『00894510123』

ピッ、ピッ、ピッ、と規則正しい電子音が少し手狭な部屋の静寂に鼓動を刻んでいる。
呼吸器を着けた青年は静かな笑みを零して囁いた。
「全く面目ない」
それを聞いたロマニはカルテから顔を上げて、やれやれと首に手を当てる。
「それを言われるとボクたちも立つ瀬が無いなぁ」
ペンをくるりと一回転。少し考え込んだ後、慣れた手つきで計器の数値を端末に書き込んでいく。
「キリシュタリア・ヴォーダイムならきっと大丈夫――なんて、思い込みも甚だしい。マシュたちを連れて行かないなら、他のメンバーをと発想が出来なかった。いくら魔術に秀でていようとも大人であるボクたちが君たちを支え導かなければいけなかったのに」
力不足で申し訳ない、とロマニは言う。端末に伏せた顔がどんな表情なのか、キリシュタリアには窺い知ることが出来ないが、今の自分と同じ表情なんだろうと嘆息した。二人揃った溜息が零れた時、前触れ無くアラート音が鳴った。コールランプは至急の赤を示している。
「! ――こちら医務室。何事だい!?」
『ドクター! 大変です!! 先輩が、シミュレーター室に閉じ込められました!』
「え? えええーー!?」

医務室の絶叫から、遡ること数時間前。

「きみの心は今、何処にあるんだろうね」
「……」
「少なくとも。この飴色のティーカップの中には無さそうだ」
二人きりのマイルーム。互いに小さなテーブルを囲みながら、立香は飴色のティーカップの中、――オベロンが入れた紅茶に視線を落としたまま。どうやら深く物思いに耽っている様子。それを、オベロンは組んだ両手の上に顎を乗せて静かに見つめた。
「…………」
「……、はぁ。紅茶だけだと物足りないみたいだ。食堂で何か貰ってくるよ」
黙して語らずの立香に溜息を吐きかけて、オベロンは席を立つ。
(大方、あのスタッフの言葉を気にしてるんだろう)
『なんで、なんでなんで……。――お前なんだ?』
(そんなもの、こちらの台詞だ。立香には極力関わらせたくないってのに。どいつもこいつも祭り上げるだけ祭り上げて、都合が悪くなったらコレだ。……全く、全て奈落に落とせたらどれだけ楽か)
イライラを募らせながらも表面上は笑顔の仮面を被る。余所行きの準備が出来たところで、扉を開錠し、――。
どさっ……。

「オベロン?」
扉が開いた音の後、背後で何かが倒れる音がした。思考を沈ませていた立香だったが、何かを感じとり後ろを振り返る。そうして、……見つけた。白いフロアに倒れ伏した愛しい男と、生涯相容れぬであろう男の姿を。
「よぉ、ちょっとおハナシしようぜ」

