後奏曲★レポート№6:ブリテンにて、策士策に溺れる 

穏やかな昼下がり。うららかな陽気に包まれて、アルフォンスはとても、大変、とんでもなく、エトセトラ、そう――困惑していた。
「わっ、この紅茶とても美味しいです!」
「……インドに直契約をしている農場がございます。そちらから、ファーストフラッシュが届きましたので」
「インドに! 本当にかぐわしくて、苦みが無くて飲みやすいです」
「…………よろしければ、お土産にお包みいたします」
「あ、そんな!」
「恐縮頂くようなことは何も。お気になさらず」
坊ちゃま、よろしいですか?と老執事が訳知り顔で尋ねてくるので、良く分からないままに頷く。アルフォンスと客人は、白いバラが綺麗に咲いたガーデンテラスで、アフタヌーンティーを嗜んでいた。
(なんでこの人達、屋敷ここに居るんだろう……)
アルフォンスの対面には、緋色の髪の女性と、サーヴァントである白い男(オベロンと名乗っていた)が座っている。女性はニコニコとうちの執事と紅茶に会話を弾ませているし、サーヴァントの男は一見にこやかに微笑んでいるが、米神に青筋が浮かんでいる。もう一度、アルフォンスは自問する。
(本当に何なんだろう、この状況……)
「……ぇ、ねえ、聞こえてる?」
はっとアルフォンスは、自分の世界から現実に戻る。緋色の髪の女性が自分のほうを心配そうに見ている。
「ぇ、あ。すみません、ぼうっとしていたようで。何か?」
「そっか。ごめんなさい、調子が悪いところに伺ってしまって」
「あ、いえ……」
居心地悪く、アルフォンスは身動ぎをして、椅子に座り直す。そして、此処に至るまでの経緯を振り返った。

悪夢の一夜以降、アルフォンスは全ての気力を失って、自室に引き籠っていた。自分が何に落ち込んでいるのかも良く分からない。けれど、大切な何かを失ってしまったのだと言うことは分かる。毎日のように訪れる叔父の存在も辛かった。この家に頼れるものなど無い。強いて言えば、生まれた時から傍に控えていた執事ぐらいだ。それだって、お互いの立場がある。アルフォンス自身のプライドもあり、甘えたり、頼ったりする相手ではなかった。息が詰まる家の中で、その身を縮こまらせることしか出来なかった。そこに来訪者が現れる。叔父を始め、他にも社交界の付き合いで幾人かの人間が屋敷を訪れることはあった。けれど、何れも体調が優れないからと断ってきた。今回も同様に面会を断ろうとしたが、何故か執事が面会を通してしまった。どういうつもりだと詰め寄れば、いつもの平らかな声音で、後悔しますよ、と言われる始末。そんな口を聞かれたことなど一度だってなかったアルフォンスは思わずたじろいでしまい、渋々、面会に承諾してしまった。そして、今――

「さっきはね、紅茶は何が好き?って聞いてたの」
「紅茶……」
(そんなものを聞いてどうするのだろうか)
オウム返しのような生返事をしながら、アルフォンスは目の前の女性を見つめる。
(何だ? この人を見ていると、……)
知らないはずの女性。でも、その黄金の瞳も、声も、風に踊る緋色の髪も――美しい。そして、恋しい……と感じる。
「紅茶は……、オレンジペコーが」
「そうなんだ。ストレート派? 私は結構ミルクティーが好きなんだけど」
貴方はどう?と聞かれて、アルフォンスは思わず、聞き返してしまった。
「どうして、そんなことを聞くんですか? 僕のことなんか聞いてどうしようっていうんです」
最後の言葉はやや責めるような、子供が親に拗ねて見せるような声音になってしまい、思わず、口を手で覆う。自分の言動が信じられず、視線を彷徨わせるアルフォンスを立香は優しく見つめ返す。
「うん。君のことが知りたいなって思って」
「え!? な、ど、どうして?」
「知らないから。うーん、正確に言うと、知ろうとしなかったから?」
苦笑しながら、頬を指で掻く女性。
「僕は……、僕は貴方のことを知りません。名前も分からない……」
(どうしてだろう。貴方のことを、貴方の名前を知らないことが、……悲しい)
一滴、アルフォンスの髪と同じこげ茶色の瞳から涙が滑り落ちた。それに驚いた表情を見せる女性は、手元から白いハンカチを取り出して、差し出す。あ、とアルフォンスは心の中で呟く。少し逡巡して、恐る恐るその白いハンカチを手に取った。周囲に繊細なレースが施されたもの。それを大事そうに両手で持つ少年。その少年に、女性は自らの名を告げる。
「立香。私は、藤丸立香と言います。貴方は?」
「…………アルフォンス。アルフォンス=ファーガス・ゴールディングです」

