わいわいがやがや。――食堂から廊下まで、カルデア中が騒がしい。
アゲハ蝶の如き翅を閃かせて、オベロンは舌打ちする内心をひた隠し、速やかに人々の群れを通り過ぎていく。うっかり翅があたりそうで、第二臨の姿になれば良かったと後悔した。
廊下の反対側から知己の顔を見つけて、オベロンは「やあ」と片手を上げた。
「アルトリア。これは一体何の騒ぎ?皆、随分と楽しそうじゃないか!まるで収穫祭でも始まるかのようだよ。
いや~、僕としたことがすっかり寝過ごして夏の時期を通り過ぎて、秋の季節まで時空が飛んでしまったのかな?」
(意訳:どいつもこいつも五月蠅いんだよ。とうとう、頭のネジが飛んで季節感すら無視するようになったのか、このトンチキ汎人類史は?)
正確にその言葉の裏を読み取って、アルトリアと呼ばれた金髪の少女は顔を顰めた。さながら、先日村正にうっかり勧められるまま梅干しを食した時のようだ。(この時、オベロンは盛大に爆笑していた)
はぁ~と杖に体重を乗せながら、彼女は胡乱気にオベロンを見つめる。ばさりと彼の翅が閃いて、恐らく答えない限りこの路を通してくれないだろうことが分かった。
(他の人に聞けばいいのに――。変なところで人見知りしますよね、この人)とアルトリアが内心で呟けば、オベロンがにっこりと微笑んだ。薄目に開かれた目が冴え冴えとした光を放つ。
もう一度、はあとため息を吐いてから、渋々と彼女はその薄紅色の口を開く。
「メンドクサイなぁ~(東の国、立香の故郷のお祭りをしようって盛り上がっているらしいですよ)」
「おい」
うっかり妖精王らしからぬ言葉が出て、んんっとオベロンが口元を握った手の平で押さえる。
「えへんおほん。……ふーん、マスターの国のお祭りねぇ?ところで、アルトリア。君はこれからどこへ行くのかな」
もう一度、オベロンが微笑んだ。とうとう、アルトリアの顔が梅干しのように皺くちゃになった。
「あ゛~、だから嫌だったんですよ!折角、立香を独り占めしようと思っていたのに~」
地団太でも踏みたそうに彼女が足をもだもだと動かす。それを冷笑で迎え撃って、オベロンは来た道とは違う方向に、そう、アルトリアの進行方向に体の向きを変えた。
いざ行かん!マスターの部屋へ!
アルトリアとオベロンが連れ立って、マスターの部屋に辿り着く頃、部屋から一人の女性が現れた。すらりとした肢体を右に左にゆらゆらと。やがて、くたりとその身を廊下の壁に預けるようにしな垂れた。
「「?」」
具合でも悪いのだろうか、と二人が声を掛けようとしたところで、妖精眼が真実を映し出す。――ビシリと二人の歩みが止まる。
あ゛~という美女に有るまじき、うめき声が女の口から零れ落ちた。
「あぁっ。我ながら恐ろしい輝きを生み出してしまいましたぁ。フヒィイ!無理無理無理。輝きが強すぎて、私、溶けてしまいますぅう!」
正に恍惚という顔を曝した女性、名をミスクレーンと言う。ハベにゃんと並んで、カルデアの服飾部に属するものだ。その彼女が、デロデロに蕩けた状態でマスターの部屋から出てきた。
ということは……?
