黒の章

『貴方の色、好き。だって、夜の空の色だもん』
『……僕も好きだよ。まるでお日様みたいだ』
幼い頃の夢を見ている。まだ残酷な現実を知らなかった頃の――。

「ねぇ、ティ。ティったら! ……もう! ヴォーティガーン!」
地面に寝転んで一向に返事をしない青年の右隣、一人の少女が大声を張り上げている。ヴォーティガーンと呼ばれた青年は、右の瞳だけ開いて彼女の姿を視認する。漆黒の髪の青年と緋色の髪の少女。二人は所謂、幼なじみというやつで、ずっと昔にこの湖で会って以来、ここが二人の遊び場であり、待ち合わせの場所だった。それは青年が周囲に対して心を閉ざした後もずっと変わらない。
腰に手を当てて見下ろす少女の胸には太陽の色が輝いている。その光を眩しそうに見やりながら、彼は体を起こした。
「何だよ、立香。式典はもう終わっただろ?」
「そうだよ! 式典で珍しくティがおめかししたから、絶対その格好でお出かけしようと思ってたのに、さっさと何処かに行っちゃって……。もう、探したんだからね!」
頭から湯気でも出るのでは無いかという怒り具合に、彼は嘆息する。
「俺なんかが何時までも祝いの席に居たら、場を暗くするだけだ」
「……」
酷く陰気な言葉に立香が黙り込む。ハの字になった彼女の眉を見上げて、彼は自分の隣の地面をぽんぽんと叩いた。立香は俯きながら、示された場所に座り込む。真珠のように白く小さな彼女の手。彼は、痩せた、彼女よりひと回り大きな手を重ねる。
「きみが気に病む事なんて無い」
「だけど、……」
――、また彼女を悲しませてしまったと彼は陰気に塞ぎ込む。昔はもっと無邪気に二人で遊んでいられた。でも、……もう今はそんな風には出来ない。全ては、彼が生まれた時から定められた色の為。無意識に青年は自分の胸元に手を宛がう。そこには、全ての光を呑み込むかのような漆黒。病的に白い彼の肌が更にその色を際立たせ、異彩を放っている。それは、彼にとって|呪《・》|い《・》そのものだった。

名も無きこの国は、周辺諸国から宝石の国と呼ばれている。国の規模としては決して大きくは無いが、一年を通して大地の実りに恵まれ、飢えることが無い。また、鉱山も多く様々な宝石を産出しており、同規模の諸外国に比べ大変栄えていた。――それだけではない。この国には他国と決定的に異なる点があった。建国より以来、この国には胸元に宝珠を携えて生まれてくる者がいる。彼らは『輝珠のひと』と呼ばれ、国の中で高い地位を約束されていた。彼らの家名はその宝珠の色で決まる。ダイヤモンドを有する白の一族。サファイアを有する青の一族。ルビーを有する赤の一族。エメラルドを有する緑の一族。トパーズを有する黄の一族。タンザナイトを有する紫の一族。そして、ヘリオライト、別名、サンストーンを有する緋の一族。立香は緋の一族の娘だった。
この国の政治は全て輝珠の一族によって執り行われる。特に白青赤緑はプレシャスと呼ばれ、強い発言力を持つ。その中でも、白は他国で言うところの王族に近く、プレシャスのリーダー的役割を果たしている。ヴォーティガーンは白の一族だった。けれど、彼が生まれ持ったのはブラックダイヤモンド。人は彼の色を不吉な色と良い、心無い人は彼を捨て石と呼んだ。幼い彼がどれほど傷つけられ泣いたことか。時には熱を出して苦しんだ幼なじみ。――立香はこの国決まりが大嫌いだった。
今日行われた式典、それは白の一族、ハクノ王女の結婚式。国を挙げての一大祝辞だった。彼女の従兄弟にあたるヴォーティガーンも当然列席した。けれど、その席は彼の双子の兄、オベロンの後ろという屈辱的な配置だった。他の参列者が横一列に並ぶ中、彼だけがひっそりと後ろに座す。その光景を立香は決して忘れないだろう。