ぽつりぽつりとした談話の後、女性――藤丸立香さんの携帯に連絡があり、そろそろお暇するという区切りになった。彼女は今、土産ものの受け取りの為、席を立ち、彼の執事と楽しそうに会話している。長年あの執事と共にあるが、あんな風に話す人物とは知らなかった(結構おしゃべりだった)。それをどこかぼんやりと眺めながら、アルフォンスは退屈そうに席に座る男性に話しかけた。
「あの……」
「……なんだい?」
表情は穏やかなのに、何一つ歓迎されていないことが肌で感じる。彼が恐ろしい。でも――
「貴方は、僕の感情がニセモノだと言った。――どういう会話の流れでそういう話になったのかは、もう、あまり思い出せないけれど」
「……」
「きっとそれは真実ほんとうなんだ。でも、……うん。ニセモノでいい。この感情がニセモノでも、――僕はこの気持ちが嬉しい、ってそう思うから」
それを聞いた男性は、左手で顔を覆い、天を仰ぐ。そして、行儀悪く、「くそったれ」と唾棄した。
「……ああ、そう。じゃあ、もう好きにしたら? ……君も物好きだね。実ることの無いものにみっともなく縋って、未練たらしいったらありゃしない」
「未練なんて、持ったことが無かったから」
「あっそ! ――ほら」
ぴんとオベロンが一つ何かを指先で弾いて、アルフォンスに投げ渡す。「わっ」と言いながら、アルフォンスはそれを慌ててキャッチする。握りしめた両手をそっと開く。そこには、ピンクの花弁がひとつ。なんだろう?とアルフォンスは首を傾げる。それをつまらなさそうに見ながら、オベロンは説明する。
「サクラだよ。魔除け代わりに持っておけば。ああ、所詮は花だ。直ぐに色あせてゴミ同然になるだろうけど」
にやり、この席について彼が笑う。とても良い意味での笑顔ではないが。それでも、何かを贈られたということは何か意味があるのだろうと、なんとなしにアルフォンスは思う。だから、ほんの少し、彼も口の端を綻ばせながら言い返す。
「これでも、モノの保管は得意だから。伝承科の生徒だもの」
春風がアルフォンスの髪を穏やかに通り過ぎる。まるで、春の妖精に頭を撫でられているような、そんな気がした――。

 