ばたばた――っ。ロマニは運動不足の体に鞭を打って、必死に走った。駆け込んだ部屋の中には、ひとだかり。この少ない人口の中でこれ程の人数が詰め寄るのは、食堂に限定メニューが並んだ時ぐらいか。そんなくだらない無いことを考えでもしないとやっていられなかった。
「ベリル・ガット――!」
中央のモニター付近の椅子に堂々と腰掛けて、彼は親しげに片手を挙げる。
「ドクターじゃないか! ナイスタイミングだぜ、丁度今からショーが始まるところさ」
「――っ!! 馬鹿なことを」
言うなと続ける言葉は、黒い手袋が指し示したモニターに吸い込まれた。
少女がよろめきながら走っている。背後からは魔術師のような男達がまるで狩りでもしているかのように光弾を打ち込み、華奢な背を追い立てる。
「、り、立香ちゃん!」
周囲に英霊の姿は無い。それに、なんだか彼女自身の様子がおかしい。
「ドクター!」
泣きそうな声がロマニの背にかかる。
「マシュ! どうなっているんだ? 彼女、何か様子がおかしい気がする」
ドクターともう一度瞳に涙を溜めながらマシュは縋り募る。
「わ、私にも分からないんです。でも、先輩は明らかに正常な思考を保てていません!」
技師工房にて霊衣の調整を行っていたマシュの元にオフェリアとカドックが飛び込んできた。曰く、ベリルが立香をシミュレータールームに引きずって行ったと一部スタッフから報告を受けたらしく、三人で暴挙を止める為、ここにきたのだが。
「シミュレーターがロックされていて、ダビンチちゃんでも解除不可能な状態でした」
件のシミュレータールームには、瞳孔が定まらない立香が一人きり置き去りにされていたという。
「コイツ、最悪だ。エンジニアのやつに一回限りのマスター権を作らせて、自分以外にロックを制御出来ないようにしてやがる」
吐き捨てるようにカドックが言えば、ベリルは悲しげに眉を下げておいおいと声を挙げる。
「そんなに目くじら立てるなよ。ちょっとしたお遊び・・・だろう?」
「やりすぎよ!」
噛みついたオフェリアに張り付いた笑みを浮かべながら、「おお、コエー」とベリルは椅子ごと下がり、手を叩いて囃し立てた。
「このっ、」
「落ち着いて、オフェリア。その怒りは解除方法を聞いてから、たっぷりお見舞いしまショ♡」
魔眼に力を込めかけた彼女をペペが制するも、その瞳は酷く鋭い。流石のベリルも頬を引きつらせたが、変わらぬ優位にモニターへと視線を投げる。
「ははっ、傑作だ! アイツ、相手が誰かも分かってねーな」
画面の先では、立香が漸く一騎、英霊の召喚に成功していた。しかし、クラスは暗殺者アサシン魔術師キャスター相手には不利だと彼女が分からぬはずがない。
「恐らく何か幻覚作用を齎すような、魔術か薬物が使われている」
苦々しげなカドックにロマニは拳に力が入った。
「お前――!」
掴み挙げた胸ぐらと振り上げた拳は途中で止まってしまった。
「そうさ、ドクター。俺に何かあっちゃぁ、本当にアイツは閉じ込められちまう」
それに、と前置きをしてベリルは子供のように笑った。
「俺が自分からショーを台無しにするなんて、そんなヒドイことはしないぜ?」

はっ、はっ、はっ、――、息苦しさよりも忙しなくなる鼓動の方が煩わしかった。
誰かが自分を追いかけている。
誰かが自分に声をかけてくる。
けれど、どれも歪曲して明瞭で無い。あの男、ベリル・ガットが自分に何かを吹きかけた。間違いなくそれのせいだと確信するも、打開策は無い。ただ、命の警鐘に従って大地を走っているだけ。
(オベロン)
あれ程用心深い男が不意を打たれた。
(……)
なぜ? 答えは分かっている。立香だ。オベロンは立香を気にするあまり、他への注意が薄れてしまったのだ。
(わたしのせいだ!)
どうしてお前が、なんて鼻で笑い飛ばしてしまえば良かった。そんなの知らない。そうすることしか選べなかったんだと。それが出来なかったのは、ただ、ただ、……立香の弱さだった。息苦しさよりも悔しさで視界が滲む。先程から自分に寄り添う影が心配げな気配を纏う。
(ごめん、ごめんね)
誰かも分からぬ従者に立香は心の中で謝り続けた。

「……やめてください、もう、――やめて」
マシュは両手を強く瞳に押しつけた。
明らかに前後不覚に陥った少女が、涙を滲ませながら走っている。左腕、右足、右肩、背中左、徐々に少女の体に傷跡が増えていく。呼ばれた英霊がなんとか致命傷を防いでいるが、相性不利により防御に徹することしか出来ない。少しでも、相手を攪乱しようとしたのか、少女が覚束無い足取りで森へと分け入る。
「自殺行為だ!」
カドックが叫ぶが声は届かない。
「おっと、自棄になっちまったのかい?」
ベリルはつまらなそうに独り言ちる。
「先輩!」「フジマル!」「立香ちゃん!」
ふらふらと木々にぶつかりながら走っていた少女の背に、追いついてきた男の手が伸びた。
(まあまぁ、持った方か)
ベリルはこの後自分がどんな扱いを受けるかには興味が無かった。ただ、許せなかった。マシュが、あんなに綺麗だったマシュが、藤丸立香のせいでどんどん薄汚れていく。
(死ぬかもなぁ。まあ、いいか。そんときは、マシュを殺してからにしよう)
隠し持った暗器に手を伸ばしながら、最後の瞬間を目に焼き付けようとモニターを見る。
……GYAAAAAAAAA!
「は?」

