「わぁ!」
裾に広がるフリルは大胆に波打ち、繊細な花のレースがその千重波を縁取る。艶やかに浮き上がった刺繍を彩るのは、桃色に染まったパールの輝き。
「どうだい? ボクの新作のドレスは」
ほう、と少女は感嘆の吐息を漏らす。白い頬はほんのりと桜色に染まり、薄青の瞳はきらきらと星を瞬かせた。
「すっごく綺麗! いいなぁ、私もこんなドレス着てみたい!」
しかし、興奮に飛び跳ねたのも束の間。
少女の頭はがっくりと落ち込む。それを見たハベトロットはからからと笑い声をあげた。
「アハハ! そんなこと言ったら、君のパパが泣いちゃうよ」
スピカは腕組み、幼子に似つかわしくない大人びた表情で頷いた。
「分かってるわ。……パパ、私達のこと溺愛しているもの」
ウェディングドレスを着たい……などと言おうものなら、卒倒するか、ひたすら美しい笑顔で相手のことを聞き出そうとするに違いない。
たとえ、幼子の戯れ言だったとしてもだ。
「まあまあ、いつかは君も素敵な花嫁になる時が来るよ。その時は、ボクとクレーンが腕によりをかけて最高のドレスを仕立ててみせるとも!」
「ほんとー⁉ 約束よ? あ、そうだ! その時はママと同じドレスの意匠がいいわ!」
スピカは名案とばかりに声を張り上げた。
彼女の母と父は世界で一番素敵な恋人だ。
英霊であり妖精王である父は、モニター越しに見るどんな人物よりも美しく。そして、そんな父が恋する母は、誰よりも強くて優しいひと。古今東西の英霊達が友と呼び慕う、輝かしい善性の人間。戦時に、怯むこと無く英霊達と共に駆ける母は、スピカにとって憧れる女性のひとりだった。
そんな母が来たウェディングドレスはきっと世界一素敵なドレスに違いない。そう、思っての発言だった。
――が。
「え、なあに? 私、変なこと言った?」
凍り付いた工房の空気に、スピカは組んでいた手を解放し、落ち着き無くスカートの横に降ろした。
「は、ハベにゃん?」
深く項垂れ、ぶるぶると震える糸紡ぎの妖精。妖精はしな垂れた顔をギギギと壊れた人形のように錆び付いた動きで上向かせ。
「しまったーーーーーーー!」
たー、たー、たー。
暴力的な慟哭は、ぐわんぐわんと工房の壁をうねり天井へと跳ね上がった。
「なるほど、それでこの始末なわけか」
全身をメジャーで縛り上げられながら、立香は乾いた眼でマシュへと視線を投げる。
「盲点でしたっ! 私としたことが。言われるまで気が付かず!」
後輩失格です……、と大地に両手をつく後輩に立香は「服が汚れるよ~」と暢気に声をかけた。
「サッイアクだよ! ボクとしたことが、ボクとしたことが! マスターの結婚式を失念するなんて‼」
うわああああ!
ハベにゃん達は狂乱しながらも、手際よく立香の体のあらゆる部位を測定し続ける。流石はプロ。どんな時もその手元だけは冷静だ。憤怒収まらぬ一同を見回しながら、立香は内心でどうしたものかなと頭を悩ませた。
(皆に内緒で結婚式をしてるって、言いづらいなぁ)
実は……。
オベロンと立香は、坂本夫妻とリゾート地で内々の式を挙げていた。それは、立香本人も知らされていなかったサプライズのウェディング。自分の好み全開で選んだドレスを着た妻を独り占めしたいというオベロンのお願い(我が儘)だった。
とびきり甘い一夜に、立香は身も心も溶かされてしまった。(まあ、その後、すったもんだがあったりもしたが、それはそれとして)その独占欲を愛おしく思いはすれど、後悔したことなど無い。無いのだけれど……。
(でも、この騒ぎはちょっと考えておくべきだったなぁ)
うぬぼれでも良ければ、自分の花嫁姿を見たいと思ってくれている人はそれなりにいるようだ。その人達のことを慮れなかったことは反省したいところ、二回目のウェディングもやぶさかでは無い立香だったが、ただひとつ、問題があるとすれば……。
「臍を曲げなければいいけど」
「何か言ったかい?」
「ううん、なんでも無いよ」
立香にだけは甘えを見せる夫たっての我が儘を反故にしてしまって良いものか。
(うーん、……)
両手を水平に伸ばしながら、うんうんと内心で悩む立香、そこへ、ふらりと一人の青年が衣装チームの工房へ入ってきた。これも以心伝心のなせる技か。見当たらない立香を探しに来たオベロンだった。丁度良い、此処らで一度切り上げようと立香はハベにゃん達に申し出る。了解したと一同は漸くメジャー巻きの状態から解放してくれた。
その間、オベロンはこれは一体何事かと近場に立っていたマシュに尋ねた。そして、ことの経緯を並々ならぬ情熱交じりに説明するマシュ。かくかくしかじか、うまうままるまる。
全てを聞き終えたオベロンは粗野に腕を組むと、「ふうん」と一言呟いた。
(あ、あ、ああ~!)