「あの、……」
オベロンに脇を突かれて、顔を引きつらせ半笑いの笑みを浮かべたアルトリアが彼女に話しかける。その声に、溶けていた女は自分の傍に他人が居るという事実に気が付く。失礼しました!と口元の涎を拭いながら、しゃんと背筋を伸ばす。
「麗しの妖精の方々。大変お見苦しいところをお見せし、誠に申し訳ございません。……でも、あぁ、ああ!マスP様の艶姿!どうにも私この衝動を抑えきれず!ああぁ、――しゅきぃ」
凛とした佇まいは10秒と持たなかった。再び、冷たい廊下の壁に頬ずりを始めた女を二人は隠しようもなくドン引きしながら、見つめる。埒が明かぬと思ったオベロンが、お大事に~☆と言いながら、彼女を放ってマスタールームへと足を踏み入れる。おっかなびっくりオベロンに続いてアルトリアも彼女の横を通り過ぎた。抜き足差し足。
「マスター? 失礼するよ」「お邪魔します~」
二人の声に部屋の中の人物が振り返った。何時も奔放に風に閃く橙色の髪は見当たらない。その後ろ毛は、緩やかに巻き取られて、紫色の花飾りに仕舞われている。その為、彼女のほっそりとした首が曝されて、蛍光灯の明かりを直に受けていた。常ならぬその後ろ姿に二人は言葉を失う。
「オベロンにアルトリアじゃん。どうしたの?」
藤丸立香・人類最後のマスターであるその人が振り返れば、カランコロンと心地いい木の音が彼女の足元から鳴る。彼女の礼装の白とは異なるものが彼女の身を包む。長方形と言えばいいのだろうか?ストンと直線のシルエットに黒いラインが横切るように彼女の腹の少し上を走っている。白いその布はよくよく見れば、銀糸の文様が入っているようで、キラキラと照明の光を反射している。二人は知らないが、透かし織りという技法で繊細に仕立てられた布地を組み褪せて作った、ミスクレーン渾身の浴衣であった。その上に、キリリとした黒が差し色として引き立てる。こちらもただの黒ではない。薄く碧みがかった光沢のある生地だ。しゃらりと彼女の耳元で紫の花枝垂れが鳴る。聖杯からの知識でそれが藤の花を象ったものだと二人は理解した。藤――、彼女の名を冠する花。扇状の何か、団扇と言うのだそうだ、を手に持って、立香がはにかんだ。
「立香、――綺麗」
すっかり止めていた息を押し出すようにして、アルトリアがうっとりと呟いた。いつもの、元気印花丸満点の溌溂美少女ではない。しっとりとした、大人の女性の美しさだった。ぷっくりとグロスで彩られた口元をゆるりと持ち上げて、立香が頬を染める。少しだけ伏された瞳が羞恥を湛えたまま、二人に向かう。
「『夏祭り』って分かる? 私の居た故郷でね。夏になると、色んなところでお祭りをやるんだ。花火に山車に、色々。出店も。そういう時にね、これ、浴衣っていうんだけど。伝統衣装になるのかな。こういうのを着てね、皆でお祭りを楽しむんだよ。……そろそろ夏だね、って話をしてた時にうっかり浴衣の話をしちゃったら、皆やる気になっちゃって」
えへへ、と再び照れ臭そうに立香が笑う。随分と久方ぶりに着た故郷の服。それが懐かしくて、嬉しくて。立香の心の躍る様が手に取るように分かる二人には、それは眩しいものだった。今も部屋の横の廊下で溶けているであろう彼女程ではないが――。
『綺麗だよ』と嘘か本当か分からぬ言葉をオベロンが言う前に、他のサーヴァント達が乱入してきて、あっという間に彼女を連れたってしまった。慌ててアルトリアは彼女を追い、オベロンは独りマイルームに居残る。本日のマイルーム当番だった。誰の目も無くなったところで、姿を第三臨のものへと変える。少しだけ猫背になり、気だるげにベットへと足を進めた。――と、鏡の前で自分の姿を見やる。白い草臥れたブラウスに黒いマント。彼女の凛とした佇まいとは似ても似つかない姿だ。
