交響曲★六章:アイの生まれる日

その日、ジャンヌオルタはこの時間帯にティータイムをしたことを死ぬほど後悔した。
出来れば眼前の光景から目を逸らしたままにして置きたかったが、次回作へのネタになるかもしれないと必死で奥歯を噛みしめる。
紅茶を持つ手が震え、鮮やかな橙色の水面が波立つ。
「今日はきみの好きな南瓜のスープだよ。さあどうぞ」
オベロンの膝の上に乗せられた立香の口元に、甲斐甲斐しくスプーンが差し出された。
「お、オベロン。あの、私、自分で食べれるから。ほんと大丈夫だから」
そう?と差し出されたスプーンは大人しく引っ込められる。
「うん。うん。それから、えっと、その普通に座りたいなぁ…なんて」
「……(にこ)」
「はい、ごめんなさい。食べます。頂きます」
ひーんと顔を真っ赤にしながら、立香はスープを口に含んだ。その姿をじっと後ろからオベロンは見つめている監視している
口に含めば、舌の上にまろやかな野菜の甘みが伝わる。南瓜だけではなく、様々な野菜をベースにしたスープだと分かる。
「おいしー」
感嘆符こそ無いが、立香は嬉しそうにぱくぱくとスープを口に運び込む。その様子を、無表情に見つめる背後の男。どうみても事案。源氏警察が飛んでくる。
「先輩、良かったです!」
すっかり粗食になっていた立香が、嬉しそうに食事をする光景を見て、マシュは思わず瞳を潤ませた。これまでの辛苦に想いを馳せ、エミヤ(キッチン担当)も鼻の下に指をあてた。
「マシュ、貴方って…大概、その、アレよね」
疲れ切ったため息がジャンヌの紅茶の上に舞い降りる。すっかり冷めきったそれを口つけて、――ノンシュガーにすれば良かったと後悔した。それかミルク。
マシュを挟んだその隣にダヴィンチも座していた。うんうんと先ほどから何事かを考えこんでいる。
「うーん、なんだっだかなぁ。なんていうんだったかなぁ」
エミヤが、念の為と前振りしながらオベロンに食事の場だから虫は自重してくれと申し添えている。オベロンは心得ているよと頷いた。
そのやりとりを見て、ダヴィンチの脳は閃いた。パッパパラー。軽快に脳内トランペットが鳴る。
「メイトガードだ、これ!」
「何それ。」
我天啓を得たり!と立ち上がったダヴィンチに胡散臭げなオルタが突っ込む。
メイトガード:オスが外敵、若しくは同種のオスからメスを守るため、メスが食事している間ずっとそばにいて守ること。
ダヴィンチの即席・なぜなに昆虫講座に、マシュが熱く拍手を送る。
「よくクワガタとかが取る行動なんだけど。交配を終えたオスがメスの傍に常に控えるようになる。時には上に覆いかぶさったりして、周囲を警戒する。メスが無事に産卵できるように鳥みたいな天敵から守ったり、安心してエサを食べれるようにサポートするのが目的らしいよ」
少女の解説を聞き終えて、マシュとオルタはもう一度、オベロンと立香を見る。せっせと食事をする立香を後ろから、邪魔にならぬようにぴったりと体を寄せるオベロン。その両手は彼女の膨れた腹の上にそっと添えられている。
「「確かに」」言葉を揃えて二人は頷いた。