これはいけないと立香は、素早くオベロンの腕を取って廊下へと走り出る。
「先輩⁉」
「あとでー!」
驚く一同を置き去りに、立香はマイルームへ。扉を潜るやいなや、くるりと身を反転し、オベロンと顔を突き合わせる。そして、矢継ぎ早に弁明の言葉を並び立てた。
「あのね、あのね、これには事情があって……。オベロンの気持ちも大事にしたいんだけど、皆の気持ちも考えたくて――」
「別にいいけど?」
「そうだよね、嫌だよね。……ん? ……え⁉ い、『いいけど』ぉ⁉」
だからそう言っているとオベロンは頷いた。暫くぽかんと口を開けて放心していた立香だったが、むっつりと口を閉じ、眉間に眉を寄せる。
(なんか、……面白くない)
オベロンは、口元を隠しつつも酷く愉快そうに笑った。
「ふはっ、……。なんだよ、その顔。俺が拗ねるとでも思ったのか?」
「そ んなことは、ないけど」
動揺で目が泳ぐ立香。そんなことあります、と雄弁に物語っている。オベロンは意地悪げな笑みを浮かべ――。
そのまま、立香の唇に噛みついた。
「ンッ」
乱暴な接触に反して優しい口づけが二度三度。唇の合間から舌先が口内に忍び入り、つるりとした前歯の裏側を舐めあげていく。くちゅり、くちゅりと甘い蜜の音を響かせた。
しばしその甘露を堪能し……。
最後に唇を柔く吸い上げて互いの唇を解放する。
「ん、」
「いいんだよ……。あのドレスで乱れたきみを俺だけが知ってる」
それで満足しておくさと笑うオベロンの胸元を立香は力の籠もっていない拳で叩いた。ぽすぽすと叩くその手を受け止めながら、オベロンはそのまま立香を包み込むように抱きしめる。
そして、――愛おしげに彼女の腹を撫でた。臨月を迎えた立香の腹部は大きく膨らんでいる。その中に、彼らの新たな子供がいる、はずだった。
「……どこか、悪いところは?」
「ううん、大丈夫」
寄せられた緋色の頭を自分の肩に乗せて、オベロンは気遣わしげな溜め息を零した。
――思い返すは数ヶ月前の医務室。
「見えない?」
そう、とダビンチちゃんは神妙に頷いた。
「確かに反応がある。けれど、モヤモヤと煙がかったような映像で赤ん坊の姿が見えないんだ」
モニターに表示された腹部の映像は確かに赤ん坊の鼓動を伝えているが、中央に丸い黒煙があるばかりでその姿は案と知れない。スピカ達の時には無かった現象だ。
「男の子か、女の子か。……人の姿をしているか、どうか」
酷く言いにくそうに万能の天才が零す。
オベロンは震える手で口元を押さえた。胃の中が全てひっくり返えるような衝撃。喉奥から酸にまみれた胃液がせり上がってくる。
(――化け物が!)
とうとうオベロンが危惧していた事が起こってしまったのだ。
「ねぇ」
オベロンは身を振るわせた。
「赤ちゃん、ちゃんと生きてるんだよね?」
それだけが気がかりとばかりに。
意表を突かれたダビンチとオベロンは僅かの間、黙り込んでしまった。喉奥をつっかえさせるように、うん、大丈夫だと榛色の少女が言えば、立香は「良かった……」と心の底から安堵し、労るように腹を撫でた。
オベロンと立香、二人の視線が交差する。
何を、言えば良いのか……。果たしてオベロン自身にそれを尋ねる権利があるのかすら、分からなかった。言葉にならない想いに、オベロンの唇は震えることしか出来ない。
――だから。言葉の代わりに空っぽな瞳で立香に尋ねた。
(人の形をしない何かが生まれるかもしれない。それでも、きみは……)
オベロンの無言の問いに返されたのは――。
何時か見た桜花のように柔らかな、愛しい人の微笑だった。
◆ ◇ ◇
「はぁ……」
胸の奥に疼く嫌悪を紅茶と共に飲み下す。
「そう、思い詰めなさんなって」
「立香が覚悟を決めているのに、貴方がそんな風でどうするんです」
村正がその背を撫ぜるように叩き、アルトリアが檄を飛ばした。何時もの面々の変わらぬ調子に、オベロンの横顔に苦笑が浮かぶ。部屋の隅に置かれたティーテーブルの一席から、部屋の中央――様々な布を宛がわれる立香を眺めた。
マイルームでの小休止の後、再び立香は連れ出されてしまった。もはや何度目か分からぬ採寸と仮合わせの為、立香の回りには衣装部の面々がわらわらと取り巻いている。それだけではない。結婚式と聞いて、彼方此方からサーヴァント達が押し寄せてきては冷やかしていく。
