前奏曲★消えゆく火に

太陽が沈み、昼間の暑さが嘘のように涼やかな風が海から流れてくる。ざあん、ざああんと揺れる波間の向こうの夜を眺めながら、オベロンは即席の椅子の上で蓄積した疲労を回復していた。
「あー・・・、だっる」
ヤドカリにチキンに、果ては鮫もどきと来たもんだ。一体汎人類史とやらはどうなっているのか、繊細な自分には到底理解できぬとオベロンはずりずりと椅子の背に預けながら悪態を吐いた。他人事であれば、さぞ手を叩いて嗤っていただろうに、当事者ともなれば捨て置けぬ。さて、明日こそこの周回地獄から抜け出さんが為、どうやってマスターと仲間たちを出し抜いたものかと考えていると、――さくさくと砂を踏む音が近づいて来た。
「うわ、めんどくさいのが来た」
「ひどっ。そこまで邪見にしなくてもいいんじゃないですかね」
ひょこりと、マスター・藤丸立香がオベロンの背中から現れる。手には何かよく分からないものを携えているようだ。興味も無いので、オベロンはしっしっと彼女を追い払う仕草をするが、どこ吹く風、彼女は虫の王の隣に座ってきた。
「誰も隣に座っていいとか、言ってないんですけど?」
「おやおや、こんな人の手の無い場所で所有権を主張されるとは思わなかったなぁ」
ああ言えばこう言う――本当にこの娘が苦手だ、と心中でオベロンは舌打ちした。現実でも威勢よく舌打ちの音がしたが、気にしてはいけない。これ以上付き合うとこちらが疲れる。さっさと用事を済ませてもらうべく、オベロンは話を促した。
「それで? 何か用なの。見てわかる通り、俺は昼間きみにこき使われたせいで、とーーーってもお疲れなんだよ」
笑いながら米神に青筋を浮かべるオベロンに、あはははと立香は笑いを零して、彼の眼前に手の内の紙を差し出した。
「花火、もらってきたんだ。一緒にやらない?」
「やらない。それ、向こうでやってるやつだろ?煩くてかなわないよ」
「そうかー。ああでも、これ線香花火だから」
線香花火?よく分からないが、どうでもいい。早く何処かに行ってほしいとオベロンが口を開こうとした時、シュッと彼女がライターの火を灯した。タイミングを見失ってしまったオベロンが口が少し開いたまま、仕方なく閉じる。ゆらりとか細く灯された火は、紙縒りの先端に触れ、……やがて、ぱちぱちと火花を散らしだした。火花の中央に緋色の光が実る。橙色の美しい火の実は、小さな火花と踊りながら徐々に上に昇っていく。
「ね。うるさくないでしょ? 私、線香花火好きなんだよね」
「……」
確かにこれはうるさくないけれど、そういう問題ではないのだが、と座り悪くオベロンが再び口を開こうとした時、つぅと――紙の端から、光の玉がすだれ落ちる様が目に付いた。そして、光は地面へと。

「あ! ちょっと、オベロン、何してるの!」
気が付けば、手を差し出していた。ぽとりと落ち、既にあらかた黒い残滓となった火の玉がオベロンの手の平にある。慌てて立香が彼の手の平の状態を確認しようとした。――けれど、告げられた彼の言葉に息を飲み、その動きを止めた。
「きみも……こんな風に消えていくの」
緋色の玉は、彼女の髪の色。命を散らすように明日へと駆け抜けていく様は、火花のそれ。やがて、命の火を燃やし尽くして、彼女は先の玉のように地面へと落ちていくのか。世界を救うものの最後がそんなものでよいのか。……良いはずがない。そうだろう?と問いかけるように、オベロンは胸の内に暗く渦巻く感情を彼女にぶつける。

立香は暫く何も言わなかったが、波風に手が冷たくなりはじめた頃、そっと彼女の白く傷ついた指でオベロンの手に触れた。そして、ゆっくりと。手の平にあった黒い残滓は風に攫われるように滑り落ちて――、今度こそ、砂の地面へと落ちる。波音だけが二人の間に響いていく。引いていく波の上に、マスターが音を零した。
「花火、綺麗だった?」
オベロンはその言葉に先ほど見た火花を思い出す。パチパチ、パチパチと闇の中で弾けた光の煌めきを。
「……最後までみっともなく火花を散らして、実に憐れだったよ。涙がでるくらいに、ね」
そう、と立香がため息ともつかぬ言葉を零す。先ほど触れた手は繋がれたまま。静寂のそこに、マスター!と彼女を呼ぶ声が少し離れたところから飛び込んでくる。はーいと立香は手を振りながら、立ち上げる。その際、彼女の指はオベロンの手からするりと離れていった。オベロンは視線だけでその指を追う。
一歩踏み出したところで、立香がオベロンを振り返った。
「はい、これ。しけっちゃうから、使い切ってね」
じゃあまた後で、と先程の雰囲気など微塵も感じさせない笑顔で彼女は去っていた。無理やり押し付けられた線香花火を手の平に転がして、オベロンはふんっと忌々し気に息を吐いた。シュッと先ほどの彼女のように火をつける。
(消えないように火を灯さなくても、いずれ使えなくなってしまうなんてね。)
なんと皮肉な道具か。パチパチと上がる火花を眺めながら、オベロンは今も走り続ける我らがマスターの後姿を思い浮かべる。キャンプファイヤーの火が彼女の髪の端を火花のように照らしていた。もの想い耽る彼の眼前で、花火は瞬く間に火花を散らし、…やがて小さくなる。玉が落ちようかという時、おもむろにオベロンは花火を持ち上げた。増えた重力に従い、玉がふるふると震えて――、ぷつり。宙へと落ちる。
その落ちる火を、オベロンはがばりと大きく開いた口で。熱が、舌を、喉を、腹を伝う。常人なら悶絶したであろうが、彼はサーヴァントなので、チリチリとした痛みを感じた程度。所詮その程度しか感じられないそれは、酷くあっけなく彼の体内に消えた。喉元に手を当ててオベロンはため息を吐く。
「つまらないな」
もう一度深く、椅子に背を預けて、オベロンは夢想する。この火の玉は、火薬の味しかしなかったが。もし、もしも、あの娘を吞み込んだならば、どんな味がするのか。到底そんな真似は許されはしないが、せめてこの下らない世界の日々の慰めにそんな妄想くらい許されたいものだ、と。彼は頭上の王冠を外して、砂の上に放り投げた。