君は運命の人

月光のような柔らかなシルバーに湖面のような瞳。整った容姿は道行く人の視線を一身に浴びていた。やがて、人の視線が煩わしくなったのか、青年は休憩を辞めて歩き出そうとした。
「オベロン!」、と彼の名前が呼ばれる。
振り返って、見知らぬ少女に、彼は苦々しげな表情を浮かべた。
「あの、はぁ、あの、私。あの、覚えてる?」
走ってきたのか、緋色の髪の少女は息を切らしながら、縋るような視線を青年――オベロンに向けた。

にっこりと愛らしい笑顔を浮かべながら、彼は言った。
「ほんと、みーんな同じ事ばかり言うね。流行ってるのそれ?」
少女の瞳が丸く開かれる。ふるりとその奥が揺らめいた気がしたが、気にせず、オベロンは言葉を続ける。
「『何処かで会ったことがある気がするの。』『私たちって運命かも。』……馬鹿の一つ覚えかよ」
舞台役者よろしく、オベロンは大げさな身振り手振りでこれまでの女性とのやり取りを再現してみせた。

切らした息を飲み込んで、少女はささやいた。
「そっか。うん、そっか。……ごめんなさい。人違いだったみたいです」
がばりと彼女は頭を下げた。1秒2秒。しっかり頭を下げて、彼女を面を上げた。へにょりと力ない笑顔で彼女は、改めて謝った。
「とても知り合いに似ていて、確認もせずに声をかけてしまいました。不愉快な思いをさせてしまって、ごめんなさい。
……本当に、ごめんなさい。あの、私、これで。――さよなら」
あれとオベロンは内心驚いた。『さよなら』という言葉がやけに胸をつく。それに、きっぱりと告げられた彼女の言葉は、今まで何のかんのと繋がりを付けようとしてきた女性とは当然違っていて。これは本当に人違いかもと思ったが、いやいや名前まで知っておいてそれは無いだろうと直ぐにその可能性を否定した。そうして、気が付いた。なるほど、これは新たな手法だと嘲笑をこぼす。
(僕が引き留めるのを待っているって感じかな? 面白いじゃないか、そうまでするなら遊んでやろう)
オベロンは、さてなんと言えばドラマチックな展開になるかしら、と思案しながら彼女引き留めようとした。

「立香ちゃん! どこにいるの?」
オベロンが引き留めようとした手を伸ばす前、壮年の女性が周囲に響く声を出しながら、横道から小走りで出てくる。あ、と少女は声を上げて、手を振りながら女性に駆け寄る。
「おばさま、すみません! こちらにおります!」
「ああ、良かった。立香ちゃん、急に走り出すんだもの。びっくりしたわぁ」
「ごめんなさい。知り合いを見た気がして、……。あの、人違いでした」
「……。立香ちゃん、やっぱり不安かしら。いきなりお見合いなんて」
「え、あ、そ、そんな意味じゃなくて、あの私。」
「ううん、取り繕わなくていいのよ。いきなり大人の男性とお見合いなんて気が引けたのよね。でもね、立香ちゃん、私たち『みんな』貴方を心配しているの」
「……」
「突然ご両親が事故でお亡くなりになって、なんて可哀そうなのかしらと気を揉んでいたのよ。何とかしてあげなくちゃって。
だから、貴方には早く誰か頼れる人が傍にいるべきだと思って、今回素敵な方からお声がけいただけて、私たちとっても喜んでいるわ。
ね、学生の内に結婚なんて今の若い人たちからしたら、馴染みがないことかもしれないけど。
私たちの時分ではもっと早くに結婚することもあったのよ。だから、早すぎるなんてことはないわ」
少女は少し顔伏せたが、直ぐに顔上げ、しっかりと(少し困り側だったが、)女性を見つめた。
「有難うございます。私も素敵な方だと思っています。本当に、何か思うところがあったわけではないんです」
そこまで聞いて、女性はほっとした表情を浮かべ、彼女を促した。学生の彼女が緊張しないようにカフェにしたが、湖面の上にあって、大変おしゃれで素敵なお店なのだと話を弾ませる。促されるままに少女は横道へ消えていく。その横顔には憂愁の色は無く。