(別に。どうとも思っちゃいないさ)
は˝ぁ~と腹の底から息を吐きだしながら、オベロンはマスターのベットの上に倒れ伏した。遠く、部屋の向こうから、ピーピードンドンという楽器の音が聞こえる。その音を聞きたくなくて、頭からシーツを被った。暗い視界の中、眠りを必要としないはずの彼はウトウトと微睡む。その鼻腔に嗅ぎなれた少女の匂いが届く。彼女の残り香。いつも通りのその香りに安堵しながら、オベロンは意識を手放した。
(――ロン、)
奈落の底を回帰しながら眠りの狭間にいるオベロンが、誰かの声を捕らえた。聞こえる。ああ、その声は聞いたことがある。全て終わらせて、眠りついた彼を呼ぶ声。きみの声は何時だって……。五月蠅いぐらいに良く聞こえるんだ。
「オベロンってば!」
暗闇に光が突き刺した。瞬く目を横に向ければ、シーツを両手に立香が立っていた。
「もー、ずっとここで寝てたの?」
お祭り終わっちゃったよ?と浴衣に身を包んだ立香が嘆息する。
「ふあ~あ。……どうでもいい」
「さいですか」
案の定、興味など無いというオベロンの様子に立香は肩を降ろした。まあいいかと彼女が再びオベロンに言葉を掛ける。
「私、シャワー浴びてくるから。戻りたかったから、部屋に戻っていいからね」
オベロンから剝ぎ取ったシーツを二つ折りにして、ベッドの端に置いた彼女は、くるりとその背をオベロンに向けた。ゆらりと黒い帯が弧を描く。だからだったのだろうか、咄嗟にオベロンがその背に手を伸ばしてしまったのは。
しゅるり。
あまりにも呆気なく、その帯はオベロンの手の平に収まった。
「「え?」」
異口同音が部屋に落ちる。二人は呆然とオベロンの手の平の帯を見た。オベロン自身それほど力を込めたつもりはない。殆ど無意識に行われたそれ。力など込めようも無い。けれど、帯は稚く解かれた。
「ちょ、ちょっと!?」
腰ひもがあるため、着崩れはしなかったものの、帯が無くなって一気に頼りなくなった我が身。立香は慌てて胸元を押さえた。彼女の脳裏に浴衣を仕立てたミスクレーンとの会話が蘇る。
『マスP様。折角の休日ではございますが、ここは戦の最前線。いつ何時、有事が起こりえるとも限りません。……ですので、この衣は着脱が容易になるように仕掛けをしております。芯であるこの端を引いて頂ければ、するりと脱げますので』
恐らくオベロンは、的確にその端を掴んでしまったのだ。この男、いらぬところで幸運EXを発揮しよる。オベロンに詰め寄る寸前、もう一つの言葉が立香の脳内で再生された。
『ええ。ええ。殿方の手は煩わせませんとも!』
ホホホと笑う彼女のその言葉の意味をその時は良く分かっていなかった。スタッフに着替えを手伝ってもらうことは無くも無いが、何故に男性限定?と首を傾げただけだった。オベロンの手に収まった黒い帯を見て、その真意を理解する。かぁと立香の頬が朱に染まった。
(つまり……そういうこと!?)
ここで忘れてはならないのが、オベロン・ヴォーティガンという男の存在である。彼はもはやチートとも呼べる妖精眼持ち。彼女の脳内など握った帯のように簡単に手に取れる。
「へえ」
暗い昏い井戸の底を思わせる声が立香に投げかけられる。彼は嗤った。
「一体、何処の馬の骨――、いや、英霊の殿方を想定していたのかな?」
「ち、違う!そんなんじゃないから、もう!……いいから、その帯返してよ!」
立香がオベロンの手から帯を取り返そうと詰め寄った。それをひらりと避けたオベロン。ととと、と立香の足元がたたらを踏むも、鍛え抜かれた反射神経でなんなく事なきを得る。拳に力を込めて振り向いた立香の足元が思わぬほど深く、もうひと揃え、立香よりひと回り大きな足元に交わる。
(え――?)
