憧れというには温かすぎた、恋というには熱が足りなかった。
愛というには遠すぎた、恋というには畏怖があった。
時折、感情がマグマのように吹き溢れる日がある。
それは大きな特異点を解決した直後よりも、何でもない日常の後にこそやってくる。当たり前だが、そんな精神状態ではろくに眠れやしない。
睡眠不十分であれば、翌日のパフォーマンスは確実に劣化した。マシュにもダヴィンチちゃんにも気遣わせてしまうのが、煩わしくて、この嵐のような心を、他者に知られぬ内に片付ける方法を身に着けねばならなかった。アロマに、快眠枕、様々な睡眠導入を模索して辿り着いた方法が、一人演奏会だった。
轟轟と唸る海ではなく、静寂の白銀世界であったカルデアの記憶のひとかけらをなぞる。
アマデウスとマリーが、明日をも知れぬカルデアでの日々を慰める為、小さな音楽会を開いてくれたことがあった。天才の気まぐれと王妃の心遣いにドクター含め、カルデア中が熱気に包まれた。
『あわわわ、かの天才音楽家の演奏を生身で聞く日が来るなんて・・・す、すごいぞう! これはもう一生モノの思い出だね、立香ちゃん!』
「ドクター、すごいはしゃいでたなぁ」
鍵盤に忍び笑いが落ちた。いつぞやバレンタインでお返しにもらったおもちゃのピアノを指遊ぶ。
Twinkle twinkle little star
小さな歌声とゆったりとしたピアノ音が暗闇に跳ねていく。
How I wonder what you are
立香は囁くように、歌い続ける。
Up above the world so high
(ドクター、ドクター)
Like a diamond in the sky
(いつかこの歌が届きますように)
ひとしきり歌って立香は満足した。と、部屋の片隅のクローゼットを見やる。人目から隠れるように白い服があった。今夜は『アレ』に縋らなくても良さそうだ。
ほっと安堵のため息をつく。その顔はとても安心した風には見えず、反対に恐怖に色塗られていたが。
ピアノを窓際に戻して、ゆっくりと白いシーツと毛布の間に身を滑らせる。
(冷たいなぁ・・・)
冷えたベットの中で身震いを一つ、温めるものは何もない。
寒さに耐えるようにぎゅうぎゅうと瞳を閉じた。自身のぬくもりを逃さぬように必死に体を丸める。
(明日、明日も朝から周回だ。ああ・・・、レポート書いてないや。新しい編成の相談も出来ていない。
定期健診に来いって言われてたのに、ここ数日時間を作れてないし。全然だめだめだなぁ、私。
ちゃんと、ちゃんとしなくちゃ。ごめんなさい、ダヴィンチちゃん。
・・・ごめんなさい、ドクター)
次の日、立香は予定されていた周回タスクをこなして自室に戻った。
やることは山積みだが、時間切れ。重い溜息ひとつして、マイルーム担当のオベロンに声をかけた。
「私もう寝るから、オベロンも戻って?」
「なんだい、部屋に戻るなりあれやこれやと作業したかと思えば、労りも交流もなしに帰れときた。
随分とつれないじゃないか」
就寝の合図に寂し気な表情と声色を出すこの男は、その目に不機嫌さを隠しもしない。
今日だけでなく、いつもマイルームから中々出ていかないのだこの王子さまは。
だがいつにもまして、出ていく気配が無い。どうしたものかと立香が眉間に皺を寄せる。
昨日、落ち着いたと思っていた精神の不調は案外簡単にぶり返していたので、今日は早めに就寝したいのだ。――と内心穏やかでないマスターに気が付いているのかいないのか。
オベロンは声を弾ませて、提案してきた。
「今日は気分がいいんだ。折角だからきみに子守唄を歌ってあげよう」
(ウソつきめ・・・)
さあさあ横になって、と愛らしい笑みを浮かべたオベロンが猫の子よろしく立香をベットに放り投げた。
「ふぎゃ! ちょっとなにする・・・の」
枕に思い切り顔面から突っ込んだ立香は顔を上げた状態でフリーズした。彼女に覆いかぶさるようにして宵闇の影――オベロンがいたので。