「お喜び申し上げます、お館様! これ程の慶事がありましょうや」
「ウェディングパーティとかまじアガる! これはもう全力で祝うしかないっしょ!」
「素敵だわ、素敵だわ! ああ、物語の花嫁さんを見れるなんて!」
「ええ、ええ、なんて素晴らしいの! 子供たち、貴方の家族に祝福があるように。ヘラ様と世界に代わり、私が祝福しましょう」
「料理はどうする? イタリアン? フレンチ? それとも、和食かね? フッ、ならば食の神髄、もはや宝具と言っても過言では無い私の秘技の数々をお見せするとしよう」
「食材なら任せておきな。猪だろうが、マグロだろうが、一番デケェ獲物を捕ってきてやるよ」
まさに上も下もの大騒ぎである。
まったく、とオベロンの顔に呆れが混じる。
「どいつもこいつも、……暇なのか?」
「まあ、暇と言えば暇ですかねー。ですけど、それだけじゃないですよ」
NFFサービス・CB(カルデアブランチ)。人理救済後に突如として魔術世界に参入した勢力である。コヤンスカヤとゴルドルフを旗頭に、古今東西の英霊を擁するチート集団。目下として、時計塔を始め魔術師協会や国連からは危険視されつつも、何でも屋として依頼を請け負うことで細く曖昧な協力関係を築いている。如何に相手を出し抜くか、毎度毎度、接触の度に狐と狸の化かし合いを繰り返すという薄氷の上に立っている。(所長改めゴルドルフ支部長の胃が大変なことに……)
なんだってまたそんなことになったのか。
理由はたったひとつ、藤丸立香を守る為だ。
当初、カルデアは解散もしくはゴルドルフの元、規模をゼロに近い形に縮小する予定だった。ところが、……。なんという奇跡、いや運命の悪戯か! 藤丸立香は、英霊であるオベロン・ヴォーティガンの子供を身籠もってしまったのだ。一般人になるはずだった彼女の処遇が百八十度変わった瞬間だった。
こりゃいかんと、慌ててカルデアスタッフは身の振り方を変えた。(これは後々に分かったことだが。一般人として放免すると言っていた魔術師教会が実は裏で藤丸立香の誘拐を目論んでおり、結果的にはファインプレーだった)しかし、相手は海千山千の魔術師協会。さてどう対応したものかと頭を悩ませるカルデアスタッフ。
そこへ鶴の一声ならぬ兎の一声を上げたのが、コヤンスカヤである。
『そもそも、マスターは将来、我がカンパニーにお迎えする予定でしたのよ?』
あれよあれよという間に、カルデアを掌握し、NFFカンパニーの支部扱いにしてしまった。ぶっちゃけ掌握というか、無抵抗で受け入れたという方が正しかったりする。
え? なに? フジマル、カルデアに残るの?
あ、じゃあ、残りまーす。
……というようなノリの軽さで、多くのスタッフ達が帰宅準備を取りやめてしまった。
『良かったの?』
立香は恐る恐る尋ねた。
『良いも悪いもあるか! 大体カルデアは私が買い取ったんだぞ? 時計塔に取り上げられる謂れは無いわ』
『いやまあ、とんでもないことになったとは思ってるけどさ。そもそも、時計塔が嫌でこっちに来てるんだし。今更、他に行けって言われても正直困ってたんだよな』
『アタシはカルデアが無くなるなら、時計塔に戻ろうかなって思ってたけど。でも、正直、あっちよりこっちに居る方がしっくり来るって言うか。……そもそも、こっちの方が技術的にも世界観的にも凄いし。むしろ時計塔に戻るメリットある?ってなっちゃったんだよね』
そうそうと一同、肩を組んで頷いた。
その返答にぎゅっと眉間に皺を寄せ、唇を噛みしめた立香の頭をスタッフの一人が乱暴に撫ぜる。
『世界を、俺たちを、守ってくれてありがとう。……今度は俺たちがお前を守る番だ』
――と、このように。NFFサービス・CBは別名『藤丸立香を守ろうの会』になっている。その彼女の結婚式ともなれば、当然、猫も杓子の大騒ぎになるわけだ。
お祭り騒ぎの部屋の中、ドレスや装飾具を片手にワイワイと騒ぐ人々。アルトリアは、テーブルに両膝をつけて頬をこれ以上無いほど緩ませた。
「んふふ」
「なんだよ、気味が悪いな」
ぼかっ!