「それより良かったのか? 立香お前、オベロンの茶会に誘われていただろう?」
オベロン。ヴォーティガーンの双子の兄である彼は非常に優秀で、また、透明度の高いダイヤモンドを胸に戴き、この国の未来を担うと言われている。その彼が開くお茶会に誘われることは、この国の貴人にとって一種のステータスだった。
「いいの。私、あんまり格式高いの好きじゃ無いし。原っぱでピクニックしてるくらいで丁度良いよ」
知ってるでしょ?と立香が無理に笑って茶化すので、ヴォーティガーンは苦笑を零した。プレシャスではないが、貴族の令嬢であるはずの彼女が非常に元気でお転婆なことはよくよく知っている。二人で森に探検に出て迷子になったことも一度や二度では無い。
「……うんうん、そうだよ。お洒落してお買い物なんて私には無謀だった! ねえ、アルトリアと村正も挨拶が終わったら合流しようって言ってるの。今日はマーケットに行ってみない?」
様々なものが並ぶ市場。諸外国からの輸入品も多い。ヴォーティガーンは読書家で珍しい外国の本が好きだった。なぜ彼が外国の本を好むのか。(この国でなければ……もっと違う人生だったのだろうか)と想い耽らずにはいられない。その理由を察する立香はいつも寂しげで、だけど、それでも彼が楽しめるなら何でも良いと笑ってくれる彼女。この緋色にヴォーティガーンはずっと救われていた。自分の両親に「私たちの子供は一人だけ」と言い捨てられたあの遠い日からずっと――。

「あーもう! 挨拶って何であんなに長いの!?」
青の少女、アルトリアががっくりと肩と頭を落としながら、不満を口にする。その隣で、村正が肩をぐるぐる回して力の入った体を解しているが、疲労の色が隠せない。
「まあ、二人は青と赤だからなぁ」
「ご愁傷様」
立香とヴォーティガーンの言葉に、アルトリアがきっと|眦《まなじり》をあげる。
「立香! ヴォーティ! 二人とも同じ輝珠の癖に、さっさと会場から消えてーーー!」
「「黒/緋だから」」
ムキーっ!と|噴煙《ふんえん》を上げるアルトリアの頭を村正がどうどうと押さえる。
「ここで時間を無駄にするんじゃねーよ。また夜になったら俺たちは堅苦しいパーティだぞ。今のうちに気張らししておかねーと、持たねぇ……」
「ぐっ、村正の言う通りです。……後でジュース奢ってくださいね!」
びしっと人差し指を突きつけてくる少女をヴォーティーガンと立香は、ハイハイと慰めた。では早速と四人は活気溢れる市場を練り歩く。色鮮やかな野菜や果物。見慣れない楽器や用途不明な金属機。所々に食べ物やジュースを売る露天が建ち並び、客引きに声を張り上げていた。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 朝採れたばかりの果物を使ってるよー。栄養満点! 美味しいジュースはいかが~?」
「そこの美人さん! そうそう、奥さんだよ! 良い魚が入っているよぉ。見るだけでもいいから寄っててくれ!」
「肉もチーズもたっぷり!! うちのバーガーが一番うまい! 食べなきゃ大損だ! さあさあ買った買った!」
ヴォーティガーンは騒々しいなと眉を顰めながらも口元を綻ばせた。ヒソヒソと己を噂する王宮よりもずっと息がしやすい。活気溢れるこの市井の騒がしさが、彼は好きだった。ふと彼が隣を見ると、アルトリアと村正の手には様々な食べ物や飲み物が握られていた。
(いつの間に――)
大口を開けて、村正が肉がたっぷり挟まったバーガーに齧り付く。
「うめぇ!」
滴る肉汁と香りに、私も私も!とアルトリアが村正の腕を引く。仕方ねーな、ほらよと村正がバーガーを彼女に差し出した。嬉しそうにパンを頬張るアルトリア。とても貴人には見えない。身体的な特徴は胸元の宝珠のみの為、こうしてお忍びの服に身を包めば二人はすっかり市井の人だった。『青のアイリス』『赤のグロリオサ』と形容される王城の二人とのギャップにヴォーティガーンは笑いを噛み殺した。印象詐欺にも程がある。
「わ、このジュースめちゃくちゃ甘い!」
二人に悪い遊びを教えた張本人、立香が果物の甘みに舌鼓を打つ。その背後の露天で、気の強そうな女性がそうだろうと嬉しそうに笑った。どうやらその店で買ったものらしい。
「この国で育ったんだから当たり前さ! この国には『輝く方々』が居られるからね。大地の恵みをどの国よりもたっくさん受けられるんだ。有り難いことだよ」
「「……」」「あー、……あはは、そうですね!」「おう」
輝珠――、彼らがこの国の貴人である理由は何もその容姿だけでは無い。彼らは大地の恵みから生まれたとされ、実際に彼らの居る場所では作物の実りが良い。これは輝珠のものだからこそ分かる感覚なのだが、彼らは大地からの大きな流れを感じ取る。時折、淀みのような流れがあり、輝珠のもの達はそれらを濾過する力があった。濾過された大地の力は滞りなく作物へと流れていく。大地の力を余すこと無く受け取った農作物は、芳醇に実り、この国の豊かさとなる。そう、……特別な力あってこその輝珠の地位だった。