このシリアスな状況で!?と思いつつ、ドクターは馴染みのあるフレーズを叫んだ。
「わ、ワイバーンだ!」
立香達の頭上からワイバーンが姿を現す。そして、森を騒がせた不届き者を視認するやいなや、牙の並ぶ大きな口を開いた。
ゴォオオオオ!
豪炎――。熱さなど感じるはずも無いのに、咄嗟に腕で庇ってしまった。気が付いて、慌てて腕を降ろす。まさか、という言葉が零れ落ちる。
「これ、狙ってやったの?」
ペペが驚きの声をあげた。立香を追いかけていた魔術師はワイバーンの火球により一瞬で塵と化した。そのワイバーンはというと……、召喚された英霊アサシンにより光の屑へ。モニター画面にはCLEARの文字が浮かぶ。
「は? はぁー? なっんだそりゃっ! そんなのアリかよ!」
ベリルが立ち上がり、制御盤を叩いた。
「落ち着け、落ち着け……、まだ終わりじゃねー! このまま次のシミュレータを起動すれば」
「いいや、終わりだぜ。兄弟」
ベリル・・・が立っていた。ベリル・ガットの隣に。二人のベリルに周囲は静まりかえった。制御盤の側に居た方が一歩よろめいて、同じ顔をした男から距離を取る。
「はは、ドッペルゲンガーってやつか? いよいよ俺も末期だな」
「そう連れないことを言うなよ、兄弟。傷つくじゃァ無いか。それに……、いいじゃないか。始めから俺たちは、『そう末期』なんだからよ」
そう言ってもう一人のベリルはシミュレータルームのロック画面に手を触れた。『…………、認証しました。』無機質な言葉が流れて、シミュレーターは電子の光を残して消え失せる。
「先輩っ!」
解放された立香にマシュ達が駆け寄る。彼女は事切れたように無機質な白い地面に倒れ伏した。召喚した英霊は名残惜しげにしていたものの、霞のように立ち消える。立香の意識が途切れ、顕界を維持出来なくなったようだ。それを忌々しく見ていたベリルは、ハッと後ろを振り返った。
「――そうか、お前っ」
暗器を振り上げたベリルに、相対する男は微笑を浮かべるのみだった。その余裕に満ちた態度に青筋を浮かべ、その狂気を振り下ろす。――男の顔面に柳のようにしなった蹴りがめり込んだ。
「いい加減、みっともないのよお前」
「やだぁ♡ 素敵なハイキックよ、芥ちゃん」
気を失ったベリル・ガットを見下ろしながら、ふんと芥は息を吐き捨てる。ペペはベリルの足を片方だけ持ち、ズルズルと引きずって、ガコンッ――。部屋の隅にあったダストシュートに突っ込んだ。もう一人のベリルは、一連の流れを見てもその微笑を崩さず佇んでいたが。
「……、ォ、ベ……」
微笑は消え失せる。瞬きの間に、ベリルの姿は様変わりした。紅いブラウスに黒のベストは、斑模様の白いマントに。そして、黒い髪はシルバーの髪へ。頭上に頂く王冠は何処かくすんでるように見えた。マントを翻して彼は立香の元に跪く。
「……。よく、耐えたね」
「――」
「……っ、」
視線だけで彼女は答え、ゆるりと瞼が閉じられた。その顔に先程までの険しさは無く、安堵したような表情で彼女は眠りに落ちていく。

事件はこうして幕を下ろした。
残されたのは、血の滲む拳と噛みしめられた唇だけ。

◆◆◆

人理定礎値:EX
年代:A.D.1273
場所:エルサレム

異邦の星、輝く時――。
「たったひとつ信じるものの為に、彼女は最期まで勇気を振り絞って闘うのだから!」
「人間はみんな平等じゃ無いけど、可能性を持っているの」
「終わりは無意味意ではないのです。命は先に続くもの、その場限りのものでは無く!」
「いつまでもいつまでも、多くのものが失われても、広く広く繋がっていくものなのです!」