「……気持ち悪い」
道路脇のヘドロでも見たかのような声でオベロンは吐き捨てた。本当に、吐気を催したので公衆トイレに駆け込んだ。

お見合いの席は和やかな談笑で包まれていた。堀下の水辺に張り出す形でテラス席が設けられ、皐月の風がそよそよと吹いて心地よい。美しい湖面に美味しい食事。優しそうな顔をした、立香からすれば教師と同年のように見える男性からの視線を受け止めながら、爽やかなアップルティーを口にした。まるで鉛でも飲むかのような喉越しだった。(立香はおくびにも出しもしなかったが)ぐるぐる、ティースプーンを混ぜながら、彼女の心は遠い彼方だった。

「藤丸さん」
はっと立香は視線を正面の男性に合わせた。視界に入れてはいたが、ピントはずれていたので。
「はい!」
元気よく声を出した彼女を微笑ましく見て、彼は続けた。
「今日はありがとう。君と話してみて、やっぱり君となら素敵な家庭を持てるんじゃないかと思えたよ。
君はどうかな?こんなおじさんで申し訳ないけど」
私もです―と、そう続けようとした言葉は音にならなかった。遠い昔の、あったかも曖昧になり始めた、藍が恋しかった。それでもと、残影を振り切って声を出そうとした彼女の横で、空気が動いた。

「立香」

凛と透き通るテノール。大きくも無い声量だったのに、不思議と湖面のテラス席に響いた。呼ばれた彼女は死人でも見るかのように、直ぐ傍に立つ青年を見上げた。
ともすれば女性とも見紛う美貌の青年が哀愁を漂わせて、立っていた。騒めいていたテラス席がしんと静寂を打つ。これから緞帳でも上がるかのように。

「立香。すまない。僕に勇気がないばかりに君を迷わせてしまった」
眉は顰められ、苦し気に胸元を抑えながら、彼は独白する。
「君はとても優しくて聡明な子だ。きっと僕や周りの方の心情や事情を深く深く慮ってくれたことだろう」
「君の決心を蔑ろにしたいわけじゃない。だけれども、もう一度、今一度、僕との未来を考えてくれないだろうか」
ブルーの瞳は揺らぎ、許しこう敬虔な信者さながらである。馬鹿馬鹿しさに吹き出しそうになりながら、オベロンはつらつらと吐きだす自分自身を、そして巻き込まれた哀れな少女を嗤った。昔からこういうのは得意だ。
良い子の役、好青年の素振り、皆が望む僕《王子様》。
先ほどの、天涯孤独になったと思われるこの少女とおばさまと呼ばれた女性のやり取りは、実に、不愉快だった。
みんなって、だれ? 可哀そうって何が?
勝手に決めつけて、憐れんで、悦に浸って、満足かい?
いいとも! 観客席から舞台に御呼ばれした折角のご縁だ。僕が、俺が、ぶち壊してやるよ。

この不愉快極まりない感情をぶちまけてやろうという想いで態々予定の無いカフェに遅参したわけだが、今にも死にそうな顔でこちらを見ている少女を見ていると、そのずっと胸の奥からもう一つの声が木霊する。やっとだ。やっと伝えられるのだ。嘘も、偽りも、歪みも、揺らぎも、ただ一つの捻じれも無く。