「痛ったいなぁ!」
「殴りますよ」
「もう殴ってるだろ!」
「二人の結婚式、すっごくすっごーく楽しみなんです!」
「…………」
殴られた頭に手を置いたまま、オベロンは沈黙する。すると、村正が人の悪い笑みを浮かべて言うのだ。
「儂もな、年甲斐も無く楽しみにしてるぜ」
オベロンはますます据わりが悪そうに身じろぎし、悪態をつく。
「なんだよ、じいさんの癖に。珍しくもなんともないだろ」
そんな彼に村正は、ただ穏やかな眼差しを注ぐばかり。それどころか、トドメの一言まで放ってきた。
「家族だからな」
「……ッ」
「息子でも孫でも無いがな。それでも、お前さん達が『息災であれ』と願わない日はねぇよ」
オベロンは、じわりと浮かんだ目の奥の熱を下を向くことでやり過ごす。
そうあれと望まれてその通りに生きた(死んだ)。
星を望むべくもない。
願いなど持たない……はずだった。
「パパ!」
背中に飛びついてきたお転婆にオベロンは眉を下げる。
「やぁ、お嬢さん。随分と乱暴なご挨拶だ。それが最近の流行なのかい? 妖精王(ボク)としたことが知らなかったなぁ!」
ぷう、と頬を膨らませ、スピカはオベロンの背から飛び降りた。彼女の両サイドには、妹弟(きようだい)の姿がある。母親と同じ髪色と瞳の色を持った次女アルクトゥルス(トゥーリ)と、オベロンの髪の色と瞳の色を受け継いだ末っ子長男のシリウス(シリィ)だ。そして、銀の髪に琥珀の瞳、妖精王の真珠(と思っているのはオベロンだけで。その気性の荒さと有り余るパゥワー故に暴れ牛と森の賢人に言わしめた)、――第一子のスピカ。
オベロンが持つはずが無かった願い星達である。
彼らは普段と違う真っ白の衣装に身を包み、父親へ満面の笑みを向けた。
「見てー!」
スピカがその場でバレリーナのように回転(スピン)してみせた。体の動きに合わせて、スカートのシフォンがふわりと宙に舞う。
「クソ可愛い(馬子にも衣装だね)」
「オベロン、オベロン、多分逆ですよ」
トゥーリとシリィもカーテンシーのようにそれぞれの服を持ち上げて見せた。(オベロンは無言で目頭を押さえた。アルトリアは最早何も言うまいと首を横に振る)
「わたしたちねー、お花をね、ふわーってまくのよ」
「エウロペおばあちゃまが教えてくれたよ」
彼らは頭の上に花冠を頂き、嬉しそうにオベロンに報告をする。
「なんだいそりゃ」
村正が首を傾げた。それに、涼やかな声がふたつ返る。
「フラワーガールとフラワーボーイですね」
「花嫁の前に花を撒くと、花の香りで道が清められ、邪悪なものから花嫁を守ると言われています」
「うげぇ、バゲ子」
「うげぇ、モルガン」
冬の女王と忠なる妖精騎士の登場に師弟はそろって同じような反応を返す。
「……おっといけない。これはこれは女王陛下、ご機嫌麗しゅう」
オベロンが胸に手を当てて態とらしく礼を執る。が、モルガンはそんなオベロンの慇懃無礼な対応にも冷たい一瞥を投げただけで、すぐさま視線を村正と子供たちに向かわせる。
「子供たちよ、素晴らしい大役です。そして、我が妻に祝福を」
聞き捨てならぬ名称に、オベロンのツッコミが入る。
「俺の花嫁だが?」
モルガンは聞き流した。
「そして、貴方たちにも当日は飛びきりのプレゼントを用意しましょう」
「陛下は教会のデザインに心血を注いでおられる」
「え、待って。教会? 式場じゃなくて?」
「愚かな」
驚きの声をあげるアルトリアをモルガンは鼻で笑った。
「我が妻の晴れ舞台に場を一席用意するだけで満足するとは。これだから田舎妖精は」
「はぁー? そっ、そうやって、いつもやり過ぎて立香に窘められてる癖に!」
「なんだと?」
同じ顔の二人の間に火花が散る。
「いや、だから。俺の! 花嫁! だけど⁉」
オベロンは必死に抗議する。しかし、アルトリアもモルガンも取り合わない。そろそろ拳が出そうな勢いである。それを見て、またいつものヤツが始まったと村正とスピカの口から呆れの溜め息が零れ落ちる。 とそこへ――。
モォ~~。
一体いつの間に現れたのか、雄牛に乗ったエウロペがモルガン達とは違う方向からノッシノッシと歩み寄ってくる。室内で雄牛に詰め寄られるとは、中々に圧が強い。(カルデアでは日常茶飯事だが)思わず村正は身を仰け反らせた。
「お、おぅ。姫さん、」
「こんちは、子供たち」
千子村正、言わずと知れた名工刀鍛冶である。見た目は兎も角、精神は老成の日本男児。幾ら相手が神に連なる者と言えども、童扱いされるのは些か据わりが悪い。嫌っている訳ではないが、村正にとって少しばかり苦手な手合いだった。
「ギリシャでは子孫繁栄を願って、子供たちが麦の束を持ち、花冠を手に歩いていたわ。それが現代では、花を撒くという風習に変わったようなの。とっても素敵よね」
