在は置いておいて。その、貴方が立香の姉というのは? 失礼ですが、名字が違うような」
ああ、と事もなげに白野と名乗った女性は頷いた。そして、私は養子なんだと返す。不味いことを聞いたと思ったオベロンだが、立香も白野も大して動揺もせず、そうそうと頷くので肩の力を抜いた。
「私と立香は確かに血が繋がっているんだが、叔母夫婦に子供が出来なくてな。私が幼い頃にそちらの家の養子になったんだ。なので、戸籍上は従姉妹になるな」
だから名字が違うのかとオベロンは得心する。と、じろじろと値踏みする視線を感じて顔をずらすと、ギルガメッシュがオベロンを頭から足先まで、顎に手を当てながら見下ろしていた。
「何?」
自分がけったいな格好をしている自覚はあったので、オベロンは身構えつつ問う。ふむとギルガメッシュは至極真面目な顔をして。
「造形については俺の目にも適う物であるが。意外であったな、お前にそのような趣味嗜好があったとは。ま、俺の好みには遠く及ばんがな」
「だっれがっ、そんな特殊性癖持つかよ、気持ち悪いっ! 第一、男なんて死んでもゴメンだ!!」
(――あ)
ズキンッ、と心臓が痛む。ズキンズキン、痛みは酷くなっていく。咄嗟に服の上から胸を押さえた立香はそこにある膨らみに涙が零れそうになった。
「……、立香。渡したいものがあるんだ、ちょっといいかな」
「――うん」

じゃれ合う――一方的にオベロンがおちょくられているだけ――二人を置いて、白野と立香は少し離れた場所にある木の下、人目を避けるように連れ立った。
「これ」
赤い水筒が立香に差し出される。その中身について、察した立香は「ありがとう」とぎこちなく笑った。昔から立香の秘密を知るものは、持ち物に水を入れた水筒を持ち歩く癖がある。いつ何時彼女が水を被ってしまってもいいように――だ。
「それから、……何か悩んでる?」
「――お姉ちゃんには隠せないなぁ」
昔からおっとりというかマイペースに見られがちな彼女だが、実はギルガメッシュと同じくらい大胆で人を見る目に長けた人物なのだと妹の立香は知っている。預けられた水筒を手遊びながら立香は重い口を開いた。
「あのね、……、何時まで男の子じゃないといけないのかなぁ?」
「――何時まで、とは聞いていないな」
だよね、と立香は動かしていた両手を止める。人生の半分以上を男の姿で過ごしてきた。物心ついた頃にこうだったので、苦に思ったことなどない。むしろ女の姿の方が煩わしいと感じることが多かった程だ。だというのに、近頃の自分は女の子に戻りたがっていると立香は気づいていた。その理由についても、彼女は気づいていた。ポロリと彼女の瞳から大きな一粒が落ちる。
「嫌われたら、どうしよう」
気持ち悪いって言われちゃうのかなと頭を垂れる立香に白野は立香に言葉をかけようとしたが、血相を変えてこちらに駆け寄ってくる黒髪の少年に微笑みを浮かべる。遠く見守る赤い瞳に頷いて、かけようとした言葉とは違うものを声に出した。
「それは、本人に聞いてみたらどうだ」
え、と顔を上げた立香の肩を誰かが掴む。有無を言わさず、振り向かされた立香の瞳に怒りに燃える青い瞳が映った。
「何で泣いてるの」
「……」
「黙ってたら分からないよ」
言い淀んでるわけではなく、驚きすぎて声が出せなかっただけなのだが、オベロンは鋭い視線を白野に投げかける。
「何を言ったの」
「私は何も」
「じゃあ、なんで立香は泣いてるんだよ!」
その剣幕に立香は咄嗟にオベロンの腕を引く。その動きに反応してチラリと立香の方を見るものの、オベロンの糾弾する瞳は再び白野へと向かった。白野もまたしっかりとオベロンを見つめ返し、切り込んだ。
「嫌われたくない、そうだ」
「お姉ちゃん!」
悲鳴じみた立香の声に困ったように笑いながら、白野は言葉を続ける。
「その子はね、君に嫌われたくないと」
ぎゅっとオベロンの腕を握る立香の手が強くなる。
「状況が読めないけど、言えることがひとつ」
うんと白野が頷く。それにオベロンは、はっきりと答えた。まるで世界中に宣言するように。
「俺が立香を嫌うことなんてないよ」