立香の目の前に立つ、オベロンの両手に帯の端が握られている。自分の背を押した存在が何か、一瞬分からなかった立香だが、それは彼の手に握られた黒い帯だったと気づいた。鼻先が振れそうな程近くにオベロンが居る、その事実に立香の鼓動が大きく跳ねる。からからに干上がった喉から絞り出すように立香が言葉を発する。
「帯……返して」
「返してるだろ?」
にやりとオベロンが笑う。違う、と内心で立香は反論する。上手く言葉にならなくて、困り果てる。揶揄われているのが分かっているけれど、どう躱せばいいのか分からない。心の距離も、そして、現在のこの身の距離も――。分からないから視線を逸らした。その逸らした先に姿見があり、立香とオベロンの姿を映し出していた。男女がこれ以上ない程近くに寄り添う姿。ともすれば、抱き合っているようにも見える。彼と彼女を繋ぐ、黒い帯。命綱のようなソレ。ふと鏡越しのオベロンと視線が交わった。
「――ねえ」
立香はその声に応えない。もう一度、オベロンは鏡の向こうの立香に呼び掛けた。
「この、ユカタ?だったけ。この色さ、今気づいたけど」
ドンとオベロンの胸元を押したが、よろめきすらしなかった。流石は英霊。ちくしょう。と立香は唇を噛んだ。
「あは! やっぱりそうなんだ? これ、俺の色か」
白いブラウスに白い着物。黒い帯と黒いマントは、とてもよく似た色合いだった。古今東西。誰かをイメージした色を纏う意味は、それほど差異が無いのではないだろうか?――その誰かを想う心は、きっと世界共通だ。
クスクスと笑う声に耐えきれず、立香は狭い囲いの中でも必死に体を反転させてオベロンに背を向けた。両手を顔で覆ったまま。その縮こまる背に冷たい温度が寄り添う。
「りつか」
甘い音――。その衝撃たるや。動揺に揺らめいた立香の足元からカランと木が鳴る。咄嗟に両手を外して確保した視界の先、不埒な男の手が彼女の腰ひもを掴んだところを見た。
「待って!」
しゅるり。はらり。衣擦れと共に一気に彼女の胸元が緩んだ。顔から離した両手で袂をぎゅうと掻き合わせた。なんで?と震える彼女の声に、背後からオベロンがうっそりと微笑み、答える。
「おっと。間違って紐を掴んでしまった。ごめんごめーん。ほら、今結んであげるよ」
抜き去ったピンクの腰ひもを遠くの床に放り投げて、オベロンは黒い帯を適当に結び直す。緩すぎるその結び。立香は辛うじて片手を袂から放し、帯に手を伸ばした。もう少し縛らなければ、と思ったのだ。その体を後ろから抱え込んで、その作業を邪魔するオベロン。流石に立香が憤慨する。
「オベロン!やめてったら!」
後ろが向けないので、もう一度、鏡越しにオベロンを睨みつけた。その燃ゆる瞳を受け止めながら、オベロンは大きく口を開いた。がぷり、とその鋭い歯を彼女の項に突き立てる。びくりと立香の身が震えた。確かに噛まれているが、甘噛みだった。首の形を確かめるようにオベロンが数度彼女の項を噛む。そして、れろりと人より少しだけ長い舌で彼女の肌を舐め上げる。
「あっ!」
彼女の体がしなる。喉と顔を空に向けて、その背の感触から逃げようとする。ぎゅっと絞られた黒い帯がそれを許さない。ちゅっ、れろ、じゅう。と続けざまにオベロンが彼女の肌を吸い上げる。その度に、立香の口から酷い声が転び出た。彼女の腹の上にあるオベロンの手を握りしめ、必死に耐え忍ぶけれど、どうにもできず、足元が震えだす。カラコロと下駄が不協和音を奏でる。ひと際強く啜り上げてから、漸くオベロンは立香の項から口を離した。はぁはぁと息を荒げる立香の体をしっかりと抱きしめて、再び鏡越しに彼女と視線を合わせる。蕩けた蜂蜜色の瞳と蒼い瞳が絡む。
「ほら、見て。――俺の翅、きみのオビみたいじゃないか」
普段、飾りだと声高にいう彼の薄羽はひらりひらりと閃いている。蝶々結びの帯があるくらいだ。確かに、帯に見えなくも無い。でも、そんなことはどうだっていい。熱に浮かされた男と女が抱き合っている。その姿しか立香の目には情報として入ってこないのだ。ゆうるりと口角を上げて、オベロンが立香の耳元で囁く。
「今夜一晩だけ、……虫の翅の飾りはどう?」
きっときみに良く似合う、とオベロンが言った言葉に、立香は目元を涙を纏わせてこくりと小さく頷いた。
飛んで火にいる夏の虫とは、さて、どちらのことか。
――夜の熱に身を焦がす二人にはどうでもいい事だろう。
※立香ちゃんの浴衣が見たいという願望を形にした産物。まだ夢は諦めていないよ!