両手を合わせ、うっとりと瞼を閉じてその情景に思いを馳せる美女。ダビンチ達ら芸術家が泣いて喜びそうな題材である。実際、ゼウスによる彼女の誘拐劇は数多くの画家のテーマとなった。ゼウスと子を成した後、大神は彼女をクレタ王と娶せ、今の欧州の基盤となったとか。惨憺たるギリシャ神話の中では比較的幸せな結末と言えなくも無い。
しかし――。
家族の元から連れ去られ見知らぬ土地で子を孕まされた娘。両者の間にどんな情のやりとりがあったとしても相手が大神であることを考えれば、彼女に選択肢など無かったようなもの。そして、その後(手厚い贈り物があったとはいえ)その地に捨て置かれた彼女の境遇を考えると苦い思いを抱かざるをえない村正だった。
――彼とて。
農民と武家という身分差がある理不尽な世界で生きた人間だ。その手の話は嫌というほど見聞きしたし、生まれは変えられないのだから仕方無いと呑み込んだ憤怒は数え切れない。それでも、……それでもだ。それらの無情を良しとは思えなかった、それが千子村正という男だった。
むっつりと黙り込んでしまった村正に、エウロペは地母神に相応しい穏やかな笑みを返す。
「ひとりの殿方に、ひとりの婦人。そうあれたら幸せでしょうね。でも、私は確かに幸せだったのです。あの方に愛されて……、クレタ王にも、息子達にも、等しく愛を与えられました。だから、私はこれで良かったのです」
気負いも悲嘆も無くそう言い切ったエウロペに村正は心の中で詫びを入れる。
(死人に口なし。これ以上は野暮ってもんか)
ひとつ呼気を吐いて、口角を釣り上げた。スピカの頭の上に手を置きつつ、頭を下げてエウロペに会釈をする。
「そういう事に儂はとんと疎い。こっちの嬢ちゃんにたんまり聞かせてやってくれ」
「ええ、ええ、もちろん! ささ、子供たち。おばあちゃまが沢山お話をしてあげますからね。その可愛らしい衣装をよーく見せて頂戴」
背後の喧噪をBGMに、子供たちはエウロペの周りに集い、楽しげなひとときを過ごすのだった。
◇ ◆ ◇
ちくちく、ちくちく。一針一針想いを込めて。ハベトロットは人々が寝静まった夜にも関わらず、ひたすら針を進めていく。
クレーンは自室に押し込んできた。最高級のドレス生地を一週間飲まず食わずで仕上げた彼女には、ふかふかのベットこそがご褒美だろう。
「よぅし、イイ感じ!」
粗方の型ができあがったドレスをトルソーにかけてみる。妊婦のマスターの体に沿うように作られたそれは、長い裾を後ろに伸ばし、腰元に大きなバックリボンがあしらわれている。透明なシフォンで作られた立体的なリボンは、きっと彼女の背に翅が生えたように見えることだろう。
「フフ、妖精王の花嫁だもの」
オベロンは複雑そうな顔をするかもしれない。でも、きっと喜んでくれる。
(あの娘は人間だ)
人間であることを厭うているわけでは無い。むしろ人間だからこそ、あの娘の魂は輝く。その背に翅は無くとも同じくらい素敵なものが、あの子にはあるのだと伝えたかった。
ハベトロットは、もう一度そのドレスを端から端まで眺め見た。
「いいなぁ」
子供がキャンディを強請るような声だった。焦がれる指先で、けれど、リボンの形を崩さぬようにそっと指先を触れさせる。
「ボクも花嫁に……」
くるりと巻いた長い髪。手足や胴体より長いそれは、大人になることの出来ない自分へのささやかな抵抗だったのかもしれない。
(なりたかったなぁ)
今一度、ハベトロットが心の中で呟く。
「まぁ、仕方無いんだけどねっ。こればっかりは、さ」
無理矢理自身を励ます言葉を紡ぐ。けれど、視界に滲む水滴はじわりじわりと涙の幕をせり上げていく。
「ぐすっ」
――背が大きかったら。
――手足が長かったら。
「ボクも、……素敵な花嫁になれたのかな」
詮無きことと知りつつ、夢想する。このドレスを身に纏う自身の姿を。ぽつり。瞳の舞台から迫り堕ちた涙が、遙か下の床に落ちて弾けていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。
小雨が大雨になる直前。
「ええ、きっと。この世の誰よりも美しい花嫁に」
夜の部屋に零れ落ちた鈴の音よりも清廉な声。居るはずの無い第三者の声にハベトロットは驚き、背後を振り返る。
「君は……」
背後に立っていたその人物は、ハベトロットよりも長く美しい髪を揺らめかせながら微笑んだ。
「貴方の望みを叶えましょう」
宝石のような瞳には深紅の炎が映っている。
「ふわぁ……」
クレーンは寝ぼけ眼を擦りながら、衣装工房(アトリエ)のドアを開く。
「すみません、ハベトロットさん。私としたことが、うっかり気絶しまいまして」
大きな作業台とトルソーが幾つか、仕掛かり中のデザイン案がボードに幾つも張り出されているその木造の部屋の中。小さなピンク色の妖精の姿は見当たらない。
「あら?」