「うーま、うまうま、うーまたん」
スピカが大きな背に乗り、ご機嫌に歌を歌っている。その下で、道満が呻いた。
「もう一時間はこうしておるぞ!? 姫君……いい加減、降りて頂けませんかな??」
「ィやー!」
激しいNOに、道満はがっくりと項垂れた。その横をマーリンが走って来る。
「ねえ、ねえ!この娘、どうにかしてくれない???」
私がどこに行ってもいるんだけど!?と彼にしては珍しく蒼褪めながら、マーリンが抱え上げたトゥーリをマシュに差し出す。
「トゥーリさん、すっかりマーリンさんがお気に入りですねぇ。少しだけ妬けてしまいます」
ぷうと頬を膨らませたマシュに対して、マーリンは戦慄する。いやいやと首を大げさに振る。
「だって、この娘、にも居たんだけど!?」
そう、トゥーリというこの娘、マーリンがどこに出没しようとも現れるのだ。それこそ、空間を越えて――。最初はたまたまかと思っていたが、ほぼほぼ99パーセントの確率で移動した先にこの幼子が居る。カルデアの何処に行こうとも気が付けば足元に居るのだ。流石に気味が悪くなって、アヴァロンに引っ込んだのだが、塔の中でその子供を見つけた時は、流石の彼も腰を抜かした。
「あぁ、トゥーリさんはどうも空間移動が得意なようで」
「えぇー…、それ普通じゃないよ。空間移動って簡単にできるものじゃないんだけど」
思わず、まじまじとマーリンがトゥーリを見る。彼女はマーリンの顔を見つけると、にぱっと笑顔を見せてくる。思わず、マーリンも笑顔になる。マシュもにこにこ。笑顔溢れるハートフルな空間。
「……はっ! あ、危ない。流されそうになっていた! そ、そうじゃなくて、ね」
うーん、と暫し次女を見つめ、マーリンはぽんと手を打った。
「ああ、この娘、立香くんのを受け継いじゃってるのか。いや、むしろ強化されてる?」
「な、なるほど!納得です。先輩もしばしば、レムレムシフトで別の世界や英霊の体験をなさっていたりしましたし」
「本人の魔術の資質と『呼ばれる・応える』体質の相互強化で、割とどこにでも行けてしまうんだな。いやいや、これはまたすごい」
はぁ~、と感心したような息がマーリンの口から零れ落ちた。冠位グランドを驚かせるとは、相当な大物なのでは……。と内心マシュは冷や汗を浮かべる。被害が分かりやすい長女の方にどうしても注目が行くが、しょっちゅう行方不明になる次女の方が問題は深刻だったりする。一番最初、居なくなった時は、すわ誘拐かとカルデア中が騒然としたものだ。マシュが一番最初に失神したイベントなので、よく覚えている。それからは、まあ、居なくなる居なくなる。どこに行っていたのかと聞けば、ある時は森、ある時は海、ある時は……よく分からない空間。そして、其処此処そこここでお友達が出来るのだそうだ。両親とマシュは、そのお友達の話を聞いて、気を失いそうになる。どう聞いても、人間じゃないオトモダチ……しかも、複数。どうやら大層オトモダチに気に入られ、縁を結んでしまっているらしく、次女に何か危ない場面が訪れると、何処からともなく助けが来る。超強力なセ〇ムが付いているので、ある意味では安心と言えよう。しかし、別空間にご招待するのだけは止めて頂きたい。心臓にとても悪い。せめて!せめて、事前告知とか、どこに行くとかそういった対応をお願いしたい(保護者一同より)。とまあ、長女と次女は大変問題児なのだが、反して、大人しいのが長男のシリィだ。大体、二人に振り回されている。姉弟の力関係が分かりやすいので、英霊たちはシリィに大甘な対応することが多い。苦労人な英霊は特にその傾向が強い。シンパシーを感じるのかもしれない(弟属性も影響ありか?)。その彼は、というと――?