リーリーリー。
ああ、虫の音が聞こえる。自分程、虫に所縁のある者もいないだろう。
けれど、この虫の音は聞き馴染みが無い。普段、自分の周りをちょろちょろと徘徊する者たちとは異なる声。
はて、自分は一体どこにいるのだろう?
オベロンが自問した時、もう一つ、カラリと氷の音を拾った。
(――氷?)
それから、そよりと微風が自分の頬を撫でた。湿気を多分に含んだ、質量のある風だ。
纏わりつく空気はとても気持ちが悪い。しかし、その彼の嫌悪を宥めるように、微風がオベロンの前髪を揺らしていく。
(気持ちいい)
どこか肩に力が入っていたオベロンだったが、ゆるゆると体の緊張を解きほぐしていく。風に誘われるようにそっと瞼を押し上げた。
最初に、細い顎と白い首が目に入る。ぼやりとしていた視界に、橙色が見えた。
ぱしりぱしりと瞬きをしたオベロンの動きを察したのか、誰かが顔を傾けて――、その誰かの顔が夜に昇った月のようにオベロンの目の先に現れた。
「起きた?」「……立香」
藤丸立香――人類最後のマスター、……のはずだ。
どうして語尾があやふやになったのか。それは彼女の容姿が聊かオベロンの知っているものと違っていたからだ。
彼女に成りすました別人かというと、そうではない。違和感。それは、彼女が|大《・》|人《・》|び《・》|て《・》|い《・》|た《・》故に。
日本の|伝統的《クラシカル》な衣装、紺の浴衣に身を包み、橙色の髪を緩く結い上げて、飾り気のない黒の簪を刺している。
顔も幼さが幾分か抜け、シャープな面立ち。その金の瞳は変わらず、オベロンに真っ直ぐな感情を注いでいる。
彼女が手に持った|扇《うちわ》を動かした。そより――、再び、風がオベロンの前髪を揺らす。
視線を彼女から、上に横にやれば、どうやらアジア地方の民家らしかった。彼女の衣装も考えると、彼女の生まれ故郷の日本なのではないかと思われた。
リーリー。夜の庭からはひっきりなしに、虫の恋の歌が聞こえる。鈴虫。日本や中国に分布する。イギリス出身のオベロンに聞き馴染みがないのも当然だった。
日本の古民家、太陽が落ち切った夏の夜、オベロンはどうしてか大人の姿の立香に膝枕をされながら、涼を取っているらしい。
(どういう状況だ、これ?)