「君を愛している」

美青年による熱烈な愛の告白(少女の前に膝をつくというオプション付き)は、気品溢れるカフェを夏の夜の如く、熱狂させた。

なんとか阿鼻叫喚のカフェを関係者で席を立ち、後日きちんと説明と謝意をすると伝えた上でオベロンは叔母とお見合い相手に「二人できちんと話し合いたい」と立香を連れ出してしまった。午後を過ぎて夕焼け入り少し前の、デパートの屋上。二人はフェンス近くのベンチに腰かけていた。ぼんやりと立香はこれまでのやり取りを反芻する。
(大丈夫だろうか)
とんでもない展開に正直追いつけていない。叔母は、非常識ではと懸念を示しながらもちらちらと見目麗しいオベロンに見惚れていたし、先方は若く常に見ぬ美貌の(恋人と思われる)存在にやや押され気味だったが、しっかりと立香を見て、自分のことは気にしなくてよいと言ってくれた。それよりもきちんと彼と話したほうがいいと、やはり教師のような雰囲気で送り出してくれた。
(優しい、大人の人だった)
きっと彼とならば、平凡ながらも温かな家庭が築けただろう。
ならば、なぜ―
今、立香の心は安堵に浸っているのだろうか。

一方、オベロンはどう会話を切り出したものかとやきもきしていた。道中で自分が不愉快だったのでお見合いを盛大にぶち壊した背景や本当はお見合いが嫌だったんじゃないのか、というようなことを口早に彼女の手を引きながらしゃべり続けていたが、立香がうんともすんとも言わないので、これはやっちまったかもと取り合えず彼女を休める場所に引きずってきたのだが。
(気まずい……。『何時も』煩いくせになんでこいつこんな静かなんだよ。……、待て。何時もって『何』だ)
足元から冷たい水がひたひたと迫ってくるような、己の中にある底知らぬ何かがじわりと染み出すような、そんな恐ろしい気配がして、オベロンは咄嗟に自分の右隣を見た。何事か話して、この変な空気を壊したかったのだ。

風が吹く。曝される彼女の横顔。橙色の髪が緩やかに流れ、その黄金の瞳は遠くを見ている。ふと、彼女の背景が昏い闇底の中、真っ黒な衣装に身を包んだ姿と被った。が、その姿は陽光煌めきの間に掻き消えた。オベロンは(過去の記憶)だと思った。すとんと、何の違和感なくそう思えたので、躊躇いもなく言葉が滑り落ちた。

「ねぇ、僕たち、何処かで会ったことある?」

「え?」
不意に耳に入った彼の声は、立香の耳を通って、脳に電気信号が到達。――弾けた。ぶはっと彼女の口から淑女らしからぬ吹き出しが飛び出した。けらけら、いや、げらげらと笑う彼女。

「はあ!?ちょっと!なに笑って――」
笑う立香に憤慨しながら、肩を掴もうとしたけれど、先の自分の発言が出合い頭に彼女を小馬鹿にしたものそのものだと気づき、白皙の顔を羞恥に染めた。うぐぐと喉奥を鳴らす姿は、子犬が唸るようにも空目する。

「くそっ。……あああ!もうめんどくさい!ねえ!僕たちって運命ってやつじゃないの!?
きっとそう!ていうか!そういうことにしとけよ、馬鹿!!」

やけくそか。クールでニヒルな美青年は欠片も無い。哀れなピエロの方が相応しい。

(ああ)と立香は心中で息を吐く。
顔も耳も真っ赤にして、口をへの字にしている彼。なんと幼く愛らしい。 ――身も心も、魂すらも凍えるような旅路では終ぞ見ることの無かったものだ。その顔を見て、立香は(ああ、そうなんだ。彼は本当に『人』になったのだな)と想った。何だか涙が止まらなかった。だから、口を押えて、体を震わせた。瞳を笑みの形にすることも忘れない。

笑いが止まらない様子の立香にしびれを切らして、オベロンは彼女の両手を掴んだ。温かく柔らかなその手を握って。
「きっと僕たちは前世で会っていて、この世で会ったのも運命で、…だから、さ、 ――、連絡先教えてくれる?」
何と軽薄なその言葉。そして、言葉に反してあまりにも苦々しげな表情。
くすりと最後の笑みをこぼして、立香は「結婚を前提にお付き合いしてくれるなら」と答えた。

(嘘じゃないよ。私たち、運命《真実》だったの)