ちゅう、と可愛らしいリップ音が立香の頬で鳴る。その仕掛け人は、きゃぁと笑い声。
「なあに?」
立香が甘い声で、キスの送り主――シリィに笑い掛ける。くふくふと彼は両手を口に当て、楽しそうだ。立香の不調は、ママっ子のシリィは特に堪えたらしく、彼女が復調してから、ずっと引っ付き虫になっている。甘えん坊な長男にうりうりと脇腹を触る攻撃をすれば、ころころとソファの上を逃げ回る。そんな長男を誰かが掬い上げた。
「シリィはママが大好きだねぇ。パパにはちゅうは無いのかな?」
パパ哀しいなぁ~、なんて噓泣きをしながら、オベロンがソファ――立香の隣に座る。オベロンの膝に座ったシリィは、ぱちくりと瞬きをするが、直ぐに破顔する。よいしょよいしょと、オベロンの膝の上に立ち、それから、……ちゅう、と彼の頬に吸い付く。
「オベロン、顔、顔」
妖精王として、ちょっぴり人様に見せられない顔をしていたらしい。オベロンはおほん、と咳払い。
「しーも、ちゅう!」
シリィが自分の頬を両手の人差し指で指さしながら、二人に声を上げる。どうやら、若君はお返しのちゅうをご所望らしい。喜んで――と、オベロンと立香はそれぞれの側からシリィに口づける。ちゅっという音に彼は大変ご機嫌になる。テンションが上がったのか、ぴょこぴょこと飛び跳ねて、立香に向かってジャンプ。今度は彼女の膝の上に立ち、――笑みを浮かべる彼女の唇に口を近づけた。
「こーら。めっ!」
口と口を付けようとしたシリィは、オベロンの手で阻止される。ぶうと彼の頬が膨らんで、不平を漏らした。
「ママのおっぱいはシリィ達のだけど、ここはだめ。パパの。前に約束したでしょ?」
ううむ、ならば仕方ないか、とシリィは渋々とオベロンの膝の上に戻っていく。
「い、いつの間にそんな協定が……。ママ、御本人なのに知らないんだけど?」

そんな親子を眺めながら、マーリンが「あま~~~~~い!」とのた打ち回っている。どうやら、また勝手に人の感情を食べたらしい。胃もたれしそうな甘さに、それでも彼は満足そうだ。床でバタ足をするマーリンの上にトゥーリを乗せながら、はっとマシュは目を見開く。「あ、あの~……」と遠慮がちに、立香達に声をかける。その声に三人が不思議そうに振り返った。もごもごと口を濁しながら、意を決して、マシュは発言する。
「ところで、先輩の体にある聖杯は?」
「「あ」」