オベロンか、立香の夢だろうか――?それにしては突拍子が無さ過ぎる。
「オベロン?」
まあるい声が振って来る。逸らしていた視線を立香の顔に戻せば、どうしたの?と少しばかり心配そうな色が見える。
オベロンの妖精眼が彼女の心を映す。まるで幼子に見せる母親の愛情のように、温かい気持ちがオベロンにだけに向けられている。
どうしようもなく座りが悪くなって、オベロンが顔背けた。仰向けから横に顔を動かせば、彼女の柔らかい膝の感触とさらりとした浴衣の感触が彼の頬にダイレクトに伝わる。
無意識のうちに頬をこする動きをしてしまったようで、くすぐったいと立香の小さな笑い声が聞こえた。カッとオベロンの頬に熱が灯る。
(何やってるんだ……。これじゃまるで俺が――、立香に甘えているみたいじゃないか)
オベロンの葛藤を他所に立香が、「暑いねぇ」と独り言ちる。カラリ――二度、音がした。そろりと視線を横に、頭上にある立香の方に向ければ。
彼女が薄い茶色の、麦茶だ――が注がれたグラスを持っている。表面に水滴が付いたそれに、オベロンの喉が鳴った。酷く喉が渇いていることに遅ればせながら気づいた。
「それ、ちょうだい」
きょとりと立香が目を開いた。それから、少し気恥ずかし気にしながらも、眦を下げて微笑んだ。彼女の唇が、ガラスの淵に寄せられる。すうと液体が彼女の口に移動するのが見える。
意地悪な、とオベロンが思うか思わないか、直ぐに立香がグラスから唇を離してオベロンを見下ろした。
(あ――)
ゆっくりと彼女の顔が降りてくる。時にして、僅か数秒。柔らかく冷たい唇がオベロンのそれに重なった。その唇を味わうようにオベロンが彼女の肉を食む。彼女の唇が少しだけ開かれた。
こくり。冷たい水が、オベロンの渇きを癒す。ちゅっ、ちゅっと強請るように彼女の唇から雫を吸い込む。やがて、全ての水を飲み干して、冷たい唇がオベロンの元から去っていく。
水滴のついた唇を舌で舐めとりながら、彼は言う。
「どこで覚えたのかな……、こんな手口」
ぱしぱしと彼女の瞼が往復して、少しだけ、彼女の眉が顰められる。
「よく言うよ。こうしないと、直ぐに拗ねる癖に」
「はぁ?」
立香の言葉にオベロンは素直に驚いた。だって、彼らはただの主従だ。マスターとサーヴァント。契約上の関係。でも、――彼女の周りにいる英霊たちと一緒くたにはされたくなかった。
マイルーム当番なんて、まっぴらごめんだね!と言いながら、毎日のように彼女の部屋に入り浸った。立香も理由が無い限り、オベロンをマイルーム当番から外さない。はいはい、今日も君の嫌味が絶好調で何よりと肩を竦めながら、オベロンと下らない応酬をするのだ。共寝はする。けれど、色のあるものではない。胎児のようにお互いにすり寄って眠るのだ。それが、一番よく眠れると自然と二人は理解しあっていた。だから、こんなあからさまな接触は無かった……はずだ。
(何がなんだか。もう分からん、頭が痛い……)
ズキズキと痛む頭を抱えて、オベロンは思考を放棄した。そうだっけ、と言いながらボケっと虚空を見上げる。白々しいなあ、もう。と立香が悪態を吐いた。唇を尖らせたので、その濡れた赤がやけに目に入る。水分に濡れたその唇が室内の明かりを反射して、てらりと光る。
欲しいなぁとオベロンは思った。(もう一度、欲しい。)一度自覚すると、欲しくて堪らなかった。ねえ、と声を出す。我ながら甘ったるい声に吐気を催しそうになるが、零れてしまった音は取り返せない。
「もっと」
彼女の浴衣の袖を摘まんで、彼女の顔を見上げる。きょとりと顔を驚き染めてから、立香はゆるりと口の端を緩めた。少しだけ伏せられた睫毛が艶っぽい。見たことの無い大人びたそれにオベロンの鼓動が大きく響いた。
立香がもう一度、グラスの淵にその赤い唇を寄せる。こくりと口に液体が――。ごくりとオベロンの喉が鳴る。
(早く、速く――ソレをくれ)
見下ろした立香の瞳が月のように弧を描く。揶揄るような、その視線。妖精眼が彼女の心の言葉を、過たず伝えてくる。
欲しいの――?