「今日は白の王女様の結婚式だからね。とびきり良いやつを出してるよ」
ぽんぽんと手元の大きな果物を叩きながら、女性はニッカリと笑う。全くだと隣で彼女の夫であろう男性が荷を荷車から運びながら会話に加わった。
「随分前に暗い話があったばかりだからなぁ。めでたいめでたい!」
立香達はますます黙り込んだ。そんな四人に気づくこと無く、周囲の露天の人々が口勝手に話し出す。
「まさか白のお方が二人も亡くなるなんてなぁ」「王宮は上に下にの大騒ぎだったらしいぜ」「流行病って話しだけど、どうだかねぇ。だって、大地の加護のある方々だろう? 病気の話しなんて聞いたこと無いよ」「それそれ! 私も気になってたのよぅ」
青ざめたヴォーティガーンの袖を立香が引っ張った。
「行こう」
彼女に引かれながら、ヴォーティガーンは下を向いて歩いて行く。その横顔は暗い。
無くなった白の一族の二人、――それは彼の両親だった。

『ああ! なんてことなの……、私たちの子供が次期王となるはずだったのに』
『しっ、静かに。誰かに聞かれたらどうする。あの男はとんでもなく優秀だと聞くぞ。どこから漏れるか分かったものじゃ無い』
でも貴方、と妙齢の女性は、酷く狼狽した様子で自分の夫に詰め寄った。
『我が家には娘はいないのよ! きっとあちらの家の娘が選ばれるわ。そうしたら、私たちは……』
『分かっている、分かっている! まさか、こんなことになるなんて。どうして、私たちの代で|幻《・》|想《・》が――』
オベロンとヴォーティガーンは城から帰った両親の大声に思わず、二人がいる大広間に顔を出した。出してしまった――。両親が開かれた扉を振り向く。
『お前の所為だわ』
母は血走った目でヴォーティーガンを見た。ぎくりと彼は身をこわばらせる。両親が正面から彼の存在を見てくれたのは、この時が初めてと言っても良かった。物心が付いた頃には――、いや、きっと生まれた時から見向きもされなかった。時々視線が合えば、嫌そうに逸らす彼らが、初めて自分を見てくれた。……幼き頃より焦がれたものはこんなにも冷たい。
『……止めろ。そんなものに構っている状況じゃ無い。オベロン、今から王城に参上する。支度をしなさい。せめて、あの男の覚えめでたくならねば』
『いいえ! いいえ! これです! これが! 不幸を招いたのよ!!』
ヴォーティガーンは伸ばされた手をぼんやりと見る。父が母の後ろで嘆息している。もはや視線はこちらにない。オベロン、ともう一度彼は兄の名を呼んだ。狂気に飲まれた妻が息子に害をなそうとしているのに、彼は歯牙にもかけなかった。
『……ティ!』
兄が珍しく昔の名で彼を呼んだ。どこか切羽詰まったようなその声音が可笑しくて、ヴォーティガーンは小さく笑う。ああ、これで終わりか。そう思った。

カラン――、と乾いた音。ヴォーティガーンは目の間に落ちた白い塊を凝視した。

『オ、オベロン……お前……』
父が呆然と呟く。右手を挙げ荒い息を吐く兄。彼がその震える手を父に向けた。
『待て。……待ってくれ。オベロン。私たちはお前を愛してきた。愛してきたんだ! これほどまでに愛してきたというのに!』
閃光が父を包んだ。音が鳴る――。

ヴォーティガーンはこの広間で起きた出来事を初めから最後まで眺めることしか出来なかった。この家に生まれて落ちて十数年、彼を苛んだ両親は一夜で居なくなってしまった。――涙は出なかった。

