実装一周年記念(2022年夏イベント)

「さあさあ、マスターは早く寝な。明日も大変だからな」
その鍛え抜かれた肉体を惜しげも無くさらしながら、燕青は疲労の色浮かぶ立香の背を押して、船底の宿泊ルームへと誘う。なんだかこのまま寝るには惜しい気がして、立香が押された背中越しに後ろを振りかえれば、みな、酷く優し気な顔で彼女を見送っていた。
『先輩、おつかれさまです』
マシュにまでそう言われてしまえば、これ以上抵抗する気にはなれず、立香は「おやすみなさい」と言って、階段を降りて行った。カンカンカンという靴音が響いて――、やがて聞こえなくなる。
ふーい、と燕青はかいてもいない汗を拭う仕草をした。気分は大事だ・・・・・。こういった細かな『人らしい』仕草が、マスターには必要なのだとカルデアに呼ばれた者たちは知っている。……英霊は本来、睡眠も食事も必要ない。その在り方に従って行動する方がきっと効率的だろう。けれど、それは、人間であるマスターの目にどう映るだろうか。異形のもの。超越したもの。人外のものに囲まれて、ただ一人『人間である』、というのはぞっとしない。その上、真面目で責任感の強い彼女は、誰かが働いている時に呑気に休んでいられるような気質ではない。誰よりも真っ先に行動し続けて、食事や睡眠を疎かにしがちなのだ。――そんな健気な少女なのだ。だから、燕青たちは疲れていなくても疲れたと言い椅子に座る、眠気など訪れていなくてもお休みと言い体を横たえる、腹が減って死にそうだと言い旨そうに食事にありつく。それらを見て、マスターである少女はようやっと「私もお腹すいてぺこぺこ!」と笑って言えるようになるのだ。
「頼むぜ、旦那。今日ばかりは大人しくしててくれ」と燕青がジロリと道満をねめつける。
「ンンン! これはなんとも無情なるお言葉。
拙僧、お疲れのマスターにせめて穏やかな夢路のお供をと、そう――、思慮しただけでございまするが」
指に挟んだ呪符を悪戯に弄びながら歪んだ笑みで嗤う巨躯の男を、燕青は右眉だけ跳ね上げた表情で笑い返した。
「ははは。生憎と今日のお供は既に決まってるのさ。……マスター、あんたの夢の番人が首を長くして待ってるぜ」

宛がわれた室内に入ると恐らくホテルのスイートルームとはこんな感じなのではないかという庶民の感想を、立香はほわー!という歓声と共に漏らした。
「ベット広い! 足元のクッションもふかふかだー!」
飛び跳ねるようにして室内のあちらこちらを見て回る彼女。ひとしきり見終わったら、恐る恐るバスルームを覗く。
「うっわ」とあまりにも色気のないおっかなびっくりの悲鳴がでた。
大きなバスタブに磨かれた大理石。金銀のジャグジーに一目で高級と分かるアメニティの数々。ごくりと知らず唾を飲み込んだ立香だった。
「これ、使っちゃっていいの? ……いいんだ。良いんだ!」
ひゃっほーと淑女に有るまじき振る舞いであっという間に着ていた服を脱ぎ捨てる。キュッと蛇口を捻れば、少しだけ冷たい水が出た後、温かなシャワーが汗ばんだ体を清めていく。気になっていたヘアケア用品を手に取ってみれば、あっという間にもこもこの泡と上品な花の薫りが充満した。頭から足先まで丹念に洗って、最後にじっくりと熱いお湯を体に染み渡らせる。すると、温められた体のせいか、心地よい疲労と眠気が立香の瞼の裏をノックし始めた。
(いかん。このままだと寝落ちする)
慌ててバスルームを退出し、寝る準備を整える。髪を丁寧に拭い、ドライヤーで乾かしていく。ドレッサーの前にはこれでもかと化粧品が並べられていて、正に至れり尽くせりといった風情。ひとつひとつ成分を検めながら、丁寧にそれらを塗っていけば、髪も肌もつやつやと輝いた。
「うわ、すご! これ、後で持って帰れないかな」
切実な乙女の独り言、失礼、乙女の願いを聞くものは残念ながらこの場には居なかったが、女性らしさを決して失ってはならないとカルデアの女性サーヴァントが常日頃彼女に説いてきた成果と言える。(余談だが、世界を賭けた戦いの前に女として譲れない戦いがある!として、レディとしての嗜みは必修かつ最優先課題《カリキュラム》になっている立香さんだった)
歯磨きを済ませて、ミネラルウォーターをしっかり飲んだら、後はもう寝るだけ。ふかふかのベットに身を沈めたが最後――、ぷっつりと立香の意識は途切れた。