「欲しい」
先ほど水分を含んだはずの口の中が酷く乾く。ああ、酷い。こんなに喉を喘がせたのは、いつ以来か。
立香が、右手で零れた橙色の髪を押さえながら、顔を近づけてくる。堪らず、オベロンが迎えるように首を上げて――
「寝顔でひょっとこの顔をするとは、斬新ですね」
バチリと切り替わった。けれど、視界はモノクロで焦点が合わない。パシパシと彼の長い睫毛を瞬かせて、漸く彼を見下ろしている人物の顔がはっきりした。
金の髪の少女、アルトリア――だった。カラリとオベロンの頭の後ろから氷の音がする。
「あ゛?」
「オベロン、大丈夫?」
今度は正真正銘、オベロンの知っている立香だった。彼女はサマーキャンプの服に身を包んでいる。夏の虫の声も、夜の密やかな風も、何もない。あるのは、燦燦と降り注ぐ真夏の日差しと波の音だけ。
ここまで来て、オベロンは漸く自分が周回中に暑さで倒れたことを思い出した。
「だから、着替えたらって親切に言ってあげたのに。頑なに『俺は君たちみたいな浮かれポンチじゃないから、絶対に着替えない』って意地を張って、――倒れてたら世話ないですよ」
はぁ~、やれやれとアルトリアが肩を竦める。ぐうの音も出ないとはこのことか。オベロンは無言を貫いた。
「オベロンの衣装、どれも厚着だもんね。ごめんね、疲れているのに気づかなくて」
最後のエネミーを倒したところで、急にぱったりとオベロンが倒れて、全員が大慌てになった。婦長にアスクレピオスを召喚して、速やかに応急処置を取った。大きなパラソルの下、大きな氷嚢と小型扇風機、簡易の冷却魔術をメディアたちに施してもらって、オベロンの復調を待っていたのだった。すっかり蒼褪めたオベロンの顔に立香が心配そうに手を当てる。
「本当にごめん。ついオベロンに頼り過ぎちゃった、ね。……ごめんね」
しょんぼりとした顔と声に、オベロンが鼻で笑った。
「今更だよ、きみ。……あーあ、喉が渇いた。麦茶が飲みたいな~」
はっと立香が顔を上げる。くしゃりと目元を緩めて、待ってて!とパラソルの下から飛び出していく。恐らく遠くにキャンプの準備をしているキッチン組に麦茶を貰いに行ったのだろう。
それを見送っていると、
「ところで、オベロン」
「何だい、アルトリア。俺は疲れているから、あまり話しかけないで欲しいんだけど」
「そうですか。では、手短に。――その伸びきった鼻の下、立香が戻る前に戻してくださいね」
オベロンは高速で手元の氷嚢をアルトリアに投げつけた! その動きを予測していたのか、アルトリアはさっと身を翻し、立香同様に砂浜を駆けて行く。
「やーい、むっつりー!」
「死ね!!」
中指を立てながら、オベロンは唾を吐いた。何たる不覚。気を緩め過ぎていた。がっくりと頭をシートの上に落とす。急に動いたので再び眩暈が襲ってくる。泣きっ面に蜂……。
はあ、と本当にしんどそうにオベロンはため息を吐く。
あれは、何だったのか。オベロンの欲望が見せた夢――?