「あ~、でも、結局のところ、ノーリスクで取り出す方法は分からないままだな」
「私が無意識に止めちゃってたのが原因だから、現状維持案で申し訳ないけど、このままでもいいのかな?」
二人が思案する傍で、
「あるよ」
「「え」」
「安全に聖杯を取り出す方法」
マーリンがあっさりと言い放った。それに対して、マシュが動揺の声を上げる。
「え!? で、でも、以前お伺いした時は無いと仰っていましたが……」
背中に乗ったトゥーリをそっと降ろして、んーっと彼は背伸びをする。バキバキと骨が鳴るたびに、あたた、年だねぇ、とぼやいた。
「別に『方法が無い』なんて言ってないよ。『現状、それを成す方法が無い』と言っただけさ」
小首を傾げながら、彼はさも当たり前のように言うが、大変紛らわしい言い方だった。彼にその自覚は無いのか、あるいは、分かっていて言わなかったのか。どちらもありそうな彼に、聊か憮然としながら、マシュと立香は拍子抜けしたと顔を諫める。
「え! ……そ、そうでしたか? 私はてっきり」
「なんだぁ! 言ってよ、マーリン!
もー、だったら、こんなに心配しなくてすんだじゃない」
「…………」
ぷりぷりと怒る立香を他所にオベロンは何だかとっても嫌な予感がした。
「それで? どうすればいいの?」
「簡単さ! 聖杯に願えばいいんだよ」
「? 何を?」
「やだなぁ~、君たち、ずっと願っていただろう? 今回もお願いすればいいんだよ。
って!」
「「「……………………」」」
固まる面々を全く気にも留めず、マーリンは指を折りつつ、話を続ける。
「えーと、聖杯は全部で七つ。そして、子供たちは三人。うん……、あと四人だねぇ」
丁度、フルパワーで起動している聖杯の数とも合うよ。と花の魔術師はにっこりと頷いた。
「待って――。待って、待って、色々言いたいことはあるんだけど、フルパワーって何?」
「あれ? 気づいてなかったのかい? 当然だけど、聖杯の力は有限だよ。願いを叶えれば、その力は失われる。だから、立香くんの中にある聖杯は七つだけど。既に三つは願いを叶えているから、魔力の残照程度、形だけしかないよ。そういう意味で、願いを叶えられる聖杯は後四つ」
マーリンは何が面白いのか、顔の横でWピースを決める。v(≧▽≦)v
おもむろに、オベロンが立ち上がり、マーリンの背後に立った。マーリンの首前で手を組み、そのまま後ろに引いて――「そぉい!」と掛け声一閃、技を決めた! 強制的な海老反りの体勢にマーリンが悲鳴を上げる。
「あいたたたたっ!!! ちょ、ちょっと! 誰か助け、ぐへぇ」
「あーっと! 決まりました、見事なキャメルクラッチです! いえ、立ったままの体勢ですので、これはスタイナー・リクライナーでしょうか!?」
マシュの鍛えられたオペレーター魂、略してオペ魂オペだまによる巧みな実況が入る。そして、どこから颯爽と現れたダヴィンチちゃんがすかさず、カウントを始めた。
 ワン! ツー!
「待って、決まってる! 決まってるから!! た、たしゅけ、……あっ」
 ……ナイン! テンっ!  カンカンカーン!
レフェリー(ダヴィンチちゃん)が手を大きく交差させる。そのまま、オベロンの左手を取って、高く上げる。
「勝者……、青コーナー! オベロン・ヴォーティガン!!」
わぁああああ! 歓声と拍手、そして、花吹雪がマイルームに舞う。
「おめでとうございます! 見事な勝利、そして圧巻のKOでした! 解説席のマスターにコメントを伺いたいと思います! やはり勝利の鍵は、夫婦の愛でしょうか!?」
「勘弁して」

さて、彼らの間に、四人目、……はたまた、七人目が生まれたかどうかは、
「任せてくれたまえ! マトに当てるのは得意だとも!」
「言い方ぁー-----! Gant!

……大変子宝に恵まれたとだけ記しておこうと思う。
 

FIN?

 

 

 

 

 

 

 

 

「おっと。ここまで読んでくれたのかい? それはそれは……。
じゃあ、そうだな。手ぶらで返すのもなんだし。一つ、土産話をしようじゃないか。
これから話すのは、因果応報を受けたつまらない男の話さ。
ま、大した話ではないからね。聞かずに立ち去ってもらっても構わないよ。
いや――、ここで引き返す方を僕としてはお薦めする。
決して愉快な話ではないからね。……そう、聞くんだね?
分かった。説明はしたからね。くれぐれも注意してくれたまえよ。
さて、勇気ある人――、それではどうかご清聴を」

 

「ひいいいい!」
暗い室内に男の悲鳴が響く。がばりとベッドから飛び起きて、男は忙しなく周囲を見渡す。何度か見回して、自分が寝ていたことを理解する。ぜえぜえと乱れる息の中、男が額を拭う。
「くそっ! またか! 何なんだ、私が何をしたというんだ!」
自分勝手に周囲の寝具を投げ散らかしながら、男は冷めやらぬ怒りを消化する。彼は今、毎晩のように悪夢に魘されている。しかも、見る夢は決まって同じ。始まりは暗い森から。気が付けば、大きな蛇のような何かに追われている。捕まってはいけないという思いだけが身の内から込み上げて、ひたすら走り逃げ惑う。暫く走ると、唐突に森を抜ける。しかし、助かった――という思いは脆くも崩れ去る。森を抜けた先は崖で、男はあっさりと足を踏み外す。どぼんっ!という音共に落ちた先が水、それも海水だと気づく。おかしなことに体は浮き上がらず、どんどんと下に引きずり込まれる。いや、当然だ。
ごぼごぼと自分の口から吐きだされる気泡。必死に藻掻いて藻掻いて、意識を失う寸前で、体が宙に浮く。風が吹いて、水中から唐突な場面転換。「ひ」という悲鳴が零れ出る。地上からの高さは幾ばくか。ただただ高い空の上に立っている。降りることも叶わず、立往生していると、地面が揺れる。絶望の眼差しで自分が立つ石が崩れるのを見つめて、――落下。体中を雑巾のように引き絞られるような重力の中、それでも彼は意識を失わず、いや、失えず、地面を見る。もはや、いっそ命を失えたらという救いさえ見出しながら、彼は自分が落ちる先を見つめるのだ。そして、暗転。……そこで、いつも目が覚める。