暗い昏い海の上に、小舟が一艘。静かに糸を引くように進んでいく。その船の上に、立香は座っていた。空を仰いでも月は見えず。ちゃぷり、と水音だけが彼女の耳を打つ。どこへいくのかも分からない。この先に何があるのかも見えない。真っ暗な海。いや、そもそも海なのかという前提すら怪しい。冷たい水の中にたったひとり。しかし、立香は怯えるそぶりも無くぼんやりとその暗い世界を眺めた。
「いやいやいや、こう暗くちゃ景色に文句のひとつもつけようがないじゃないか」
つい先ほどまで一人きりの世界だったのに、気が付けば、立香の前には暗い色をした髪の青年がひとり。彼は長い脚を行儀悪く組んで、その上に肘と彼のシャープな顎を乗せてぼやく。
「もうちょっと何とかならなかったわけ? 今、きみがいるのはまがりにもテーマパークもどきの特異点だろう。せめて、花の一つでも浮かべたらどうだい?」
ぱちんと彼が指を鳴らせば、暗い水の上に明かりが灯った。ゆっくりと水面の上を飛ぶその幽無き光源。
「蛍?」
その質問には答えず、オベロンは無造作にその手を水面に突っ込んだ。ばちゃり、と水飛沫が上がる。そして、再び彼がその手を取り戻すとぽたぽたと水に濡れた一輪の花が握られていた。まるで、マジックショーのようだなと立香はぼんやりとそれを眺めた。白く、暗い世界の中に輝いて見える大輪の花。
「甘い香りがする」
立香は香りに誘われるようにその身を一歩前に乗り出した。
「Moon Flower。和名はヨルガオだったかな」
その花を差し出しながら、オベロンはくつりと意地悪く嗤う。
「花言葉は、悪夢さ」
うげぇ、と立香の顔が歪む。それを見て、ケラケラとオベロンは笑い声を暗い世界に響かせた。ひとしきり笑って、オベロンはぽいと花を投げ捨てた。慌てて、立香がそれをキャッチする。
「ちょっと」
「捨て置けばいいものを」
花に罪は無いよと立香はその白い花に顔を寄せた。すうと息を吸い込めば、甘く優しい香りが彼女の鼻腔を通り過ぎていく。良い匂いだなぁと思った立香だったが、「あれ?」と疑問の声をあげる。彼女の瞳から零れるようにぽろぽろと涙が零れていた。
「あれ? ……、なんで?」
別に悲しいことなど無い。何も無いのに涙が零れて止まらない。手の甲で目元を擦ろうと右手を上げた時、立香の濡れた瞳に真っ赤な印が飛び込んでくる。赤い、紅い、契約の印――。ぼろりとまた涙が零れた。壊れた人形のように涙だけを零す立香の頬に冷たい何かが触れた。
「オ、ベロン」
彼の冷たい指先が立香の頬、涙の後を追っていく。ぶわりと立香の涙が溢れた。ふぅふぅとひきつけ交じりの苦しい息が零れていく。立香は迷子の子供のように彼の指に縋った。
「お願い。最後まで、最期まで、傍に居て」
暗い昏い夜の海、どこへいくのか、何があるのか、果ての無い旅路。たったひとり、残された船でオールも無く漕いでいかなければならない立香。怖くはない。悲しくも無い。けれど、彼が灯した明かりがあんまりにも優しくて。差し出された花の香りがあんまりにも甘やかで。彼を苦しめていると分かっているのに、傍に居てほしいと願ってしまう。

オベロンは、握りしめられた手を振りほどくことも無く、泣きじゃくる立香をじっと見つめた。恐れも悲しみも忘れてしまった人の子。人間の振りをして、女の子の振りをして、救世主の振りをして、すっかり自分の名前を忘れてしまった子。あの黄昏の終わりから、季節はぐるっと一巡り。まさかこれ程長い間、彼女の仲間として働かされるとは思いもしなかった。これはこの先が思いやられるなと、先の見えない暗闇を見つめて、ため息を零す。どこまでいくのか、何があるのか、――。それでも、終わりのない物語は無い。須らくにエンディングが用意されているものだ。さて、彼女と言う物語の最後のページはどんな言葉で締めくくられるのか、大変心惹かれるテーマだなとオベロンは独り言ちる。言われずとも最期まで共にあると決めている彼は、殊更に非情に見えるように嗤いながら、彼女の顔に自分のそれを寄せた。
「いいとも。きみにとびっきりの悪夢をあげよう。――立香」

蛍の光より優しく、夜顔の香りより甘い口づけを。
今日という特別な日に。
全てが嘘で本当のことなど何もない僕からきみに。
誓いの言葉を贈ろう。