(いやいやいや。違うし。妖精王にそういった俗物的なものは無い。無いったらない)
もう一度、アルトリアのむっつりー!という叫びが聞こえたので、中指を立てた。
違うと言うなら、後はもう未来視的な、予知夢的なものしかないのだが。
(いや、流石にあれは無い。だって、この旅が終わったら、俺たちは――)
頭を振って、瞼を完全に降ろす。下らないと唾棄しながら、瞼の裏にある夢の残照を追ってしまう。
……夏の夜の夢と割り切るには、惜しいという気持ちを捨てきれないオベロンだった。
※熱中症には気をつけましょう。人によっては幻覚が見えるほど重症になりかねませんからね。
「織姫と彦星って言ってね、地元じゃ有名なお話だったんだ」
「……ふーん。元は裁縫の上達を願う行事だったのが、今や欲望に塗れた願い事のごみ処理場ってわけか。ハハハ、気の毒~ぅ」
ちっとも気の毒そうに見えないが、オベロンは願掛け対象の二人を慰労した。
「まあ、君ならそう言うと思ったよ」
「あ、そ。じゃあ、聞くなよ……っと!」
ダークグレーの髪の美しい青年は、悪態1つ吐いて足元の枝を蹴り上げた。ぽちゃん! 音を立てて宙を舞った小枝は、暗闇の湖に落ちる。
夜空に浮かぶ美しい星々を映す水鏡が、落ちた枝の起こした波紋に歪んでいく。それをぼんやりと眺めて、立香は立てた膝の上でふうと息を吐いた。
「……何だよ。人の隣でため息を吐くとか、マナーがなってないんじゃないの?」
湖のほとりに寝転んだ姿勢で、オベロンは隣に座る立香をジロリと睨む。ゆるゆると頭を振って、立香がそれにごめん、と謝った。
「いやね。昔はさ、一年に1回とかさ。しんどいし、可哀想だな~って思ってたんだ」
「そいつは随分と傲慢じゃないか。一体何様のつもりなんだか」
鼻を鳴らしたオベロンの言に是と立香は頷く。
「ホントにね。二度と会えないことだってある。一年に1回だって、会えるなら……」
言葉の途中で立香が顔を膝の間に埋めたので、最後の言葉は音に成らずに消える。ともすれば、泣いているような姿勢だけれど、オベロンはこいつは|そ《・》|ん《・》|な《・》|事《・》|で《・》|は《・》もう泣かないと知っている。もう泣けなくなってしまった――が正しいのかもしれない。
「でも、どうせ欲深いきみ達のことだ。一年に1回が、半年に1回、3か月に1回、最後は毎日会えなきゃ――って不平を漏らすんだ。ほーんと、どうしようもないね☆」
ニッコリとオベロンは笑う。下らない。どうしようもない。救いようがない。愚か、愚か、ああ、なんて愚かなイキモノ、と笑う。
空笑いの声が夜の森の中に虚しく響いていく。虫の声も聞こえない。ただ真っ暗な森の中、星の囁きだけが水の中に落ちていく。はーあ、とオベロンが笑いつかれて、組んでいた足を地面に放り下ろした。
大きく息を吐きながら、満点の夜空を見上げる。キラキラ、綺羅綺羅、きらきら。星が瞬いている。あの星はとっくに死んでいるのに、どうして今も光っているのか。どうして、隣に座る女はとっくの昔に心が死んでいるのに、今も走り続けているのか。……オベロンには、さっぱり分からなかった。
もぞりと隣のイキモノが動いた。のそのそとオベロンの傍に寄って来る。オベロンは近寄るなと言おうかと思ったけれど、どんな惨めな顔をしているのか興味が湧いたので、何も言わずにその亀の歩みを見守った。間も無く、夜空を遮って琥珀の二陽が現れる。ああ、やっぱり――、その瞳は瞬いている。
「あいたい」
「……誰に?」
「君に」
「…………お前さ、ほんと馬鹿だろ」
「自覚は、あるよ。――でも、会いたい、の。会いたいよ、オベロン」
「……」
オベロンは、ため息1つ。太陽から雨が降りそうだったので、小さくそして愚かなイキモノの頭を自分の胸の上に落とした。
「だからって、星に願ってまで会いに来るなよ」
※6章クリア後、カルデアに召喚されていないオベロンと逢いたくて仕方がない立香ちゃんのお話