留守にしているのだろうか。仮型のドレスも見当たらない。部屋をもう一度見回す。――キラリと照明の光を反射した何かの光を捉えた。控えめな、けれど決して消え得ぬ銀色の輝きが作業台の上にぽつんと落ちていた。クレーンはその眩い輝きを手に取る。
「……針」
これはハベトロットの仕事道具。職人の命とも言えるそれが無造作に机の上に放置されている。
ぞわりと背筋が震えた。
「――っ! ハベトロットさん!」
体当たりをする勢いで部屋の外へと飛び出したクレーンのその耳に、つんざくようなアラーム音が響き渡った。
「これは特異点なの?」
管制室のモニターを見た立香が発した言葉は天才少女ダヴィンチによって否定される。
「いや、特異点とは人類史に多大なる影響を及ぼす歴史に落ちたシミ、悪性因子だ。対して、この空間は我々の現実世界に落ちたシミ、空間の揺らぎと言い換えることもできる。……つまり、異界への入り口だろうね」
「異界――」
ただ音にしたというように繰り返す立香の言葉に、万能の天才ダヴィンチは肩を竦めながら頷いた。
「桃源郷にエリュシオン、地獄や冥府、そして妖精郷。名前は幾らでもあるよ」
古来より日本でも神隠しに題されるように、今目にしている世界とは異なる世界、けれど確かに現実世界と隣り合った地続きの空間。現代風に言うなれば、私達がいる場所とは異なった層、所謂レイヤーの世界のことだと彼女は言う。
「それが突如として、南極から少し離れた場所に現れた」
月の巡り合わせ、カルト集団の儀式、偶然の産物、そういった何かの拍子で異界の門が開いてしまうことはある。魔術に携わるものなら、その程度の神秘に今更驚いたりはしない。けれど、今――。魔術師の集まりであるカルデアは、今回の異界の出現に警戒心を高めている。理由は明確だ。
その入り口がカルデアと同じ位相に現れたからだ。
「我々は、魔術師教会からの干渉を避ける為、ほんの少しだけ現実世界からずれた位置に拠点を構えている」
仮に魔術師教会の者達が南極を訪れたとて、そこにカルデアは無い。一流の魔術師ならば、その絡繰りに気づくことは容易であろうが、数多に存在する位相の何処にカルデアが存在しているかを探すことは困難を極める。例えるならば、水の中に隠れている魚が、池のどの深さに存在しているか正確に言い当てられないのと同じようなものだ。そして、池が深ければ深いほど、その特定は困難を極める。
「だというのに、その異界の門は我々の位相に一ミリのずれもなく現れた。カルデアに何らかの関係があるということは明白だ。そこに合わさって、ミス・クレーンからのハベトロットの失踪報告があった。これほど分かりやすい符号もないだろう」
それで、とオベロンが口火を切る。
「誰が犯人なわけ? 身内の犯行なのは間違いないんだろう?」
オベロンの追求に、ダヴィンチはやや芝居染みた動きで肩をがっくりと落として見せた。
「それがさぁ……。事が起きて大慌てで、各サーヴァントの所在を確認したんだけど。よりにもよって、モルガン陛下の姿が見当たらないんだよねぇ」
「まーた、あのお騒がせ女王様かよ」
頭が痛いとオベロンが片手を額に当てる。
「で、では、ハベトロットさんがいらっしゃらないのは」
「大方、モルガンが連れて行ったんだろう」
「なーんか教会作るとか張り切ってましたしね~。あのひと」
マシュの疑問にオベロンとアルトリアが似たような表情で口を歪ませながら答えた。
しかし、それに異を唱えたのはクレーンだ。
「いえ、それはあり得ません」
どうしてだい?とダヴィンチが尋ねると、クレーンは懐から一本の針を取り出した。
「これが仕舞われずに作業台に放置されていました。同じ職人として断言いたします。ハベトロットさんは仕事道具をないがしろにするような方ではありません」
「ふうむ。それは、確かに不自然だ。作り手として私も違和感を抱かざるを得ない」
モルガンに無理矢理連れ出されたのでは?とアルトリアがしかめっ面で告げれば、今度はマシュが異を唱える。
「それこそあり得ません。ハベトロットさんはモルガン陛下の大事なご友人です。確かに暴走することはままありますが、ハベトロットさんを無理矢理引っ張っていくようなことはしないはずです」
――ヒヤリとした空気が流れた。
再び管制室に落ちた沈黙を、オベロンが打ち破る。
「いずれにせよ、直接問い質すしかないだろ」
彼らの視線の先――。まるで生き物の息づかいのように脈動する蜃気楼がひとつ。薄い乳白色を纏ったそれは微粒な光を放ちながら、来訪者を待ちわびていた。
◇ ◇ ◆
シェリーコートが身に纏った貝殻を鳴らしながら歌う。
さあ踊りましょう 踊りましょう
昨日の晩と同じように
次いで、パドルフットが足元の水を跳ねさせながら歌った。
右手をちょっぴり振ってみて かろころからころ
左手をちょっぴり振ってみて ころからころから
そしたら、今度はおつむをちょっぴり振ってみて
ぐるぐるぐる 世界が回ってでんごろりん!