その後の彼の記憶は朧気だ。あの後、大事に気づいた執事が大慌てて誰かを呼び、内々で処理をしたらしい。息子殺しをしようとした、という醜聞を隠す為、流行病で亡くなった事にすると他ならぬ兄から聞かされた時のことは、流石にはっきりと覚えている。怒ればいいのか、悲しめばいいのか……。結局言葉に窮して頷いただけだった。殺されかけたことも、両親が居なくなったことも、兄が両親をルース・・・したことも、全部意味が分からない。それでもたったひとつ、彼に分かったのは――兄が、自分を守ったということ。

「私たち輝珠は病で死ぬことはありません。大地の守護者として生まれ落ちた以上、その役割を全うするまで生き続けます。けれど、私たちが自然に帰る以外に終わりを迎える方法があります。それが『ルース』です。大地の淀みを濾過する私たちの力を同族に向ける。向けるものが向けられた者より力の強い輝珠だった場合、私たちは原石化ルースします」

輝珠は死ぬと胸元の宝珠だけを残して後は大地に帰る。王宮の奥、宝石箱と呼ばれる場所に多くの同胞が眠っている。輝珠から生み出された宝珠は大地より産出されたものより遙かに大きく美しい。遠い昔、この宝珠を狙って幾度無く周辺諸国と争ったという話しが王宮の歴史書には残っている。故に、輝珠の者達の死後については秘匿され、市井の人々には公開されない。そこまでは立香も知っていた。だが、『ルース』については初めて聞く事実だった。アルトリアと村正から事の顛末を聞き、立香は息を飲む。しばしの沈黙の後、唇を震わせながら「……ティは?」と尋ねた。
「酷くショックを受けちまってる。無理もねぇ、両親が目の前で消えたんだ」
「いえ、彼らはヴォーティには関心が無かったので、……彼もそれを承知の上でした。ショックはショックだったと思いますけど。それよりも、『ルース』をしたのがオベロンだったことが彼には――」
「オベロンは、……どうなるの」
立香の問いに村正が腕を組んで、難しい顔をした。何度か息を大きく吸い込んで、自分自身、冷静さを保とうという仕草が見えた。
「何も無い。お咎め無しだ」
え!と立香は驚きの声を上げる。アルトリアも眉を顰めて、頷いた。
「そうです。白の一族は、彼の正当防衛だったと主張しました」
弟を守ろうした兄。我が子を殺そうとした両親。どちらが正義か。どちらが自分たちにとって都合が良い・・・・・か。白の一族はオベロンが自発的に両親をルースしたという事実を隠匿し、他の一族に報告。別色の者の中には訝しむ者もいたそうだが、若く優秀なオベロンを擁護する意見に傾いた。日頃から周りと交流が多く、誰にも友好的で明るい青年――それが周囲の認識するオベロンだった。彼がそのようなことをするとは思えぬ、余程止むに止まれぬ事態だったのだと同情の空気すらあったという。事を訝しんだアルトリアと村正は、一族の次期当主という地位を利用し、ヴォーティーガンへの面会を通した。新たな当主となったオベロンもそれを制さず。二人は、事のあらましをヴォーティーガンから聞き出したのだった。