連日の悪夢で男の顔には濃い疲労の色が浮かぶ。髭を手の平で何度も撫でながら、平静を保とうとする。深い溜息。すっかり目が覚めた彼は、睡眠不足でふらつく体を押して、寝台を降りる。そして、彼の部屋の一室にある大きな箱に向かう。白い棺だ。部屋の中に棺、その異常性を問うものは誰も居ない。男はゆっくりと棺の扉を開ける。
棺の中には、女が横たわっている。茶色の髪、白い肌。その身には何も纏っていない。裸体の成人女性が横たわっている。彼女の息遣いは聞こえない。
「あぁ、エマ。君は本当に美しい」
うっとりと男が彼女の胸に触れる。温もりの無い堅い体。それを男は愛おし気に撫でる。はっはっと息荒く、彼女の胸にしゃぶりつく。自慰に耽る男の脳裏に、甥の姿が浮かぶ。ギリシャ神話から抜け出したような美しい少年――アルフォンス。
(ああ、あの子は本当に君に似ている……早く、君と同じように『保管』しなければ)
美しいものは何時かその色を失う。男にはそれが耐え難く、美しいものを永遠に美しくという思想の元、彼の手元には多くのがある。その中でも、彼女、アルフォンスの母・エマは最高傑作だった。そして、アルフォンスも彼女に負けず劣らずの一級品だと理解している。青年になり切る前の儚い美しさ。永遠に留めておかなければ。
白濁が死体に飛び散る。はぁ、と恍惚の息を吐いた男の手を掴んだ。
「は」
部屋の中には誰も居ない。では、誰が――?
男は限界まで目を見開き、その手の持ち主を凝視する。白く美しい手。その手の所有者――女の死体の目が開き、男を見た。
「ひ、ひい!」
『誠に度し難い……』
低い女の声がする。目と口は、ぽっかりと開かれて、その口の空洞からひゅうひゅうと声が上がって来るようだ。
『死者を愚弄する愚か者。その業を受けるがいい』
男は必死に手を振り払おうと、右手を振り上げる。けれど、女の身にはあり得ない強さで離れない。それどころか、女の体から、無数の黒い手が伸びてくる。大きいもの。小さいもの。男の手。女の手。様々な黒い手が、男を掴む。
「あ゛ああああ! だ、だれか、助けろ!」
その声に応えるものがある。
「まあ、あなた。そんなに怯えて、可愛そう」
懐かしい女の声だ。久しく聞いていなかった美しい女の声。女――エマは、数多の人間を魅了した美しい笑みを浮かべて、言った。
「大丈夫よ。――――――あなたの手は決して離さないから」

 

「おや? 大丈夫かい? 随分と顔色が悪いようだけれど。
……言わんこっちゃない! 愉快な話じゃないって言っただろう?
まあ、いいさ。これに懲りたら、好奇心も程々に、ね?
仕方がないなぁ。悪夢を見るといけないから、最後におまじないをひとつしておこう。

もしも、君が不快に思ったのならば、どうかただの夢を見たと思ってお許しを。
全ては、春の夜の幻――。それでは、諸君、良い夢を」