わぁとアルトリアはすっかり膨れた立香のお腹をおっかなびっくり見る。その様子を微笑まし気に、立香は見返した。
「あっという間に大きくなっちゃいましたね。……立香、体は大丈夫ですか?」
「うん。アスクレピオスや皆が色々と手を尽くしてくれているから」
その言葉に嘘はない。ないけれど、アルトリアの心配は消えない。未知に対する不安に心が揺れ続ける。
彼女の曇った表情に何を言うでもなく、立香は彼女に触ってみる?と尋ねた。
「え! …いいんですか?」
もちろんと立香は笑う。少しの間、視線を彷徨わせたアルトリアだが、意を決して、手を伸ばした。そっとその腹部に手を当てる。
布越しに触れた手の平から微かな魔力の色を感じる。ぽろりと彼女の青い瞳から涙が零れた。
「急に、ごめんなさい。もう……、嫌だなぁ。理由なんてないんですけど。私、わたし、立香に、幸せになってほしい。オベロンにも、この子にも幸せになってほしいです」
涙が止まらないアルトリアをぎゅっと立香は抱きしめた。大丈夫だよと彼女の心の声が聞こえる。ああ、とアルトリアは願いを込める。
ここにきて初めて知った神様という概念。神様何ているのかなって思っていた。神霊サーヴァントを見ていると全てがむちゃくちゃになるけれど。今、いてほしいと思った。
(神様、この世界の何処かにいるかもしれない神様、お願いです。立香とオベロンの子供を守ってください。どうかどうか――)

オベロンは図書館通いを再開していた。彼の目の前には沢山の蔵書が積み上げられている。
鬼気迫る様子でページを捲っていた彼は、一区切りついたのか、文字を追っていた目を瞑り、はあとため息を吐きながら天を仰ぐ。
苦心を繰り返すオベロンのその前に男がひとり――座った。
暫く沈黙して、オベロンは無言で槍を出現させた。そして、その槍を――ダンッと重厚な木目の机の上に突き刺す。
「……」
「よくもまあ、この俺の前に姿を現せたもんだな。ご機嫌麗しゅう、
ウィルリアム・シェイクスピアは、おお怖いと肩をオーバー気味に持ち上げて驚いて見せる。そして、右手を胸に添えて口上を述べる。
「ご機嫌よう、我が息子、我らの麗しき妖精王。そして、どうか、今この時のみ、吾輩の存在を許されたい」
「世界の終わりが来ようとも、一時たりとてお前の存在を許すことはないだろう。奈落の底が落ちる前に、疾く消えてくれ」
「いやはや、取り付く島もないとはこのこと。方々からも苦言を賜りまして。吾輩としては、良かれと面白かれと、ただその一心故の創作なのですが。誠に遺憾です。が、まあそんなことはよろしい。
此度の慶事――世界を引っ繰り返しても前代未聞の大事。吾輩としても何か贈らねばと思った次第でして、ええ。」
「不要そして無用、さようなら」
「ああ、やはり。――
思わぬ一言にオベロンは閉じていた目を開く。何が言いたいのか。いや、そんなことはどうでもいい。この男をこの場で殺せば、立香は怒るだろうか。怒るだろうな。人理も成した今、1人サーヴァントが消えたところで支障は無かろうに。
自分の死を一切の迷いなく敢行しようとしている災厄を前にして、シェイクスピアの顔に恐怖は無い。むしろ、今日はなんと良い日かと言わんばかりの笑顔で、彼は言葉を紡いでいく。
「貴公は、吾輩の奔放で愛すべき妖精王ではない。人理に置き去りにされた娘を守り、そして導いた古の妖精王こそが貴公の本質なれば」
人の認識というのは恐ろしい。真実は嘘に。嘘は真実に。かつて、どこかで探偵が話していた与太話をオベロンは思い出していた。
「妖精王、星を探す人よ――。既に貴方はご存じでしょう。運命とは星の中になく、貴方の中にこそある。そして、きっとこれが我々が交わす最後の言葉になるのでしょう。『どうか偉大なる古妖精オベロン殿に幾千幾万の祝福がありますように』」
シェイクスピアの言葉と共に、かちりと何かのが動いた。けれどそれは、人の世の何かを齎すような、時代の何かを改変させるような、そんな大層なものではなく。
ただ、誰かの嘘が真実に変わった――それだけ。誰に時を知らせるでもなく、誰に知られるでもなく、小さなその変化は『そのように』と世界に受容された。