歌の通り歌い終わった彼らは一斉に後ろにごろりと転がり、ケタケタと笑い声を上げた。――彼らだけではない。右を見ても左を見ても、そこかしこで思い思いの妖精達が歌と踊りに興じていた。
「何だこりゃ」
呆れた果てたオベロンの言葉に一行の誰もが口を噤んだ。えいやっと異界の門をくぐってみれば、絵の具で描いたような森の中。用心に用心して進んだものの、実に陽気に妖精達が踊り歌う長閑な世界が広がっていた。さしもの村正も乾いた笑みを落とすばかりだ。
一方、子供たちは大いに喜んだ。
「わぁ~~、すっごぉーい」
「猫が二本足で立ってる……! ケットシーかなぁ?」
「あれはメロウ? うーん、シーブかしら?」
興味津々、妖精に近づこうとする子供らをオベロンが窘めた。
「こら。安易に近づくな。妖精なんて碌なもんじゃないんだからな」
「おう、妖精王(お前さん)がそれを言うのかい」
「まあ、あながち間違いじゃないんで」
村正のツッコミに、ぽりぽりと頬をかきながらアルトリアがフォローする。妖精という単語に良い思い出が無いのは彼女も同様だ。村正も思うところがあり、二の句が継げず。きゃあきゃあと父親の手から逃げようとする子供たちを眺め見るしかない。
そこへ――。
「おほん」
騒いでいた子供たちが一斉に姿勢を正した。
咳払いの主である孔明が火の付いていない煙草を片手に眼鏡を押し上げた。
諸君、と落ち着いた声が子供たちの頭上に降り注ぐ。
「今回、君達を特別に連れてきた目的は何だったかね」
そろりとスピカとトゥーリが視線を交わすその反対で、シリィが手を上げた。孔明は頷いて先を促す。
「魔術の実践的な訓練と異界空間への耐性検証です」
「よろしい。申し分ない回答だ……だが、その割に随分と『遊び心』が過ぎるようだ」
勢い良く伸びていたシリィの首が亀の子のように引っ込んだ。スピカとトゥーリもそっと孔明から視線を逸らす。やれやれと言いながら孔明は言葉を続ける。
「君達はまだ幼い。好奇心が疼いてしまうのも仕方ないことだろう。だが、いくらこの異界が身内が作成したものであっても、不足な事態に対する警戒を怠ってはならない。魔術師の端くれであるならば、尚のこと。陽気な見た目に惑わされないことだ」
はい、と些か気落ちしながらもしっかりとした返答に孔明はうむと頷き、保護者に視線を移す。
「全く。奈落の虫が聞いて呆れる。子煩悩もほどほどにしたまえ」
「……ぐぬ」
オベロンはもにょりと口を動かしたものの、沈黙は金、雄弁は銀とばかりに黙り込んだ。否定できないのは多少なりとも自覚があるからか。それに対する追求はせず、孔明は今一度周囲を見渡す。
「さて。オベロンの肩を持つわけではないが……。こと調査という我々の目標において、聴取の相手が妖精というのはやりにくいことこの上ないな」
妖精國の妖精ほど邪悪でないにしろ、妖精というのは得てして厄介な存在だ。気まぐれという概念をそのまま形にしたと存在と言っても良い。彼らは超自然的な存在であり、地域毎に様々な形を取る。一説には、神格を剥奪された故に小さな姿へ変じたとも言われている。人の益になることも無いわけでは無いが、多くは悪戯や災い、時には命を奪うほどの脅威である。そんな相手に必要な情報をどうやってまともに聞き出したものやら。
「ま、普通ならそうだろうね。正直見たくも無い相手だけど、運が良かったと思おうか」
そういうやいなや、オベロンの背に一陣の風が吹く。黒いマントは空色へ。蒼い王冠は金色へ。薄羽は鮮やかな鳳蝶へ。
妖精王オベロンの役を被った父に子供たちの目が輝く。
「王子様みたい!」
オベロンは子供たちにウィンクをひとつして、「王子だとも☆」と宣った。
「ホントよくやりますよ。外面だけはいいんだから」
アルトリアの嫌みに対して、オベロンは「騙される方が悪いんだよ」と行儀悪く腕を組んだ。べろりと化けの皮が剥がれた瞬間である。その後は態とらしく「おっと」と言いながら、傾いた王冠を整え直す。
「まあ、なんでもいいがな。一丁頼むわ」
村正が未だに踊り歌う妖精達に向けてくいっと親指を向ける。心得たとオベロンは鼻歌交じりに彼らに近づいた。派手な身なりのオベロンに、直ぐさま小妖精達は気が付き踊りを辞めて注視した。
「やあやあやあ。随分とご機嫌じゃないか、諸君」
「だれ?」
「なあに?」
「どこの妖精?」
「北かしら」
「西じゃない?」
代わる代わる物珍しげにオベロンの周りを取り囲む妖精達。その物怖じしない態度にオベロンはうげぇと吐きそうになるが、気持ち悪さを顔の下に押し込めた。
「なあに、君達がボクを知らないのも仕方の無いことだ。何と言ってもボクは王様だからねぇ。ボクはオベロン、――妖精王・オベロンさ☆」
ピタリと妖精達は動きを止めた。歌を歌っていた者も。踊りを踊っていた者も。ケタケタと笑い転げていた者も。一様に顔から表情を消して、オベロンを見つめた。
(何だ?)