星よ、星よ、輝く星よ。
どうかそんなに輝かないで。
強く、強く、瞬く度に。
星の命は削れていく。

「貴方こそ、我らにとって輝ける星」

……。

「怖い顔」
眠たげな金色の星がふたつ。オベロンの胸元に体を預けたまま立香は視線だけ上に向ける。
「なんだ、余裕あるんじゃ無いか。手加減しろっていうからしてやったのに」
滑らかな、けれど、所々傷痕がある背中を上に向かって撫であげる。
「ンッ、やっ」
反対の手でまろみのある臀部を形をなぞるように円を描けば、くすぐったそうに身を捩る少女。つい先刻前、激しく熱を交わした体はまだ埋め火を身の内に燻らせている。密着した皮膚と皮膚の隙間を数度擦ればあっという間に熱火になるだろう。谷間を下り、湿った泥濘みに指を差し入れる。くちゅ、くちゅっ、と小さな水音を次第に大きくさせながら、オベロンは顎の下にある髪の中に鼻先を埋めた。汗の匂いと洗髪の香料が混じっている。皮膚により近く近づければ、彼女本来の香りに辿り着いた。それを肺いっぱいに吸い込む。
「はぁ……」
「んっ、……ふぅ……っ」
常ならば頭部の匂いなど嗅ぐなと怒られるところであろうが、泣き所を弄られそのもどかしさに身悶える立香は気づかない。堪えようとしているようだが、腰が微かに揺れている。
「んぅ……、っ……、んっ」
我慢が聞かなくなったのか、オベロンの腰に自分の腹を押しつけて腰を前後に振る。オベロンの瞳がにぃいと吊り上がった。
「クリトリスを擦りつけて、マーキングかい?」
「!? う……、う、ぅうー」
顔を赤らめ視線を逸らす立香。けれど、彼女の腰はまだ緩やかに動いている。
「シて欲しい?」
「……」
「立香」
言わなければこのままだと言外に滲ませれば、とうとう立香が白旗を揚げる。
「……、シて」
『オベロン』と耳元で囁かれる声の甘さにクラクラしながら細腰を掴み、――押し倒した。

「特異点は現実でもあり、もしもの世界でもある」
「私は長く居すぎたのかもしれない。サーヴァントなんて、ほんとは一日や二日で別れる使い捨ての消耗品さ」

彼の言うことは正しい。
きっと自分は彼女の側に居すぎたのだろう。
情が移るとは良く言ったもの。
けれど、自分の在り方すら捻じ曲げて。
運命を否定する己の内にあるものを。
『情』などとという陳腐な言葉では到底足りない。

「はは、おっかねー顔だぜ」
全身を血で染め上げた男は、懇願でも弱音でも無く、嘲笑を口にする。
「ソレがあんたの本性ってワケだ。いいねぇ、いいねぇ! そっちの方がずっと――」
綺麗という言葉は音にならなかった。代わりに何かが押し潰される音と水飛沫の音。
「ひぃっいい」
助けてくれと男が地面に頭を擦りつける。蹲り頭を抱えていると、ずるずると重たい荷物が引きずられる音だけが聞こえてきて、吐きそうになった。必死に喉元にせり上がった何かを飲み下す。
「これ、片付けておいて」
「――!」
ぶんぶんと頭を縦に振れば、額が擦れて血が滲む。自分と他人の血の匂いに包まれながら、男は災厄の足音が遠ざかっていくのを必死に聞いていた。

廊下に出た後、ふと横を見た。
無機質な壁は不自然なほど光沢を纏い、歩くものの姿を薄らと映し出す。自然界には無いそれに手を伸ばし、その朧気な姿見を見た。
「なるほど」
確かに、怖い顔・・・だ。
かつり。廊下に足音。
「何かご用かな?」
こつり、こつり。彼は長く美しい足を水の上を歩くように優雅に動かした。間合いの直ぐ外まで来てその歩みは止まる。腕を組み、大げさな溜息をひとつ。
「……はぁ。ほんと、あの子も随分と趣味が悪い。こんな凶兆を抱え込むなんて。折角の運の良さが台無しね」
こちらをひたりと見つめるペペロンチーノに、オベロンは何も答えない。
「……貴方が何者かなんて今更問わないわ。でも、ひとつだけ教えてちょうだい」

貴方の目的が、あの子を泣かすものなら相打ち覚悟で止めるわ。

「……もう見飽きたんだ」
「え?」
「泣き顔なんて見飽きたよ」
「ちょ、――もうっ」
ペペは両手を腰に当て、一度も振り返る事無く廊下を進む背中を見つめる。
「全く。そんな顔されたら何も言えないじゃ無い」

恋じゃない。愛じゃ無い。これはただの妄執。
……分かっているんだ。
狂っている。馬鹿げている。
それでも。
燃え尽きそうな星を胸に抱えて、願っている。

「藤丸立香が安穏としていられる人類最後のマスターでない世界を」

ひとりの騎士の旅路の終わりを見届けて。
彼らもまた近づく終わりを見つめる。
第六特異点、エルサレムの定礎復元完了。

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