『君のそういうところ――』

(嘘つき。嫌いって言ったじゃ無い)

それは何時のことだったのだろう。遠い遠い昔のような、あるいは、昨日のことのような。けれど、確かに以前、彼に嫌いと言われたことだけは確かだと立香は確認した。
あれからなんとか場を誤魔化して、立香とオベロンは会場に戻った。オベロンがしつこく理由を尋ねてきたが、あんまりしつこいと嫌われるぞと白野に言われてからは、むっすりと口を閉じている。これは家に帰ってからが大変そうだと苦笑しながら、立香は発表結果を聞くため、壇上に上がる。中点にあった太陽は随分と西に傾いた。そして、燃え尽き草臥れた姿の同級生や上級生の姿があちらこちらに。たった一日の、祭りが終わろうとしている。

『それでは! 結果発表です!! 第三位から……』
最初あれほど緊張したステージも何故か今は実感が薄い。数多の視線に晒されながら立香はぼんやりと観衆を見下ろした。隣のオベロンがやはり何かを言いたげにこちらを見ている。それに苦笑を返して、続くマシュの言葉を待った。
『そして、二位! これは一位と大変僅差でした。私としては大変遺憾ですと申し上げざると得ませんが、発表したいと思います。第二位! ……エントリー№5、藤丸立香さん!』
歓声が耳を打つ。彼女の名を呼ぶ人に、手を振り替えした。まるで、舞台に立った役者のようだと立香は思う。
(役者……、何だっけ)
これまでに演劇に興味を持ったことはない。けれど、何かが引っかかる。あと少し。あと少しで何かが思い出せそうなのに。その最後の一歩が踏み込めない。立香の苦悩は観客の歓声に呑み込まれる。
『第一位は! エントリー№6、オベロン・ヴォーティガンさんですっ!!!』
隣を見れば、やれやれと腰に手を当ててオベロンがため息を吐いているところだった。黒い影が重なる。彼と同じだけど、違う姿。
(あれは……)
思考の淵を覗き込む立香の前に核爆弾が来た。
「その勝負、異議ありーーー!」
「「!?」」
「優勝は立香様に決まってます! ええい、このすっとこどっこい! 白状なさい! どんな汚い手を使ったのですかっ!」
『乱入! 乱入です! いけません、清姫さん! 玉藻さん!』
『これは厳正なる投票による結果だ。関係者以外は壇上から速やかに降りるように』
またかと肩を落とす立香とオベロン。口答指示に従わない清姫にカドックが痺れを切らして実力行使に出ようとするのを察知した、|恋に恋するハリケーン娘《清姫》は真っ直ぐ立夏に向かって特攻する。
「なんて可哀想な立香さま! 私が慰めてさしあげますわー♡」
「ちょっとォ! 清姫さんっ!? 抜け駆けはゆるさねぇでございます!」
まさかの追加発射。そうなると自然の理として。
「あ、その、わた、私もーー!」
「え、姫も行く感じ? そうなの? 違うの? これってどういう状況!?」
豆鉄砲と魚雷も発射した。後はもう誘爆からの大爆発。咄嗟に四人の前にオベロンが飛び出るが、ドミノの如く。押し出された立香はステージを踏み超えて、会場から上がる悲鳴が酷く他人事のように耳に届いた。
(あ、――)
「立香っ!」
オベロンが驚いた顔で手を伸ばすが、一歩遠く届かない。来る衝撃に立香は両目をつぶり、――ふわり――、それは懐かしい滞空感だった。
「先輩! お怪我はありませんか!?」
「……マシュ」
紫電の瞳が立香の琥珀の瞳を見つめている。
「あ」
その瞳の彩を、その魂の輝きを、立香は知っていた。
『マシュ・キリエライト。貴方の英霊です』『手を、握ってもらって、いいですか?』『私が見ている世界は、今、ここにあるのです』『真名、投影保管──これは多くの路、多くの夢を過ぎた遠望の城——』『いまは遥か理想の城ロード・キャメロット!』
ずっとずっと、遙か昔に。過去と現在と未来を共に駆けた運命共同体。
「立香っ!!」
膨大な記憶が脳を揺さぶって意識がはっきりしない立香の耳に届く切羽詰まった声。少女がステージを見上げると、真っ先に目に入ったのは黒い髪と青い瞳。

(約束――、守ってくれたんだね)
立香の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。