祈りの間。カルデアにおいて、各個人の信仰は尊重と自由の名の下に与えらている。誰を、何をと定義することなく、この部屋は祈りの場として機能し続けてきた。
静謐と神聖に満ちた場にひとり、聖女・ジャンヌが両手を組んで祈りを捧げている。
「ジャンヌ。今日も祈りを?」
「天草殿……。はい、私に出来ることは神に祈りを捧げるだけですので」
聖女に『祈るだけ』と言わしめるのは聊か過小が過ぎるなと、白髪に十字架のペンダントを下げた青年は苦く笑う。
「私も共に祈りを捧げてもよいでしょうか」
「勿論です。祈りましょう――、我らが主に」
どうか彼らを導き給え。彼らに加護を与え給え。
聖女が、神父が、法師が、英雄が、祈る。ただ一人の彼らのマスターが為、彼らの神に祈りを捧げ続けた。

 

沢山の願いと祝福と祈りを集めて、その日はやってきた。

医療ルームの前にただ扉を見つめて、オベロンは立っていた。この奥に、立香がいる。数分前に産気づいた彼女が運び込まれたばかりだ。
カルデア中が息を潜めたような静寂の中で、じっと扉の向こうを見つめていた。
「オベロン」
アルトリアが彼の背に声をかける。彼女の隣には村正が立つ。
「立ち会わなくていいんですか?」
暫く彼は答えなかった。数分か数十分か。静寂の終わりに、彼は呟いた。
「もし、生まれてきた子供が立香を苦しめる存在だったら、俺はどうすればいいのかな」
「…………」
「そもそも、ちゃんと生まれてくるのかな。俺みたいに、ぐちゃぐちゃのどろどろの何かだったら? 生まなければよかった、って。生むんじゃなかった、って。――馬鹿みたいだ、本当にどうしようもない」
どうして自分だったんだろう。どうして立香と自分は。とオベロンは言った。その先は言葉にならなかった。
その細い背中にアルトリアが縋る。額を彼の背に当てて、彼女は泣いた。村正がオベロンの隣に立ち、その手で彼の頭を抱き抱える。
「もし、もしも、どうにもいかねえっていうんだったら、儂が斬る。恨め、恨んで恨んで、どうして自分の子をと罵ればいい。……絶対にお前さんに選ばせたりしねえよ」

(苦しい――)
立香は止まりそうになる息を必死に繋ぎ止めていた。何度も意識が遠のきそうになる。その度に、ナイチンゲールが彼女の頬を叩いた。
本当に容赦がない。痛いな、と立香は笑った。痛みには慣れていたけれど、これまた別の苦しみだ。だから、馴染みのある痛みのお陰で目が覚める。
もう何時間この息苦しさに耐えているのか、後どれだけ耐えれば終わりが来るのか。考えないようにしても、勝手に弱音が心の底から湧き上がってくる。
(オベロン)
別れる瞬間、泣きそうな顔をしていた。どうして彼がそんな顔をするのかなんて、立香にはお見通しだ。きっと今頃、こんなことならと後悔しているんだろうなと思った。
馬鹿な人。そんなこと、許さない。勝手に恋をしたのは自分だけど。その恋を拾ったのはきみなのに。今更捨てるなんてこと絶対許さない。
段々と腹が立ってきた。お陰さまで力が湧き上がってくる。ああ、早くきみを抱きしめなくちゃ。途切れそうな意思を何度も何度も繋ぎ止めて。長い苦しみの終わりに、歓声が聞こえた。

金と銀の色を持った赤ん坊は、若い母親の胸に抱かれながら眠っている。

「ずっと名前を考えてたんだ。スピカ――星の名前だよ。どうかな?」
「スピカ…うん、かわいい。スピカ、ねえ、貴方の名前、スピカだよ? 私達の可愛いスピカ、生まれてきてくれて…ありがとう」