「さてさて、小さなお嬢さんたちから仕入れたばかりのものだよ。お耳汚しを失礼」
つらつらと淀みなく口上を上げる唇から、聞きなれた旋律があふれ出す。
瞬く星よ きらき星よ
「え?」
黄金の瞳が大きく開いたのを、オベロンは面白そうに見た。
あなたの家は 御伽の家よ
どうしてその歌なのか、という疑問よりも、知らない歌詞のほうに驚いた。
ひかりの花が 夜毎に開く
艶めくテノールは温かくて、とても温かくて、目の縁がゆるゆると水幕に覆われていく。
「どうだい、初めての子守唄にしては中々だろう?」
「その歌詞・・・知らない。初めて聞いた」
小さな子供のように立香はもごもごと言葉を落とす。
「まぁ、時代や地域によって伝承も変わっていくものだからね。歌もイロイロなんじゃないか。
それよりきみ、これは子守唄だって言っただろ。さっさと寝ろ」
毛布を力いっぱい頭に被されて、息が詰まる。
ぎええ! 息が! 死ぬ!と立香は必死に布団を跳ねのけて、何とか鼻の頭まで外に出すことに成功した。
「は、間抜け面」
息苦しさから顔を赤らめた立香を小馬鹿にしたオベロンは、肘を立てて、横顔で見降ろす体勢だ。
異形とは反対の人の手で彼のマントを緩く振り上げて、そっと立香の上に下ろした。
立香の頭上にひらめいた一瞬、マントの内側には夜空のような模様が広がっており、美しかった。
ぼんやりとそれを見送った立香は、自分の斜め上右隣を見やった。オベロンは何も言わず、静かな瞳でこちらを見ていたが、ややして、彼の指が立香に近づいた。
ゆっくりと人差し指が瞼をなぞって瞳を下ろさせる。促された左目に倣って、立香は右目も同じように閉じた。閉じた瞳の先で、先ほどの夜空が瞬いている。
立香は大きくを息を吐いて、全身からゆっくりと力を抜いた。
一瞬の静寂の後、暗闇の中で、再び歌がゆっくりと空気を渡っていく。
静かに、静かに。光の輪のように。
あちらの空で きらきら光る
日ぐれの星よ 何見ているの
やさしい星よ きれいな星よ
立香に妖精眼も千里眼もないけれど。
彼女を見下ろしながら、歌うオベロンの姿が容易く思い浮かんだ。
(また知らない歌詞・・・)
でも、この歌をもっと知りたいと立香は薄れゆく意識の端で思った。
知らなかったが色々な歌詞があるのだなぁ。
面白いなぁ、今度調べてみようか。
自分が知るものよりとっても素敵な歌詞だし、何よりも――彼が歌ってくれたので。
尋ねれば彼は他の歌詞も教えてくれるだろうか?
教えてくれなさそう・・・、でも、何か供え物をすればワンチャン?
思考は纏まらず、徒然のままに消えていく。
ああ、なんだか、とても、――。
すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきて、オベロンは歌を止めた。先ほど触れた瞼の下には濃い隈がある。ろくに眠れていないのだろう。
起こさぬようにそっとその目の周りをなぞれば、小さな雫を拾った。朝露の如きそれを口に運び、舐めとる。
「甘い」
胡乱気にオベロンはクローゼットの奥を見やった。密やかに置かれたそれは真っ白な服。
藤丸立香にとって夜空の瞬く星がロマニアーキマンだというなら、それもいいだろう。
憧憬ならばよし、遠く導くがいい。だが、その渦に埋もれさせることは許さない。
「これはもう用無しだろ」
そう言って、ぱちんと指先一つ。オベロンは『白衣もどき』を虫たちで覆った。
真っ白なそれはざわりざわりと黒い蟲々に灰覆われ、やがて消えた。
そうして、他に何の音も無くなり、部屋の中には吐息が二つだけ。
今宵、少女が怯える冷たい夜は遠ざかった。
明日はどうだろうか、明後日は?
妖精王は言う、僕らはいつだって移り気で気まぐれ。気分次第さ、と。
けれど、彼はウソつきなので。
その気まぐれは、何時かの終わりの、――その時まで続くのだろう。