三人の会話から数週間。立香がヴォーティガーンに会えたのは随分と時間がたった頃。何時もの湖。元々痩せてはいたが、久しぶりに会った幼馴染みは更に病的な細さになっていた。
「ご飯、ちゃんと食べて無いの?」
立香が震える手を彼の頬に伸ばす。縋るように彼がその手に頬を寄せ、握った。
「食べる気が起きない、……気持ち悪くて吐きそうになる」
「……貴方の体が心配なの。難しいと思うけど、どうか少しでも栄養のあるものを食べて。――お願いよ、ティ」
胸元に寄り添った少女を抱きしめながら、ヴォーティーガンは目を伏せて独白する。
「父上も母上も、兄であるはずのオベロンも俺にとっては遠い誰かだった。あいつはさ、何もかも俺とは正反対。何でも出来て、誰からも愛される。同じなのは顔だけ。昔はどうしてあいつだけって思ってた。でも、段々と仕方ないって分かって。……分からされて。俺が黒だから、仕方無いんだって思ってた。本当は、――本当は、ずっと心の何処かであいつが憎かったのかもしれない。でも、こんなことになって、……。もう憎むことすら出来ない」
どうして助けたんだ。二人のように見捨ててくれたなら、こんな思いをせずにすんだのに。思っていたというなら、どうして今なんだ。どうして今まで助けてくれなかったんだ。そんな素振り何処にも無かったのに。……黒じゃ無ければ。俺が黒じゃ無ければ。どうして白じゃないんだ。どうして俺は生まれたんだ――。
滔々と胸の内を語りながらも涙を零さない彼が悲しくて切なくて、立香はきつく彼の体を抱きしめた。白は泣かない・・・・・・。どうしてかは誰も知らないが、白は泣かない。泣けないのだ。けれど、立香は知っている。誰よりも彼は泣き虫だ。涙が流れなくても、彼が泣いていることが立香には分かる。自分は彼が生まれてくれて、立香は彼が自分と出会ってくれて、良かったと思っている。そう、彼に言う事は簡単だ。でも、こんなに生まれた事を苦しんでいる人に独りよがりな想いを伝えて満足するなんてことはしたくなかった。どうしたら、いいのか。自分に何が出来るのか立香は考える。そうして、たったひとつ。心当たりに気づく。意を決して、彼女はヴォーティガーンの胸の中で囁いた。
「ねえ……、元気になるおまじない、する?」
「! い、いや、それはまずいだろ。おまじないは子供の頃によく分かって無くてやってたから。今はちょっと、その、色々と……」
上擦った声でヴォーティガーンが否定の言葉を出す。けれど、どこか期待めいたものを立香は感じ取った。自分なんてと自虐的になっていた彼の顔に生気が宿る。
「わ、私だって、そうホイホイして良いことじゃないって分かってるから! でも、でも、ティが元気になるって、昔そう言ってくれたから。私に出来ることなんて、これ位しか無いから……」
今なら、此処なら、誰も見ていないから……。そう囁く立香に彼が勝てるはずも無かった。
「分かったよ……。ほんと、昔からこうと決めたら止まらないんだからな、きみは」
やれやれと彼が笑うので、立香はほっと安堵の息を吐いた。しかし、彼が彼女の胸元で繊細に編まれたリボンに手を伸ばすと再び身を固くする。しゅるり。ゆっくりとリボンが引っ張られ、彼女の胸元が露わになっていく。輝く太陽、緋色の宝珠が日の光に煌めいた。ドキドキと二人の心音は体の外まで飛び出ていきそうだった。
「じゃあ……」
一言呟いて、彼が彼女の胸元の宝珠に口を寄せる。柔らかい彼の唇がそっと緋色に口づけた。
「んっ」
輝珠にとって宝珠は心臓も同じだった。あらゆる力の象徴。その場所は体のどの部位よりも尊いとされ、家族ですらおいそれと触れて良い場所では無い。触れることが許されるのは、親しい男女、一般的には睦事と同類の扱いだ。幼い頃はそれが分かって居らず、しょっちゅうお互いの宝珠に触れていたが、アルトリアと村正に悲鳴を上げられてから、世間的にどういう意味を持つのか知って――以降、おまじないは封印した。
ちゅっちゅっとヴォーティガーンの唇が数度、立香の宝珠に触れる。その度に立香はその身を震わせた。大人になって、久しぶりに触れられるそれは、どうしようもなく恥ずかしくて、気持ち良かった。はぁと艶やかな息がヴォーティガーンの前髪をくすぐる。つられるように彼は顔を上げた。
「立香」
青と黄金の瞳が合わさって、溶けていく。口付けて欲しいと立香は思った。唇だけじゃなくて、彼女の何もかもを彼に奪って欲しかった。彼にも同じ想いがあると確信している。けれど、でも、――。彼はその顔を横に逸らして彼女を抱きしめただけだった。
「ごめん、――もう十分だ」
「……うん」

何時か立香は他の貴族の元に嫁ぐ。近しい色同士で婚姻するのがこの国の習わしだからだ。恐らく、黄か赤か。緋の可能性もあるが、同年代の異性がいるのは前者。黒であるヴォーティガーン、彼はきっと誰とも婚姻を許されない。……二人は結ばれない。分かっていた。彼と二人、外の国逃げられたらなんて夢見た事もある。それを彼に提案した事すらある。彼は悲しそうに首を振った。輝珠のものが他国でどのような扱いを受けるか。賢い彼はよくよく理解していた。きっと立香と同じように考え、調べたのだ。沢山本を読んで、多くの事を学び、その上でなお、外に逃げるなんて愚かさ/勇気はヴォーティガーンには無かった。
その賢さ/諦観を、彼は後悔する。一番大事なものを失ったその時に――。