予想外の展開にオベロンの内心に焦りが浮かぶ。これは一旦、退却すべきかと考え始め時、わあああっ!と歓声が上がった。
「妖精王!」
「妖精王さま!」
「こりゃめでたい!」
口々に祝いの言葉を叫びながら、妖精達がオベロンの細身を持ち上げた。
「お、おい⁉」
わっしょいわっしょい!
妖精達はオベロンを背に乗せると、森の細道へと移動を始めた。
「ええ~~~!」
「パパ⁉」
慌ててアルトリア達がそれを追いかける。アルトリア達には目もくれず、妖精の一団は楽しげに合唱を始めた。
おいしいパイを作ろう。おいしいパイを作ろう。
ポケットいっぱいのライ麦と十二羽のツグミを詰め込んで。
焼けたパイをふたつに割ると、あら不思議。
ツグミが出てきて歌を歌った。
これなるおいしいお料理は『妖精王様』に召し上がっていただく為。
おいしいパイを作ろう。おいしいパイを作ろう。
三樽分の大麦の粉と十二羽のウサギとを詰め込んで。
焼けたパイをふたつに割ると、あら不思議。
ウサギが出てきて歌を歌った。
これなるおいしいお料理は『妖精女王様』に召し上がっていただく為。
「妖精女王だって?」
聞き捨てならぬ単語にオベロンの声が低くなる。しかし、そんなオベロンの様子も気づかぬまま、妖精達は歌い続ける。ひとり、またひとりと妖精達が合流し、行進はどんどん大きくなっていく。
お祝いを! お祝いを!
妖精王様、ばんざーい!
お祝いを! お祝いを!
妖精女王様、ばんざーい!
それいけ やれいけ
妖精王様と女王様の結婚式だ!
それいけ やれいけ
お城で盛大なパーティを!
ばんざーい! ばんざーい!
行進団は森を抜ける。開けた視界に映ったのは、白亜の城。
「あれは……」
管制室の一席にて。マシュの口から小さなつぶやきが漏れた。
「あら。ご存じなの?」
立香を挟んだ反対側に座したエウロペがおっとりとした口調で尋ねた。
「間違いありません。あれは、シェフィールドのお城です」
堅牢な城壁に囲まれた白き城を、マシュが見まごうはずも無い。
「どうして、いえ、やはりモルガン陛下が、……」
混乱するマシュの言葉に、管制室内にも僅かな緊張が走った。立香は掌を爪が刺さるほど強く握り込む。
(妖精女王……)
しかし、それも一瞬のこと。ゆっくり掌から力を抜き、ふうと小さく息を吐いて背もたれに寄りかかった。――、視線を感じて左手に顔を向けると、エウロペが様子を窺うように立香を見ていた。
「ええ、ええ、分かるわ。私には貴方の気持ちが良く分かるの」
「……」
「心は不安でいっぱいなのよね」
「――」
「愛されていると理解していても、それでも心はざわめいて。その愛が本物なのか疑わずにはいられないのよね」
「……」
エウロペの言葉に黙して、立香は自分の腹部に手を当てた。此度の子供は随分と大人しい。あのシリィですら時折、トントンと腹を蹴っていたが、それが全くない。うんともすんとも言わず、自分の鼓動以外は無音のまま。靄の件も含めていつも以上に綿密に検査を行っている為、お腹の子が生きていることは確かだ。
……それでも、予想外な状態に不安は尽きない。カルデアが突然提案された結婚式を容認したのも、そういった重い空気を取り払わんとした故の気遣いだった。
(なのに、どうしてこんなことに)
身重の身では探索隊に混じることも出来ない。モニター越しに見ることがこんなにも心削るものだったとは。今は遠い背中を想う。
(ドクター、ダヴィンチちゃん、)
そして、顔を強ばらせて城門を潜る夫を見上げる。
(……オベロン)
ぷつり。
真っ黒なモニターは、何も映さない。
立香の心に渦巻く不安を煽るように。
――オベロン側の通信が途絶した。